真田幸村
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ななしのよっしん
2016/01/27(水) 06:34:50 ID: hg8vgtH8W6
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歴史なんて曖昧なものだし、あんまり一つの説に意固地にならん方がいいわな
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ななしのよっしん
2016/01/27(水) 06:52:32 ID: o0mV1aCT2k
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ななしのよっしん
2016/01/27(水) 11:54:08 ID: 11ut11eN29
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ななしのよっしん
2016/01/27(水) 12:38:15 ID: K3RsJT+m2o
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ななしのよっしん
2016/01/28(木) 00:18:03 ID: PsWCJnhnQI
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自演くせえのが湧いてるな
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277
ななしのよっしん
2016/01/28(木) 11:32:37 ID: K3RsJT+m2o
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ななしのよっしん
2016/01/28(木) 23:58:35 ID: kzqD0sTMbV
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279
ななしのよっしん
2016/01/29(金) 11:25:16 ID: K3RsJT+m2o
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280
ななしのよっしん
2016/01/29(金) 11:39:53 ID: K3RsJT+m2o
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ななしのよっしん
2016/01/29(金) 20:16:57 ID: kzqD0sTMbV
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>>279
>「義理堅く忠義に厚い」ように過去の大河やゲームなどで扱われているのが一般的だと思うがどうかな?
具体的にそう言う論評を聞いたわけではないのね。
大河ドラマでは大阪の陣ぐらいでしか出番無いから、「義理堅く忠義に厚い」ことを示すような描写は記憶に無いっすなぁ。
同じ『真田太平記』では、親父の遺命で大阪方に参陣したようなものだし。
『無双』シリーズは直江兼続のキャラ付けに巻き込まれたのと、史実で著名な合戦参加実績が無いが故に登場機会を嵩ます為の「義トリオ」だから、「一般的なイメージをゲームに反映した」とするには、ちと私は苦しいかなぁ。
>主体的に行動していないからといって昌幸の行動に全く関係ないと言うのはありえないし、主体で動いていないならば尚更の事、幸村が忠義に厚いと言うのはあり得なくなる
「主体的に動いていない」ならばそれは「主体的に動く意思が無かった」と言うだけ。それを「親父同様の表裏比興の者に違いない」と結論付ける点に論理の飛躍を感じるって話。
因みに私も別に、信繁を「義理堅く忠義心に厚い」とは、思ってませんけれどね。先述したように、評価するにはサンプルが少なすぎる。 -
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282
ななしのよっしん
2016/02/02(火) 20:21:54 ID: PsWCJnhnQI
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283
ななしのよっしん
2016/02/12(金) 14:36:25 ID: n+UZw679ki
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284
ななしのよっしん
2016/02/12(金) 15:35:51 ID: B7ENbr3TaE
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信繁に限らず、大阪の大物浪人衆たちは戦国の徒花って感じだよね。
天下泰平直前の、最後の最後に咲いた華って印象。
歴史好きの中には「乱」を嫌う人がいるけど、個人的には三英傑と同じかそれ以上に、こういう時代に逆らって死んでいき、やがて伝説になっていった人物は凄く魅力的に思えるな。
既に江戸幕府という武家政権は各地の大名に所領安堵が済んでいるのだから、もはや大名たちは豊臣家に感じる恩なんて無いわけで、豊臣家に果たす忠なんて必要無いんだよね(大名個人の恩義は別だけど、個より家を優先すべき時代)。
信繁や後藤又兵衛、御宿勘兵衛たちはその封建社会から弾かれた、もしくは自ら抜け出した存在なわけで、忠義と言うスケールで計るのは彼らの魅力を小さくしてしまうことだと思う(彼らが平身低頭して本来忠義を以って仕えるべき相手は藩主であり幕府だから)。
自分たちに死に場所を与えてくれた秀頼への恩はあっただろうけどね。 -
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285
2016/02/21(日) 20:54:03 ID: zvOF8W+vH7
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286
ななしのよっしん
2016/02/23(火) 08:47:52 ID: B7ENbr3TaE
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ななしのよっしん
2016/02/28(日) 11:29:50 ID: 3npFoNY/RQ
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288
ななしのよっしん
2016/02/28(日) 19:03:56 ID: 3npFoNY/RQ
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ななしのよっしん
2016/02/29(月) 11:53:10 ID: B7ENbr3TaE
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ななしのよっしん
2016/03/03(木) 22:19:36 ID: MSMjrwQ9uh
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ななしのよっしん
2016/03/04(金) 08:57:01 ID: B7ENbr3TaE
