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サイレンススズカ


ヨミ: サイレンススズカ
掲示板をミル!
176カキコ!

98年 宝塚記念
最速の機能美、サイレンススズカ。
速さは、自由か孤独か。
 ―2011年宝塚記念CMより

※当記事では、サイレンススズカの活躍した時代の表記に合わせて、年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については
サイレンススズカ(ウマ娘)」を参照して下さい。

サイレンススズカの概要


サイレンススズカ(1994年5月1日生、1998年11月1日死亡)は日本の元競走馬

サンデーサイレンスキア(miswaki)。
生涯成績16戦9勝。田満厩舎所属。
な勝宝塚記念G1)など重賞5勝。半天皇賞(春)2着で種ラスカルスズカがいる。
称は『スズカ』『ススズ』など。4歳時は騎手が転々としていたが、5歳以降は武豊騎手が戦騎手となっている。

に影も踏ませぬ大逃げで大勝するというそのレースぶりから、一般に最強補の快速として知られる。

ただし、正確には足がとてつもなく速いなのではなく、短距離並みのスピードで中距離を走れるという特殊な性格の。そのため抑えて使ったり距離が短いと普通の速いにしかならない(といっても一流クラス)のだが、中距離で同じように逃げた時このペースを乱すことは事実不可能で、マイペースで最後まで行かれてしまうため、レース展開を狙って負かすのが非常に難しいという恐ろしいである。

武をして「一番勝ちやすい」と言わせる鮮な存在であった。


出生:偶然から生まれた快速馬


種付けが行われた93年の、生産者の藤原氏は、ウイニングチケットベガらの初年度産駒がクラシック路線で大活躍していたトニービンの種付け権利を持っており、ワキアに配合する予定だった。しかしワキア発情期を見計らって意気揚々と社台の繋養所につれて行ったところすでにその日のトニービンの種付け予定は埋まっていた。
既に種付シーズン終了が迫ってきており、もう今年トニービンをつけられる機会は来ないかも・・・とがっかりしていたところへ

サンデーサイレンスなら今日予定がいてますが・・・」

と社台側が助け舟をだしてくれたのである。・・・2年後の95年であれば到底あり得ない助け舟ではあるが、サンデーサイレンスの産駒がデビューするのは翌94年の6月であり、当時は種としての才は未知数で、後の驚異的人気はまだなかった。むしろ、92年に生まれた初年度産駒はどれも体が薄いと、この頃はまだ大きな期待はなかったのである。とはいえサンデーサイレンスも競走成績ではトニービンに引けを取らない実績を持つのは間違いないので、牧場長もこの提案を承諾してこの年はワキアサンデーサイレンスを配合することになった。そうして生まれたのがサイレンススズカである。

幼いころはそれほどの才気を見せていなかった。立つ所と言えば、やたら人懐っこいところと、房内で左回りにやたらクルクル回る癖があったくらいであったのだが・・・


4歳 ~東京優駿:才能だけで走る日々


やや遅生まれだったこともあり、デビューはやや遅めの4歳2月。しかしこのころから調教段階での好時計の連発が評判となる。
サンデーサイレンス産駒の初デビューして以降、クラシック戦線の中心には常にサンデーサイレンス産駒がいたのだが、1997年皐月賞を2カ後に控えたこの時期になっても立った実がおらず、クラシック戦線はハイレベルではない混戦模様。ファンメディアスターホースの出現を待ち望んでいた。

そんな中、好タイムを連発するサンデーサイレンス産駒が現れる。これにより「遅れてきたサンデー産駒の大物現る」「今年のダービーはこので決まり」と大盛り上がり。その前評判通りデビュー戦では圧勝、そしてクラシック出走のため果敢にも皐月賞トライアル弥生賞に挑戦する。デビュー2戦にもかかわらず2番人気に支持されたことから見ても、いかに期待されていたかがよく分かる。

