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キリスト教


ヨミ: キリストキョウ
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キリスト教とは、中東に起を発する宗教の一つである。


概要


紀元1世紀のパレスチナで、ユダヤ人男性イエスが、それまでのユダヤ教に対する革を含んだ宗教活動を行った。多くの子達などの賛同者も得られたものの、彼に批判・攻撃された者達との対立は深まっていき、ついには捕縛され処刑された。

しかしその後、子たちはイエスは死後に復活したとして、宗教活動を継続した。子達は彼の言葉・行動・死後復活について宣伝し布教するため、文書にまとめた。これが後にまとめられ、新約聖書となる。

その教義はそれまでのユダヤ教ベースとしたものであり、ユダヤ教典も「旧約聖書」として引き続き典としていた。しかし、旧約聖書法よりもむしろ、イエスの言葉や行動を重視するようになった。またなにより、イエスが「メシア」、すなわちユダヤ教における救済者であると言うを軸としていた。これは既にユダヤ教とは別の一つの宗教となっていた。

その後、この新しい宗教「キリスト教」は初期には迫を経験しながらもどんどんと信徒を増やした。その理由としては、ユダヤ民族民族宗教としての性格が強いユダヤ教と違って期からユダヤ人以外の異邦人にも積極的に布教したことや、割礼や食事のなどのユダヤ教にあった厳しい法を止したこと、時の権に結びついたことなどが理由として挙げられる。現在では世界宗教のひとつとなっており、世界で最大の信徒数を得ているとされる。

以上の内容はこのページの「歴史」の項に詳記されているため、そちらも参照のこと。

「キリスト教」の「キリスト」とは、ユダヤ教の教義における救済者「メシア」をギリシャ語に訳した言葉である。このように、ユダヤ教から生した宗教であることが名称からもわかる。ルーツとなったユダヤ教や、同じくユダヤ教からの宗教であるイスラム教とあわせて「アブラハムの宗教」とまとめられることもある。 

補足:定義の困難さ

キリスト教は常に変容を続けているため、正確に、そしてもが納得する形で定義することは難しい。あえてキリスト教というものを定義しようとするならば、「『イエスメシアである』と信仰する宗教」という定義も可である。しかしこの定義からも何かがれ落ちていると思われる。また、この定義ではメシアニック・ジューとして「自らをユダヤ教徒と自認しながら、イエスメシアだと言うことも認める」という立場の者もキリスト教に含むことになる。

また、この定義をした場合「イエスとは如何なる存在であるか?」という問題が生まれる。神の子か、あるいはか。それとも人か、それとも世界を騙した大嘘つきか、あるいは、ただの一人の人間か。この問題に対しても万人が納得する形で正確に説明する事は出来ないであろう。ある人にとってはであり、ある人にとっては神の子。ある人にとっては偽善者、ある人にとっては人、ある人にとっては大嘘つきである。

このように、学問としての中立性を重視した場合、キリスト教とは「非常にあやふやなもの」であるといえる。正に、「私タチハ今ハニ映ッタモノヲ見テイル(新約聖書、コリントの信徒への手紙1、13章12節)」という表現がしっくりとくる。

逆に言えば、キリスト教がこれだけの信徒数を得られたのも、このあやふやさから得られたものであるという解釈もできよう。

たとえばクリスマスバレンタインなどの数々の祭りは、実際のところキリスト教を布教しているうちに、土着的な信仰や異教の習を取り入れ、かつそれに根拠を与えた(異教の祭りを、キリスト教でそれが殉教した日にするなど)ことによって始まっている。

初期キリスト教がヘレニズム文化の影を受けていたり、ユダヤ教習を引き継いでいたりするなど、実際のところどこからどこまでがキリスト教かという明確な線引きは不可能だ。民衆の中から自然発生的に誕生したマリアアンナへの信仰、あるいはヨセフなどのキャラクターも、キリスト教の発展とともに付けされていった存在である。教会はそれを是認し、そしてキリスト教に包含することによってさらに布教を進めていったという経緯もある。そしてやはり、その土着の宗教を是認する潮に対立する学者が現れ、党抗争を繰り返してきたのもまたキリスト教だ。

よって、少数のニコニコ大百科記事編集者では、到底体系的説明をする事は困難である。他の多くの編集者によるこのページの今後の発展が待たれる。


思想・教義



キリスト教とユダヤ教


キリスト教は言うまでもなくユダヤ教から生した宗教であり、ユダヤ教典も「旧約聖書」として取り込んでいるため、思想・教義の基本部分はユダヤ教と共通している。すなわち、自らの宗教で崇める一のであるという「唯一神」思想や、その世界の万物を創造したとする創造神話人間に似せて創られた特別な被造物であるという人間観、の使いである「天使」、などである。

