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サラエボ事件


ヨミ: サラエボジケン
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サラエボ事件とは、オーストリアハンガリー帝国の第一皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が
帝国サラエボ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ首都)で暗殺された事件である。

※この記事は、オーストリア側(フェルディナント大公側)からの視点を中心にしています。それ故に、人によっては不快感を感じます。ご了承ください。


概要


事件が発生したのは1914年6月28日

後に第一次世界大戦の発端となった、と言われている事件である。

この記事では事件の犠牲者であるフランツ=フェルディナント大公と、妻ゾフィー・ホテク過去、そしてオーストリア歴史を含めて説明したい。

そして物語をいくつかの章に分ける。
事件の概要を知りたい方は四番~六番のみの観賞を推奨する。

1.ハプスブルク歴史 - 彼らが生まれる以前のハプスブルクの成り立ち。
2.二人の誕生 - フェルディナント大公ゾフィーの出生・経歴。
3.皇位継承者 - フェルディナントが皇位継承者となった以後、ゾフィー結婚し、日々を過ごすまで。
4.プリンツィプ動く - 暗殺犯の一人、ガヴリロ・プリンツィプの経歴と行動。
5.そしてサラエボ - 手組による暗殺計画と事件前日の様子。
6.運命の日(1914年6月28日 - 暗殺当日の出来事。そして事件直後。
7.Strömung von Österreich(東の歩み) - 第一次世界大戦中、およびその後のオーストリアの運命。

なお、以下で記述されている登場人物の言葉のほとんどはフィクションです。


ハプスブルク家の歴史


まず手始めに、ハプスブルクが君を務めるハプスブルクと呼ばれるについての歴史を紹介したい。

ルドルフ1世とその後のハプスブルク家

欧州の名門といわれたハプスブルク
発端は今のドイツオーストリアに存在した神聖ローマ帝国皇帝として、1273年に初めてスイスの小領であるルドルフ・フォン・ハプスブルク伯爵が、ルドルフ1世として即位したことに始まる。

ルドルフ1世の即位当時、すでに位にあったホーエンシュタウフェンは断絶。
帝国内は混迷を期し、位時代と呼ばれる、各領位の獲得を巡って権闘争を行う戦国時代を迎えていた。

その中で教皇や他の諸侯らが弱小勢であったハプスブルクをつけ、後押しした。

だがルドルフはとても優秀で賢しき人材であった。よって諸侯らの傀儡になることはなかった。
また、位獲得を狙う最大の宿敵、ボヘミアオタカル2世を敗死させた。
こうしてルドルフ1世オタカル2世の所有していたオーストリアの領地を獲得。
ハプスブルクの本拠地をオーストリアを含めたドイツ地方に置き、神聖ローマ帝国皇帝として堂々と君臨。ハプスブルクの基盤を作り上げた。

こうして、1438年以降、ハプスブルク神聖ローマ帝国の世襲君となり、ナポレオン1世率いるフランス敗北神聖ローマ帝国が解体した後も、オーストリア帝国皇帝として君臨し続け、最終的にその統治は7世紀もの長期間に及んだ。

傾国のオーストリア帝国

だが安定した、と見えたものには必ず綻びが生じる。
19世紀に起きた産業革命に乗り遅れ、また政略結婚など中世と変わらぬ政策を採る、このオーストリア帝国は「遅れた封建国家」と呼ばれた。

また1848年にはオーストリア帝国内で少数民族らによる革命が発生。(1848年革命
オーストリア帝国領のハンガリーや北イタリアロンバルディアが共和制国家として独立を宣言した。
この独立宣言は、新となったフランツ=ヨーゼフ1世皇帝により鎮圧された。しかしこの後、イタリア統一戦争サルディーニャ王敗北したオーストリア帝国は、ロンバルディアを全にサルディーニャ王に割譲することとなった。

この後、サルディーニャ王イタリア半島の全領域を征し、イタリアとなる。

また中欧ドイツ地方ドイツ語を話す民族流の地域の総称)の導権をめぐってプロイセン王国と抗争を行い、1866年普墺戦争が起きる。しかし最終的にオーストリア帝国プロイセン王国敗北した。

この後、プロイセン王国ドイツ全般の導権を握り、他のドイツ人諸侯をめ上げ、プロイセン国王ドイツ皇帝を兼任することでドイツ帝国が誕生した。

オーストリア=ハンガリー帝国建国

オーストリア帝国は幾多の戦争敗北し、北イタリアドイツ地域の領有権・導権を奪われてしまった。

また1848年以降、帝国内で12の少数民族が自治権を要する中、支配階級であるドイツオーストリア人(ドイツ人)たちは、妥協案を探していた。

最終的にはドイツ系に次ぎ、同じく内で2番に多い、マジャール人ハンガリー系)と友好関係を築くことにした。

国家を大きく、オーストリア帝国ドイツ導)と、ハンガリーマジャール人導)の2つに分け、同じ君を擁く同君連合として、ハンガリー民に対して軍事・外交・財政を除く、大幅な自治権を与えた。こうして1867年オーストリア皇帝ハンガリー国王が存在する、連邦制同君連合オーストリアハンガリー帝国が誕生した。