しかし、そこで見せたのはゲート内で上の上村騎手を振り落とし、ゲートの下から潜り抜け、その後ゲートに入り直してようやく発走したと思ったら10身も出遅れ、という大失態であった。後で厩務員がったところによると、ゲート入りまでついてきてくれた厩務員が発前にその場を立ち去ったことで、それを追いかけようとしてゲートをくぐったのでは?とのこと。幼駒時代からの人懐っこい性格がこんなところとなってしまった。そんな状況から8着まで持ってきた(とゲートをくぐっても筋肉痛すら残さなかった身体の柔軟性)はさすがと言えるが、当然皐月賞出走は不可能に。

そしてこの後の条件戦も圧勝したことにより「ダービーこそは」の思いは強くなり、軽度の故障を発症したもののダービートライアルプリンパルステークスに強行出走。田師く「この後に来るのがダービー以外のレースなら使っていなかった」とのこと。サイレンススズカはその思いにこたえて見事ここを勝利し、日本ダービーに駒を進めることができた。

しかしそこで待っていたのは、皐月賞であり、同じ逃げを得意とするサニーブライアン営によるスズカ封じの作戦だった。スズカが逃げたら控える気満々だったのにもかかわらず、「何が来ても逃げる」「スズカが来ようが関係なし」などと吹いたため、スズ営は潰し合いを恐れて控える競馬をすることを選択してしまう。さらにレース間隔が短かった影からイレ込みまくったサイレンススズカは掛かりまくって自滅し(9着)、楽な逃げで競馬ができたサニーブライアンの二冠達成を前に辛をなめるしかなかった。


4歳 ~香港国際カップ:名手との出会い


神戸新聞杯(G2)から始動。しかしここで上の上村騎手が「勝利を確信して押さえたらマチカネフクキタルに差されてました(キリッ」という大失態を犯したため、当然田師の怒りを買い、上村騎手は上から降ろされることに。弥生賞のゲートくぐりの際、外傷こそなかったものの全身に痛を発しながら「もしここで乗れないとなったらこの弥生賞に騎乗のなかった岡部幸雄への乗り替わりになる。岡部さんが一回でもこのに乗ったら絶対手放さないし、二度と自分は乗れなくなる」という執念で上を譲らなかった上村であったが、これを最後にサイレンススズカに乗ることはなかった。

その後は距離適性を考慮し菊花賞ではなく天皇賞(秋)に向かった。そこでサイレンススズカは、いままでにない大逃げをみせる。5歳時の片鱗を見せる走りであったが、この未完成の段階ではまだ荷が重かったか、エアグルーヴバブルガムフェロー叩きあいについていけず6着と敗れた。

この後、余裕を持って京阪杯(G3)を使う予定であったが、招待されると思っていなかった香港カップ(G2)の招待状が届いたため急きょ日程を組み直すことになった。その影調教過程はちぐはぐになってしまう。しかも、前述の房内で左回りしまくる癖を直そうと畳やタイヤるしたらものすごくストレスを溜めてしまった。そういう経緯もあり急遽出走したマイルCSは15着惨敗。

その後標にしてきた香港カップは、同日同コースで開催されたG1香港マイルの勝ち時計を上回る1600m通過タイムで逃げるも、最後に後続に捕まり5着。G1レースどころか重賞レースも勝っていないなら善戦といえなくもないが、騒ぐほどのことでもない。翌日のスポーツ新聞の片隅に載った小さな記事のその扱いは、当時の競馬ファンの評価とイコールだった。
デビュー当時は大物と騒がれても、その後鳴かず飛ばずというは枚挙にいとまがない。
「才はあるがこの気性難では券は買えない。」そんな評価が大勢を占めており、競馬ファン話題有馬記念や翌年のクラシック予想へと移っていった。

しかし、そんな世間とは逆の評価をした男がいた。
他でもない、香港カップでサイレンススズカの騎乗を任された武豊騎手である。
日本を代表する名手はレース後こう述べた。

