691 ななしのよっしん
2018/08/10(金) 10:03:21 ID: L5foterR2J
>>685
外交関係は勢図に含まれないからね
直轄領だけで見れば豊臣秀吉>>>織田信長なんだが
織田信長の場合は既に長宗我部元親毛利輝元すら和の話が出てて
織田にあからさまな敵対行動やってたのは滅亡寸前の上杉景勝だけだった。
当時の織田向かおうと思ったら、ほぼ孤立援で戦う必要性がある
豊臣政権だと、伊達政宗徳川家康が北条の盟友だったから、
もし味方してくれれば勝算はあると考えていた節は否めない。
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692 ななしのよっしん
2018/08/10(金) 19:52:38 ID: GCWiLskSEf
>>690
と言うか実際に小田原征伐前の豊臣の動員って全盛期織田じゃないのでは?
寺直前の信忠信長)が九州四国中国の諸大名に「北条倒すから小田原に兵出せ」なんて言っても兵集まらないでしょ
北条が勢を伸ばしたのは確かだが、北条の見込み違いは豊臣を単なる織田の後継勢としてとらえてしまっていたことではないか
豊臣三好織田の様な近畿周辺を支配して地方の諸大名に号する室町時代下人の域を越えてるからなぁ
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693 ななしのよっしん
2018/08/14(火) 22:12:47 ID: L5foterR2J
>>692
的な話で言うと、小田原直前の豊臣全盛期織田はさして変わらないはず。
少なくとも1582年武田勝頼討伐の段階でいうと、織田信長の本隊6万、甲州征伐
織田信忠の軍勢3万、柴田勝家率いる北陸衆3万、羽柴秀吉率いる中国勢3万、計15万の軍勢が
最低確認されてる。ここに徳勢1万(天正壬午の乱より)、織田信雄織田信孝伊勢衆1万ほどを
足して、確実に判明、重複していない部分含めて17万くらい。

小田原征伐の時の豊臣秀吉軍は、関東秀吉上杉景勝勢、九州四国勢も含めて21万。
直属で率いられる軍勢だけを考慮すれば全盛期織田小田原直前の豊臣はさほど変わらない。

ちなみに、なぜこうなるかというと、まず戦乱の時代から太の時代に移行しつつあって、
戦争に従軍することを生業とする人間が減ったことと、遠隔地へ遠征することによる兵站、資面の問題。
大坂の陣の徳勢も日本から動員かけて30万人だからな。石高人員率考えたら全然少ない。
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694 ななしのよっしん
2018/08/14(火) 22:27:18 ID: L5foterR2J
なお、付け加えると三好長慶の最盛期における動員兵は教寺の戦いにおける6万前後。
三好長慶の最盛期11カの石高が約250万石。昔の基準でいう万石250人計算ですら大体6万人になる。
実際はもっと多いと思うが(万石250人計算は江戸の太を経て明治期の武士や軍人の率から算出)、
まあ三好長慶全盛期でおおよそ6万人の軍勢を掻き集めることができたということになる。