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ななしのよっしん
2016/03/04(金) 09:18:05 ID: B7ENbr3TaE
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ななしのよっしん
2016/03/04(金) 19:14:03 ID: 3npFoNY/RQ
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ななしのよっしん
2016/03/04(金) 20:17:44 ID: B7ENbr3TaE
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>>293
幕府方の引き抜きを断ったのは信繁だけじゃないですよ。
あと知行と引き換えの引き抜きを断ったこと自体が、忠義の為に戦っていたわけじゃないことの証左だと思うんですが、どうでしょう。
只でさえ兄や叔父が仕え、自分は父と共に命永らえることを許された徳川家に対して尽忠報恩を見せる絶好の機会を自ら蹴ったんだから。畿内の一地域を支配してるだけの当時の豊臣家に士が忠義を尽くすほどの徳や恩も無いしね。
まぁ斯くの如く言っても400年前の人の心なんて分からない。もしかしたら信繁が忠を尽くす程の力が豊臣家には有ったのかも知れない。でもそれは一般論ではなく、後世の人間には知りようの無いパーソナルな感情なわけで、小説家の想像にでも任せるしかないことだと思いますよ。
個人的には朱子学的な無償の忠義よりも、名誉や野心を重んじる武士像が好きなので、好きな武将へのそういう解釈はちょっと理解できないですけどね。 -
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295
ななしのよっしん
2016/03/05(土) 13:18:12 ID: 3npFoNY/RQ
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いや、別に朱子学的な無条件の忠義など言い立てるつもりはないが…朱子学の忠義は主君がどんな無道な暴君でも忠義を尽くすというものだが別に秀頼は暴君じゃないしね
そうではなくて、信繁が置かれた環境や個人的心情を一切考慮せずに「御恩と奉公」という公の関係のみで「忠義」を定義するのはどうかと思うのだが
そもそも前にも書いた通り、信繁と豊臣家との関係は深い。人質として長く秀吉の下にいて仕え、豊臣家との人々との関わりも深かった。正室は秀吉の忠臣大谷吉継の娘で、しかも秀吉が仲人だ。これだけ条件が揃ってれば普通に豊臣家への親近感と忠義の心が形成されていくのは何らおかしくない
信之(信幸)の名を出しておられるが、信繁と信之では立場が全く違う。
前述のように豊臣家との関係が濃密で家康との接点は極めて薄かった信繁に対して、信之は家康自身に抜擢されて取り立てられた上に、家康の忠臣本多忠勝の娘の小松姫を正室に迎えているのだからね。同じ土俵で論じるのがそもそも不適当だと思う -
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296
ななしのよっしん
2016/03/05(土) 13:30:57 ID: 3npFoNY/RQ
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「表裏卑怯の者」と呼ばれた父の昌幸も最初の主君である武田信玄には生涯変わらぬ忠誠心を持っていた。信玄の小姓として傍近く仕え、信玄に育てられ、抜擢してもらった恩があったからだ。そういう個人的な心のつながりを無視して形式的な「御恩と奉公」しか忠義の形はあり得ないというお考えはどうかと思う
「家康に生きながらえさせてもらった恩」と言われるが、何度も赦免されて故郷に戻る事を願っていた昌幸の訴えを聞き入れず、九度山で彼が死ぬように仕向けた家康の態度はいわば「蛇の生殺し」といえる
昌幸のそばで父の無念の最期を見届けた信繁から見れば、むしろ家康の無情な仕打ち以外の何物でもなく、恨みこそすれ、恩義に感じるいわれなどないと思う。何しろ昌幸が死んで後ですら家康は信繁を許さず、九度山で「蛇の生殺し」にするつもりだったのだからね -
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297
ななしのよっしん
2016/03/05(土) 23:43:50 ID: kzqD0sTMbV
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九度山で、髪が落ち歯がもげるほど困窮していたところを、破格の支度金で迎えてくれたわけだから、信繁から見れば秀頼に恩はあろう(信繁自身がどう思っていたかは別として)。
また、家康が昌幸・信繁の死一等を減じたのは「豊臣政権下の執政」としての裁可。九度山からの招聘は、本来主筋の豊臣家が恩赦を形式上与えたようなものなので、豊臣家への方が恩義はあるのでは?
とは言え。
件の信伊との引き抜き交渉の伝承が事実だとすれば、「豊徳間の和睦が成れば、大阪城を出て叔父上に仕えさせていただきたい」とのくだりから、信繁自身豊臣家へ忠勤を続ける意思はなかったともとれる。
今の身分を保証してくれている豊臣家が滅べば、幕府にとって信繁は蟄居先から逃亡した罪人でしかないわけで、保身の為の現実的な考えもあったのかもなぁ。 -
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298
ななしのよっしん
2016/03/06(日) 12:32:00 ID: MSMjrwQ9uh
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>>290で言いたかったのは、大坂に集った牢人たち全てがはみ出し者の典型というわけではなかった、ということなんだ
つまり「大坂に集った全ての牢人は名誉や恩賞のみのために戦い、忠誠心などはそれらに付随するものでしかなかった」というわけではないと
息子の大助が豊臣に殉じたことからして、幸村も利害抜きで豊臣に殉じる気持ちはあったんじゃないかなあ
けれど一家の主として地位名声を得て子孫に遺したい気持ち、家族の全滅を避けることの義務も同時に抱えていたのでは
あと集った人々の背景や思惑がバラバラだったとしても同じ城や陣地で生活して共に大敵と戦っていたら仲間意識が芽生えて、忠義とは別に豊臣が居場所というか心の拠り所になっていったかもしれない
ついでに後藤又兵衛の家来が残した史料から、豊臣秀頼は仕えがいのある主君だったことが分かる -
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299
ななしのよっしん
2016/03/06(日) 13:45:56 ID: 3npFoNY/RQ
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300
ななしのよっしん
2016/03/06(日) 13:47:23 ID: 3npFoNY/RQ
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>>298
そのご意見には全面的に賛同するよ -
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