足利義昭について語るスレ

61 : ななしのよっしん :2015/08/19(水) 10:32:40 ID: QmCGIS1S4v
>>60
将軍が必ずしも足利長者イコールでなくなってた時点で源氏長者なんて何の意味がある?と思ったっけど、家康がわざわざ清和系の新田氏に拘った(本当に新田系の可性もあると思うけど)のはやっぱそういうことなのかな
62 : ななしのよっしん :2015/09/12(土) 01:05:35 ID: PymaOtglfp
>>60
>>61
豊臣秀吉征夷大将軍になるのを断念して関白に就任したのも、(建前でも)平氏を名乗ってはいても、源氏を名乗っていた訳ではかったのもあるのかな?
63 : ななしのよっしん :2015/09/13(日) 01:26:53 ID: nwnGMgI5YW
朝廷という組織は基本的に慣例義で動くから、源氏長者の肩書は少なくとも足利義満以降の武政権においては、権の正当性をするために必須になってたのよ。

義満以前の源氏長者村上源氏久我河・土御門中院4が世襲してたけど、南北のゴタゴタで久我以外が断絶。その後は久我源氏長者を独占してたけど、従一位・太政大臣に昇った足利義満が官位において当久我具通を上回り、源氏長者の地位も義満に転がり込んだ。この時、義満以降の足利将軍源氏長者を継ぐ慣例ができた。
ただし室町時代将軍が不安定かつ大臣クラスまで行かず若年のまま亡くなる将軍も多かったので、源氏長者を継がない将軍も多かった。

この状況が変わるのが、関ヶ原で勝利した徳川家康征夷大将軍に就任した時で、事実上の最高権者に成り上がった家康に対して、かつて頂点を極めた足利義満の先例にならって朝廷より源氏長者及び和院・奨学院両別当職を任じ、名実共に「武の棟梁」としての徳氏を認める事になった――という経緯。
64 : ななしのよっしん :2015/09/13(日) 01:47:54 ID: nwnGMgI5YW
↑の続き。

源氏長者(とセットになる和奨学両院別当)という称号はあくまで形式的なもの以上ではないんだが、源氏長者となれるのは「貴族」だけなので、源氏長者になる=その者の系が「貴族」として朝廷に認められるという政治的意味はある。
氏(平氏)は家康の三河守就任以来藤原氏を名乗ってたから本来は源氏長者ではなく長者すべきだが、長者は徳氏よりかに格上の近衛九条一条二条鷹司の五摂が独占していて慣例上絶対に理。なので、その次に格が高く、かつ室町時代足利義満も就任した前例がある源氏長者に任ぜられることで、徳氏というの格を足利将軍並に引き上げる狙いがあったのでは、と。

まあ、家康がそれまでの藤原姓から姓に変わったのは豊臣政権下で権中納言に就任したあたり以降だから、どちらかと言えば豊臣政権No.2としての格式を得るために(案外秀吉本人あたりからの示で)そうした、とも考えられるけど相は分からない。
家康源氏長者になれたのは、その頃には足利義昭が出してて足利将軍そのものが消滅していたから、なのはほぼ間違いないけどね。
65 : ななしのよっしん :2016/01/20(水) 22:38:55 ID: q2M2DJKOb2
の昭襄王に滅ぼされた後の周の赧王やその一族は存続したのになぜ足利将軍は絶えてしまったのだろうか
66 : ななしのよっしん :2016/01/24(日) 15:16:45 ID: 3pg1OH2NBE
そんな血統残すが致命的に生温いだけ
67 : ななしのよっしん :2016/03/01(火) 21:02:50 ID: U4qwLaDh1e
概略だけ見ると不遇な将軍だが、その間にある数々のDQN対応を知ると「何やってんだコイツ」となる武将
68 : ななしのよっしん :2016/03/14(月) 22:17:26 ID: i3Q7elnHWx
にみると義昭が評価できる点などどない。信長包囲網を構築した智将とよくられるが、義昭は元4年に入るまで信長の同盟者である。元3年の段階ですら義昭配下の幕府軍は三好三人衆松永
本願寺軍と戦っている。どう考えても義昭が包囲網の中心人物と見るには理がある。実際は、包囲網に途中参加しただけ。そして、信長に敵対した途端に様に敗北して降伏する失態をおかす(2度も)。
とても知略のある将軍には見えない。むしろ、重臣の諌言もを貸さず勝ちい戦いをいつまでも続けて都を火のにし、民衆の嗟を買いながらも責任も取らずにのうのうと生き延びようとする態度はおおよそバカ殿暴君というにふさわしい
69 : ななしのよっしん :2016/03/21(月) 17:58:28 ID: Thy7ul25ny
義昭はできる子
70 : ななしのよっしん :2016/04/07(木) 01:12:48 ID: S9CIrmBQgQ
乱世のどん中で魔王信長に傀儡として担がれたあの状況から本当によく頑った・・・
71 : ななしのよっしん :2016/04/20(水) 13:05:35 ID: 1jt03oVlih
>>68重臣の諌言もを貸さず勝ちい戦いをいつまでも続けて都を火のにし、