ちなみに織田信長の最盛期における石高は徳川家康の分を含めると、だいたい三好長慶の3倍。
なので、下人という括りで見ても、徳川家康の30万、豊臣秀吉の21万、織田信長の17万にべて、
三好長慶の6万という数字は色々と格落ちであり、三英傑と同列に扱われないのもやむしって感じだ。
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695 ななしのよっしん
2018/08/15(水) 09:37:09 ID: GCWiLskSEf
>>694
すげー単純なこと忘れてたけど信長秀吉軍事較をする時、上杉毛利ら旧戦国大名の諸侯やその大身の陪臣を「秀吉臣」としてカウントするか「秀吉に従う勢」と捉えるかで全然違うんだな
信長の場合一門以外の柴田、羽明智滝川ら大軍を率いている連中は信長臣だってことに疑問を挟む人はいないと思うが
確かに動員数は状況によって変わるものだからこれは較すること自体が間違ってたな、失礼いたしました。変動の少ない生産較するなら豊臣は関ヶ原前の蔵入地を含め222万石が最盛期だと思うが織田の直轄領はどれぐらいなんだろ
豊臣もそうだが「近江の一部」とか「和泉の一部」みたいな飛び地だらけで断続的な領有の仕方だから検知の資料でもない限りはっきりとは分からないか
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696 ななしのよっしん
2018/08/15(水) 18:36:06 ID: L5foterR2J
織田の直轄領」ってのがどの範囲をすかで変わってくる。
まず、本能寺の変直前の話で、「織田信長個人が直接管轄した土地」というのは非常に少ない。
これは、豊臣秀吉とは違い、織田信長子供恵まれたため、既に織田信忠織田信雄といった
自分の息子達に領土を分地していたから。自身の住まう安土城のある近江ですら
明智光秀坂本羽柴秀吉長浜丹羽長秀の佐和山、蒲生氏郷日野など分け与えてる。
安土城下も、実際には与だった長谷川秀一らが統治していたくらい。
駿時代の徳川家康みたいなもんで、まともな領地はほぼ持ってない。
一応近江、山伊勢の重要拠点付近は信長の直轄領扱いだったらしいが。
信長個人の直轄領」でいうなら30万石でも多いと思う。
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697 ななしのよっしん
2018/08/15(水) 18:48:50 ID: L5foterR2J
逆に、織田信忠織田信雄といった「織田一族全体の直轄領」で言えばかなり多くなる。
織田信忠信長から分地された尾美濃を皮切りに、織田信雄織田信包賀、伊勢の大半。
賀は信雄、信包で折半、北伊勢はこれに滝川一益領と織田信孝領が加わる。)
さらに養子政策で羽柴秀吉のもとに織田秀勝が入り、信長中根を称して三河にも入ってるから
これら含めれば単純計算で150万石はあるはず。もっとも、これは豊臣や徳もそうで、
豊臣や徳の直轄領に一門領(御三家など)は入っていない。
ただ、豊臣はもともと一門が少ない上に、豊臣秀長豊臣秀次系が断絶してる。
一応福島正則大谷吉継宇喜多秀家小早川秀秋あたりを強引に一門扱いすれば、
織田信長の体制で言えば、丹羽長秀池田恒興蒲生氏郷を「織田一門」扱いにする感じだが)
自体は伸ばせるとは思うが・・・・この4人は最終的に関ヶ原でどんちゃんやってるしな。
それ言ったら、織田信長死後の内乱も、羽柴秀吉柴田勝家池田恒興丹羽長秀
織田信雄織田信孝と一門戚同士の争いだったけど
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698 ななしのよっしん
2018/08/15(水) 21:53:36 ID: GCWiLskSEf
一般的に特定の直轄領をる場合、嫡流以外や一門衆の所領はどこまで含むのかね
江戸期の幕領で調べたら御三家は直轄領扱いだけど御三卿は幕領外としてカウントされていてよく分からん。学だわ