「このは、化け物だ・・・」「来年は、こので勝ちますよ」と。


5歳 ~金鯱賞:覚醒。伝説の金鯱賞


明けて5歳オープン特別のバレンタインSから始動。武騎手はわざわざサイレンススズカ騎乗のためだけに関東へ遠征してきた。実績的に抜けている相手関係であり、まずは4身差の逃げ切りで圧勝。
次の中山記念(G2)はG1シノサンデーら強敵が集まったが、最後やや足が止まったものの1身3/4で勝利距離的に不安な天皇賞(春)は避け、小倉大賞典(G3)へ。ここも3身差の快勝。
・・・こうしたレースの中で、武騎手は「一時息を入れる」ということを覚えさせていった。そうして一時落ちつかせてしまえば、このは再度気合を入れた時に逃げていた時の足をもう一度使える・・・という考えであった。

スタート後はペースコース取りも他の妨をしない限り自由」という競馬ルール上、どんな名であっても他の影で自分の走りが出来ずに敗れるというのはザラにある。それが競馬の面さでもあり、武豊騎手自身も"ライバルに自分の走りをさせない"ことで勝ちを積み上げてきた。だからこそ、
最速のスタートを決めて、並ばれないくらいに大逃げし、最短コースレースを進め、最後の直線でも後続と同等のタイムで走る」という「ライバルに何もさせない走り」は理想であり、想の世界でしか存在しない走り方なのだが、武豊騎手の導によりサイレンススズカはこの「競走馬の理想の走り方」を会得しつつあった。長きにわたりファンされ、武豊騎手にして「ディープインパクトに勝てるとしたらこの」と言わしめたゆえんである。

その走りをファンに見せつけたのが、今もり継がれる1998年金鯱賞(G2)。
このレースはサイレンススズカ自身も含め連勝中のが数多く参戦していた。重賞2勝を含む5連勝中のミッドナイトベッド。休み明けながら前年に4連勝で菊花賞を制したマチカネフクキタル。こちらも休み明けながら重賞含む4連勝中のタイキエルドラド。いずれ劣らぬ強敵たちにサイレンススズカがどういったレースをするのかが注された。

レースはいつも通りのサイレンススズカの大逃げで始まった。もちろん1000m通過が581のハイペースである。ファンや後続の騎手は「どこかでスズカはペースを落とすだろう。その間にどれだけ後続が差を詰めるか、そしてスズカはどこまで持ちこたえるか」などと考えていただろう。
しかし3コーナーを回れど、4コーナーを回れど詰まるのは2番手のと後続の間だけ。サイレンススズカは未だ々の一人旅。どよめきは次第に大きくなり、笑い出す人もいたとか。サイレンススズカが直線に入るといつしか沸いていた観客の拍手が出迎えた。そして混戦の2着以下をに、拍手の中ただ1頭先頭でゴールを駆け抜けた。も言わせぬ大差勝ちである。

この強いメンバーに対し、これほどのレースをしたことでこの金鯱賞伝説となり、サイレンススズカの名はトップクラスに躍り出るようになった。


5歳 ~毎日王冠:強豪にすら踏ませぬ影


ここまで連戦続きの上、武騎手には宝塚記念に出走するエアグルーヴに騎乗の先約があり、これまでの戦積と例の旋回癖から右回りがやや苦手なのでは、ということもあって宝塚記念は回避も検討されたが、ファン投票の急浮上、そしてサイレンススズカの調子の良さから今度はマイルCS以来のG1出走を決めた。
武騎手の代打として白羽の矢が立ったのは南井己騎手である。しかし、この難しいを、テン乗りで手の内をつかめていない状況で武騎手と同じ乗り方をすることは南井騎手でも不可能と判断したのか、南井騎手は田師に「一度後続を引きつけます」と宣言していた。
その宣言通り、南井騎手は3コーナーから4コーナーあたりで後続を引きつけた。サイレンススズカは普段と違う示に戸惑ったか、はたまた苦手の右回りの影か、シルバーコレクターステイゴールドエアグルーヴに追い詰められるも、3/4身しのいでG1タイトルの栄冠を手にした。

この不利な条件が重なった中での勝利に、中距離最強の座はもはやゆるぎないものと思われた。この後の最大標はもちろん、サイレンススズカが最も得意とすると思われる左回り2000mという絶好の条件で行われる天皇賞(秋)である。


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最終更新日: 18/10/04 19:14
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