↑勝てもしない戦をしたり都市を火のにすることが馬鹿殿のすることなら当然旧日本軍の行動も馬鹿な事だったって事だよね
でもこれは偏見なんだけどそういうに限って大日本帝国正義なんだって考えてそうなんだよね

民衆は当然室町幕府にしろ大日本帝国にせよ
徹底抗戦すべきだという人間もいたしと建前では徹底抗戦すべきと思っててもの中では降伏すればって思ってる人もいたからね
大日本帝国の人間も馬鹿じゃないから襲された辺りで気づいてたよ日本が負けてるってだけど空気を読んでもそんなこと言わなかっただけ(お爺さんから聞いた)
でも例え負けてでも降伏なんてするもんかって考えは当然あるし室町幕府にもあった訳
まあの偏見まみれの戯れ言なんてどうでもええけどな
72 : ななしのよっしん :2016/04/22(金) 10:05:28 ID: Y8liYIJ1d2
本能寺の変細川藤孝が協してさえいれば、将軍に返り咲けたんじゃなかろうか
おのれ器没収じゃ(足利義輝信長の野望プレイ中)
73 : ななしのよっしん :2016/04/22(金) 17:30:03 ID: Ol0dMkyXKb
そうか孝は義昭のでもあるかもしれないのか
それと義昭は豊臣の世になって山になるまで将軍位だから(震え声)
74 : ななしのよっしん :2016/09/12(月) 21:28:39 ID: 3pg1OH2NBE
将軍に返り咲かせてはいけないってのは、細川藤孝が一番よくわかっていただろう
足利義昭ほめる場合に出てくる「外交手腕」ってやつは平和な統治をめるには一番危険なものだから
戦国時代が義昭エンドになったら統一後にさらなる血を見る可性が高い
75 : ななしのよっしん :2016/10/07(金) 15:00:40 ID: qlMzPnzRlY
足利将軍自体が義昭の評価に対する枷になってるというイメージがある
もない足利将軍のくせに戦乱世をかき回しただけと見るかもない足利将軍必死に足掻いたかと見るかだけでも随分評価違うしね
76 : ななしのよっしん :2017/02/03(金) 10:45:23 ID: M1XiKWNLs9
むしろ逆に応仁の乱以降、足利将軍山城・西近江に限っては衆の支持を集めてをつけていったことが義昭のを決めたんじゃないかな
後の政権運営を巡って義昭と信長は協しつつも対立したが、信長が有大名の連合政権という室町幕府の昔からの形を再現しようとしたのに対し、義昭は世話になった延寺などの寺社に喧売ることになろうが権益奪って将軍の財軍事を強化しようとした
合戦の時に義昭は1万人近い軍勢を集めることができたし、その企てはある程度成功してたのだろうね
77 : ななしのよっしん :2017/02/20(月) 13:49:04 ID: 2ZzU5H+tk1
池上一の信長だと閉脱出の際に信長が来るまで一本で必死に頑ってた。
ただの麿眉毛じゃなかったよ
78 : ななしのよっしん :2017/03/21(火) 13:14:29 ID: E9X1gmaoi7
かしこの人よく信長にぶった切られなかったなって思うわw
信長へし切長谷部エピソードもあるほど苛イメージあったけど、少し意外である。追放だけ済んだのがすごいというかなんというか
79 : ななしのよっしん :2017/03/21(火) 17:20:46 ID: Y8liYIJ1d2
将軍を大義名分もなく弑したりしたら今まで従順だった諸勢が蠢動しかねなくて危険だったからじゃないかな
戦国時代ってこそ全ての法時代にいっけんは見えても、
有能戦国大名ほど細やかに世論の反応を考慮しながら行動しているもの
暗殺だって、ちゃんと「正当な」足利の命令による、という形式を踏んでいる
80 : ななしのよっしん :2017/04/25(火) 16:04:37 ID: QmCGIS1S4v
>>78
むしろ信長1580年代まで義昭に何度も畿内に戻ってきてくれと書状を出してる
どんなに形骸化していても幕府という統治機構があるといとじゃ人や諸大名たちへの影はまるで違うってことだな
これは三好長慶も同じだけど
81 : ななしのよっしん :2017/04/29(土) 19:03:14 ID: KipOn+ygJT
とある戦最強大名は、死ぬまで義昭の臣下だったんよ
82 : ななしのよっしん :2017/04/29(土) 19:11:54 ID: UYaUQTz7BQ
管領上杉の養子のことかな
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