信長個人の直轄領が30万石ってのは随分多いな
その中に更に側近や出頭クラスの直臣への知行が含まれるってんじゃなくて、そのまますっぽり信長の収入になるって意味での直轄領という理解で良いんだよね?
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699 ななしのよっしん
2018/08/18(土) 01:56:28 ID: L5foterR2J
逆逆。「30万石もない」んだよ。
信長個人の直轄領は谷口広氏が自著で推測で出してるけど、
それを見てもやはり多いという感想は出てこないな。
むしろ本能寺の変の後に織田信忠の旧領が織田信雄織田信孝で折半されて
織田秀勝明智光秀の丹波貰って、それなのに当織田秀信坂本2万石で終わったのは
信長個人がど直轄領地持っていなかったもあるかもしれん。
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700 ななしのよっしん
2018/08/18(土) 21:02:04 ID: l6Q62ZigzO
普通子供にうん十万石とかいう領地渡してもしょうがないという事情はないのか?
仮に広大な領地渡しても補佐するやつが実質の織田になっていろいろ面倒くさそうになるが
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701 ななしのよっしん
2018/08/19(日) 04:12:26 ID: L5foterR2J
子供にたくさん領地与えるっていうのは他の政権でもやってるからね
大御所徳川家康時代の徳川秀忠足利尊氏息子関東方の祖である足利基氏
執権北条氏の得宗専制と元寇以降の領拡大などもある。確かに分裂、内乱、落の原因にもなるが、
結果的に一族全員が死に絶えることも減るんだよな。北条も、足利も、織田も、徳
下の座を失っても生き残った。特に織田や徳は、下人じゃなくなっても
それなりの地位を有して現代まで子孫続いてるんだから、長いで見ればそっちのがいいのかもしれん。
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702 ななしのよっしん
2018/08/21(火) 19:51:00 ID: GCWiLskSEf
>>699
個人の所領の30万石って少ないか?
近畿や尾美濃で内勤してる臣の知行に加えて柴田・羽滝川ら外征してる重臣に褒賞として与える予定の知行、地方の所領安堵された領たちのことを考えたらよく最盛期の信長とは言え30万石も持てたなと思えてしまう
信長の頃って検知は領の裁量に任せてるし秀吉家康の頃にべて金山山も少ないから信長個人の直轄領は多くても十数万石くらいだと思ってた
身内以外に対する褒賞の少なさも本寺の遠因になってたりするんだろうか
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703 ななしのよっしん
2018/09/06(木) 18:18:03 ID: l6Q62ZigzO
戦国小町苦労譚のノッブ良いな
いわゆる内政チートものだけどただ主人公の知識をそのまま使うんじゃなくてそれを応用しているノッブがおそろしい
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704 ななしのよっしん
2018/09/12(水) 07:11:08 ID: cLT+FKc6G3
あの作品はチートレベルの知識もった主人公よりもそれを適切に扱いつつ愉しみつつ最大効果持ってくノッブが一番ヤベーからなぁ。あのノッブホント好きだわ。
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705 ななしのよっしん
2018/09/18(火) 02:54:48 ID: 7CaA7BZE/t
信長は本拠地移転を行う事が多かったけど
信長の予定では当初は岐阜を永続本拠地にする予定だったのだろうか?
信長は勝から岐阜まで何度も本拠地を変更している)
結局日本統一の過程で戦略上の理由から安土城を建設したけど
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706 ななしのよっしん
2018/09/18(火) 03:00:04 ID: rRO6vfjFua
単に美濃時代は岐阜が一番良かっただけでしょ

本拠地というか織田の本籍は尾にあったな
常に族配置してるし、尾がやっぱルーツということで重視はしてたんだろうな
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707 ななしのよっしん
2018/09/19(水) 01:10:36 ID: iYQUBmSfFk
難攻不落の稲葉が手に入ったなら、そりゃそこを本拠地にするやろ。
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708 ななしのよっしん
2018/09/19(水) 10:56:34 ID: GCWiLskSEf
難攻不落の稲葉って皮フレーズ良いよね
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709 ななしのよっしん
2018/09/20(木) 14:58:51 ID: aButj2vP/J
難攻不落だからこそ皆欲しがる
無敵艦隊みたいだな
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710 ななしのよっしん
2018/09/20(木) 18:45:39 ID: CfG6FQJrWB
岐阜を選んだのはだね、いわゆる中仙道ってやつ
東海道も結局北に曲がって拾えるわけだから尾よりも良い、信長
地盤を固めたかなりい段階で上を意識していただろうし
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711 ななしのよっしん
2018/09/20(木) 19:00:07 ID: EWN2DjjKkl
当時の尾というか濃尾平野って木曽ひどかったんじゃなかろか
江戸初期に幕府が命じた大規模な治工事でようやくましになったとか聞いたような

どこに建てても洪水怖いとなると外に本拠地作りたくもなるかも
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712 ななしのよっしん
2018/09/21(金) 23:18:57 ID: l6Q62ZigzO
信長が他勢べてかなりの速さで勢を拡大し天下統一前までいけたのって

・生まれが尾から遠すぎないから上しやすく、また近すぎないので畿内の政争に巻き込まれにくい
・濃尾平野を支配できたことによって大な石高を得たこと
・周囲の有大名と同盟を組めたこと、これにより上できる環境を整えられた
将軍を抱え込めたことで戦の大義名分を得やすくなったこと

と考えてる、他にも理由はあると思うけど
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713 ななしのよっしん
2018/09/26(水) 12:00:25 ID: GCWiLskSEf
制では大には及ばない上だけど鎌倉時代以降に対策を進めたことと近畿一帯が乱で極端に荒れた結果、相対的に生産も高準で人口も維持できていたからな
それでいて上もしやすく湾口もある
清州織田と武衛に対する下克上の結果手に入れたものは滅でかい