エデンの園から追放される最初の人間アダムイブ」、「アベルを殺してしまうカイン」、「世界を覆う大洪水ノアの方舟」、「まで届かんとするバベルの塔」、「の火で滅ぼされる罪の都ソドムゴモラ」などの有名な神話エピソードユダヤ教から受け継いで旧約聖書に記載されている。

キリスト教は旧約聖書の預言が実現されていくという説明を採っており、マリア処女懐胎、イエスリストの受難、復活など、マタイによる福音書などにもその記述が認められる。すなわち、ユダヤ教における聖書である旧約聖書の預言が、新たにイエス・キリストにより実現されたという点で、キリスト教はユダヤ教からの生であると言うことができるのだ。

一方で、ユダヤ教に見られない習も多々存在し、たとえばマリア処女懐胎は、ユダヤ教には存在しない処女崇拝という概念を含んでいる。ギリシア文化の影を多分に受け、意図的にせよそうでないにせよ、多数の「本来ユダヤ教には存在しない」教義を含んでいるという意味で、キリスト教とユダヤ教は決定的に異なっている。

ここで興味深いのは、初期キリスト教において、すでにユダヤ教から明逸脱しようとした跡も認められるところだ。いくらユダヤ教から生した宗教とはいえ、じわじわと生していたのではなく、明らかに「新しい宗」を作ろうとした跡が見て取れるのだ。

たとえばユダヤ教においては、動物を犠牲にげる際に、血とをともに食するのは「レビ記」の法によって禁止されている。しかし、イエス・キリストは彼の最後の晩餐にパンワイン——すなわち、血とをともに食しているイエス・キリストの処刑を、イエスを犠牲にげる儀式だと解釈するならば、これは明ユダヤ教法に対する反逆である。しかも、キリストが処刑されたのは、「ペサハ」と呼ばれるモーセのエジプト脱出を記念した祭りの一環であり、その祝いの食事が「セデル」なのである。つまり、ユダヤ教の祝いを、法に反逆して行ったのだ。

さらに、キリストの処刑については、ペルシアの役人「ハマン」がユダヤ人全滅させようとして失敗、処刑されたことを祝うユダヤ教祭りプリム」が関わっているのではないかという説もある。つまり、「ハマン」がユダヤ人全滅させようとして処刑されたように、「キリスト」もユダヤ人全滅を企てた疑いで処刑された、あるいはそれに対応させるように見せつけたのではないかという説だ。

旧約聖書エステル記」によれば、役人「ハマン」は、ユダヤ人「モルデカイ」が「ハマン」に対する敬礼を拒否して激怒し、ペルシア王にユダヤ人を皆殺しにするよう進言する。「モルデカイ」の養女「エステル」はその企てを排し、「モルデカイ」を処刑するはずだった十字架は、「ハマン」を処刑するために使われてしまう。この対応は、処刑された「キリスト」と、代わりに釈放された「バラバ」に似ている。(処刑)キリスト、(釈放)バラバ=(処刑)ハマン、(釈放)モルデカイという対応だ。

が、この説には一カ所弱点があり、「ハマン」が処刑されたことを記念する祭りプリム」は、キリストが処刑された「ペサハ」の祭りから1ヶずれが生じている。つまり、ハマンの処刑と、キリストの処刑はこの場合対応づけることができない。これに反論して、元々は「ペサハ」と「プリム」は同じ(ニサン)に行われていたのではないか、祭りが重なるために「プリム」のを移動させたのではないか、という説もある。

これに気づいたのか、あるいは気づいていないのかはわからないが、ミケランジェロシスティーナ礼拝堂におけるフレスコ画において、ハマンの処刑とキリストの受難具を上下のセットで描いている。

ともかく、キリスト教とユダヤ教は、相互に密接に関わっているのは間違いない。互いに共通の書物をベースとしているがゆえに、二千年の長きにわたる憎を含んだ姿勢がうかがい知れる。


キリスト教の思想


キリスト教にはいくつか有名な思想がある。

例えば「」はキリスト教において重要な点である。見返りをめず、対も自分の家族仲間に限らずに、隣人や時には敵のためにさえ祈る償のが「アガペー」である。

三位一体」も多くの教で中心的教義として重視する。三位とは万物のである神の子メシアであるイエスの三つのことで、これら三つが「別々の位として現れつつも本質的には同一の存在である」と言う思想が三位一体である。中には三位一体を否定する思想を持つ教もあるが、カトリックなどの多数は「三位一体を認めない者は中心的教義を否定しているため異端である」とみなす。
ちなみに霊とはの恩寵を人間に伝える働きを持つ存在である。イエス子は「マリアイエス妊娠したのも霊の働きである」「自分が書いているこの新約聖書の内容も霊の働きによるものである」という意味の言葉を新約聖書に記載している。人間の口を通して異言という特殊な言葉を発させることもあるとされ、例えばキリスト教プロテスタントの有な一であるペンコスは、集会において信者に現れる異言を霊の現われとして重視している。