流通と生産の拠点且つの喉元として尾美濃伊勢を手中に収めた時点で、地政学的に信長に単独で敵う同時代の大名はいないんじゃないの
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714 ななしのよっしん
2018/10/02(火) 20:30:14 ID: iYQUBmSfFk
個人的には、徳川家康が最後まで裏切らなかったことが一番でかいと思うけどな。
もし第一次信長包囲網の時点で家康まで寝返ってたら、織田が滅ぼされることとはないとしても、信長の代であれ以上の勢拡大はもう不可能だっただろうし。
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715 ななしのよっしん
2018/10/03(水) 17:05:14 ID: GCWiLskSEf
家康の手腕も論だが織田側だけでなく武田・北条側からしても織田に対する良い緩衝地帯として機していたのが良かったんだろうな
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716 ななしのよっしん
2018/10/12(金) 07:24:17 ID: aButj2vP/J
そもそも武田も北条も当初は織田と戦うこと避けたからな
武田信玄織田信長と戦うようになったのは足利義昭織田信長と断交したのが理由で
その断交を招いたのはく見積もっても1572年半ばくらい。

畿内の政争に巻き込まれにくいってのもどうだがな。
桶狭間の戦い自体、実は足利義輝三好長慶に端を発してる説が出ている。
従来否定されていた「今川義元の上」という狭間合戦の的が
三好長慶との交、協的とした」という条件つきで再び上がっている。
実際、今川義元の上は、三好長慶の協があれば条件としては全然謀で荒唐稽なことではないので。
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717 ななしのよっしん
2018/10/15(月) 00:14:53 ID: scwo1qs/Ra
なるほど、それな六角義賢織田信長い時期から同盟してた説も納得できる
六角定頼織田信秀が、斎藤道三と争っていた1540年代に盟友
六角義賢織田信長は、1563年に修された小牧山には六角下の太衆の技術が使われていたのでこの頃には同盟してた
三好長慶と敵対した六角義賢からすると今川三好に接近してたとしたらその今川の勢圏が近づいて来るなんて勘弁だろうから、1550年代後半には織田信長に技術提供などの支援をしていた可性もあるか?
信長の側近に甲賀出身者が多いのもその辺りだろうか?
うーん多い
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718 ななしのよっしん
2018/10/16(火) 16:34:40 ID: aButj2vP/J
一説には信長が築いた小牧山岐阜石垣に差異があって
その理由が六角が協たかしてないかの違いって説は出てた。
まああくまで説止まりで話半分なんだが。

この説によれば、足利六角織田である程度動いていたのだが、
三好長慶が死去し、三好義継の代になって足利義輝弑逆事件が発生。
足利義昭が再起を図ろうとして、六角斎藤織田連合軍を構築しようとするも、
まともに取り合ったのは織田だけで、六角斎藤がまとめて三好についたって説もある。
河野の戦いで、斎藤龍興織田信長に大勝したと喧伝しているのに、
その翌年には稲葉陥落して斎藤が滅亡したのも、足利義昭を助けようとした織田信長
不意打ち同然に襲撃して信用を失墜させたという話も)
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719 ななしのよっしん
2018/10/16(火) 16:39:38 ID: aButj2vP/J
だから、小牧山時代は六角と同盟関係だったが、岐阜の頃は六角と同盟関係じゃないから違うって話らしい。

も、今川義元三好長慶との同盟説は正直信憑性で確たるものはない。
なんせ織田信長三好で、今川義元をアテにしてたのは足利義輝だったって話もある。どっちだよ。
ただ、1560年は三好長慶の生涯において最後の安寧期であり、これ以降は
細川畠山六角を巻き込んで(事実足利義輝との暗闘)畿内を巻き込む大戦乱に発展する。
その余波に桶狭間の戦いがあったとするのはあながち当たらずとも遠からずな気はする
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720 ななしのよっしん
2018/10/18(木) 00:26:47 ID: l6Q62ZigzO
少なくとも畿内の争乱のが全くないとは言えないってことか
しかしそれはそれで畿内の争乱に巻き込まれても信長にはそれをはねのける運と実があったと評価できるかな
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