原罪」という思想もある。これは、旧約聖書に記された「アダムイブのいいつけに逆らったために楽園を追放された」という記述から、「先祖であるアダムイブの罪を人類全体が引き継いでいる」という考え方である。ここまでは旧約聖書典とするユダヤ教でも共有しうる思想だが、キリスト教ではさらに「原罪は神の子であるイエス・キリストが購ってくれる」と考える。そのため、キリスト教では特に重要視されている。
「人類はでも生まれつき罪人である。その罪は、イエス・キリストを通してのみ解決され、救われる」というこの原罪の思想は、「キリスト教以外の他の宗教を信じている者は救われない」との考えにもつながりうる。よって、他人を救うために熱心にキリスト教を布教するクリスチャンもいる。

その他「教会の重視」「十字架の重視」などがある。

未来に関する予言的内容の教義としては、「最後の審判」がある。これは新約聖書のうち「ヨハネの黙示録」に記載された内容である。「の数字(666)」「四騎士」等はオカルトファンタジーなどを通してクリスチャン以外の間でも有名である。

補足:「キリスト教の本質」

キリスト教の思想の子、すなわちキリスト教の本質とは何か、ということを考察したものも数多く居る。

直球でそのまま『キリスト教の本質』という題名の書物を著したフォイエルバッハというおっさんも居た。その書物の結論は一言で言えば『キリスト教や人間の心理の投影である』といったところ。この著書のために哲学者として著名になり現在も教科書に載るほどの人物ではあるが、当然キリスト教のお偉いさんからは総スカンをくらった。

他にもトルストイやハルナックという割と有名なおっさん日本でのタイトルが『キリスト教の本質』という本を書いているようだ。幾人かの日本人も「キリスト教の本質」というフレーズタイトルに入った本を書いている。本質だらけでどれが本当の本質なのか分からんね。

ちなみに、このページを作成した最初の編集者は、キリスト教の本質を「自己肯定」と捉えている。自己肯定とは、すなわち「はここにいていいんだ!」ということ。つまり、どんなに変態童貞カス両生類クソかき集めた物の価値以下の人間であれ、イエスはありのままの君を愛しており、キリストされていたことを知ることで、「はここにいていいんだ!」と自らを肯定することがキリスト教の本質である、とこの編集者は結論しているようだ。


歴史


以下の記載はカトリック歴史の一部だが、膨大なるその歴史の一部に過ぎない。また、あくまでこの記事の編集者の解釈に過ぎない。もしも、更なる知識を得たいと思う方がいれば、自ら調べる事をお勧めする。その場合はその方法をネットに限定することなく、ありとあらゆる書物にめる事をお勧めしておきたい。

さらに言えば、カトリック歴史の説明にはなっているが、一般にキリスト教として思い浮かべられる中に入るであろうその他の宗(例えばプロテスタント)についてはほぼ記載されていない。これらについても他の編集者による追記が待たれる。

イエスの生誕~処刑、そして復活

イエスは紀元前4~3年頃、「中東地域においてが放牧される季節」に生まれた。生物学上でのはヨセフ、マリアである。ヨセフとマリア結婚する前であったから、ユダヤ教の仕来りに従い、婚姻まで「ニャンニャンしない」はずであった。しかし、マリアは懐妊した。どう考えても、「ニャンニャンした」はずなのだが、新約聖書においては、マリア霊によって懐妊した、とされる。これを処女懐妊という。ちなみにヨセフはマリア妊娠を知った後は、マリアと離縁するつもりだったという。普通どう考えてもNTRだしさぞショックを受けたのだろう。しかし天使から「大丈夫処女懐妊だよ」と夢でお告げを受けたので離縁しなかった。これを受胎告知という。

その後30歳ぐらいまでのイエス大工として働いていた、と考えられる。だがおそらく30歳程度の時期にヨハネより洗礼を受けると、その活動を本格化させる。

彼が行った事は、いわば「セクト」を作り出す行為であった。厳格に取り決められたによってガチガチになったユダヤ教に対して彼は、運動を起こしたのである。その対は虐げられたものたちであった。次第に彼の周りには子達が集まっていったが、彼の動きを危険視する人々も居た。保守人間である。彼らはイエスを冒涜したとして訴えを起こし、結果、彼は捕縛され、磔の刑に処されて死亡した。このとき子である南斗拳「妖ユダの裏切りが捕縛の決め手となったと伝えられる。

は言っている ここで死ぬ運命(さだめ)ではないと――

磔になる前に彼は子達に「私は3日後に復活する」と述べていた。どう考えても死者が数日後に生き返るはずはないのだが、新約聖書においては、イエスはその生前の言葉通り、磔の3日後に復活したとされる。なお、彼の復活後最初の一言は「おはよう」で、相手はイエスに従った子達ではなく、取り巻きの女性達であった。意外に女好きなのかもしれない。


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最終更新日: 19/04/22 20:07
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