この後、ハンガリー政府は王内における確固たる安定のためハンガリーに取り込まれた、クロアチア地方に住むクロアチア人と手を組み、ナゴドバ法というクロアチア人の自治・参政権を大幅に認める法令を出した。

ハプスブルク内のマジャール人、クロアチア人に対して大幅な自治権を与え、内政の窮地を一時的に脱したと思われた。しかし未だに旧体制から抜け出せない危機的状況にあることには変わりはなかった。

このような時代の中、フランツ=フェルディナント皇子は生まれた。


二人の誕生


フランツ=フェルディナントの誕生

1863年12月18日日本明治時代を迎える5年前。
オーストリア帝国南東部の都市、グラーツにて、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の次カールルートヴィヒ大公と妻マリアアンヌンツィアータとの間に長男が生まれた。この日生まれた彼こそが、この歴史物語の一番の要たる人物、フランツ=フェルディナントであった。

この当時、即位15年を迎えた伯父フランツ=ヨーゼフには、皇后エリーザベトとの間に5年前に生まれた皇太子ルドルフがいた。

マリアアンヌンツィアータは、イタリア統一によるサルディーニア侵略で滅亡した両シチリア王王女であった。

本来、この時点でフランツ=フェルディナントオーストリア位とは程遠く縁であると考えられていた。

ゾフィー・ホテクの誕生・幼少期

1868年3月1日
フランツ=フェルディナントの誕生から5年後。
ドイツ帝国シュトゥットガルトにて、ある一人の女児が生まれた。
彼女が後に大公と運命を共にする女性ゾフィー・ホテクである。

はホテク伯爵、ボフスラフ・ホテク伯爵伯爵夫人のヴィルヘルミナ
ホテクチェコ人の血統を持つ帝国ベーメン(現・チェコボヘミア)の伯爵であった。なおこの当時、伯爵のような爵位を持った貴族はごまんと存在した。ホテク経済状況は逼迫しており、どちらかというとホテク伯爵は没落貴族に近かった。

そのため、ゾフィーも外交官であるから教えられた学問を生かし、成人後はハプスブルクの傍系であるハプスブルクトスカ帝国陸軍の軍人、フリードリヒ大公の妻イザベラの女官(家庭教師)をして生活を支えていた。最終的に、彼女ハプスブルクトスカアンの筆頭女官にまでのし上がった。

フランツ=フェルディナントの幼少期

フランツ=フェルディナントは9歳の時、実結核にかかり死別する。
そして継としてブラガンサポルトガル)からマリアテレサ王女が迎えられた。
彼にとって継は8歳しか年が離れていなかったため、どちらかといえばというよりもに近かった。
そしてマリアテレサは義理の息子であるフェルディナント大公たちにも実の様に優しく接し、フェルディナント大公手紙からも慈悲深きと記されている。

の出らしく、おっとりしているように見えて、息子たちに問題が起こると、一緒に悩み、協してくれるであった。彼女は後にフェルディナント大公結婚に大いに賛同し、助を与えるのだが、そのことは後に記そう。

またフェルディナント大公は、傍系ながらも王の血筋を引く者として多くの学問に打ち込んだ。
ラテン語フランス語をはじめとした学、政治学、社交界に出るためのマナーなど覚えることはたくさんあった。

彼の性格の最大の特徴は何といっても勤勉さであり、また一度決めたことは底的に貫き通すという、神経質かつ融通の利かない部分があったと、歴史たちはっている。

ちなみに彼の長オットー皇子がそれとまったく正反対の遊び人(称は麗しのオットー)であったことは参考程度に述べておく。

そして成人後、フェルディナントは皇族の義務・儀礼の一環として帝国陸軍の軍役に属し、訓練を受けていた。


皇位継承者


マイヤーリング事件

1889年1月30日。(フランツ=フェルディナント 25歳)
その日に起きた事件は、彼の運命を一変させた。

ルドルフ皇太子心中事件(通称、マイヤーリング事件)である。

皇太子ルドルフを受け、成長したフランツ=フェルディナントとは対照的に、幼少期から不遇の人生を送ってきた。彼の祖ゾフィー・フォン・バイエルンゾフィー皇太后)は、エリーザベト皇后からルドルフを引き離し、自分の意思の下、家庭教師により、軍隊の如く底したスパルタ教育を強いた。これに対して、フランツ=ヨーゼフの言うことには逆らえなかった。

このような日々が続いたため、結果ルドルフ疑心暗鬼と恐怖心が強く、相当に内気で、かつ暴力的な性格になってしまった。

後にエリーザベト皇后の働きかけで、7歳の時に祖のスパルタ教育方針からは解放された。
しかし、エリーザベトと義であるゾフィー・フォン・バイエルンゾフィー皇太后)の関係は底的に険悪ものとなり、教育などをすべて家庭教師などへ押し付け、務と育児を放棄し、ウィーンを忌避し、旅行にふける毎日を過ごしていた。
またが付けた家庭教師が、保守的な王室儀礼を貫く祖とは全く正反対の自由義者であったことから、保守的なハプスブルク帝国め続けるとは悉く対立した。

成人後、ルドルフ皇太子ベルギー王女シュテファニーと結婚し、一女を授かるも、性格の不一致などから夫婦関係は冷めていた。

そして1889年1月30日
オーストリア北東部の都市マイヤーリンク狩猟館において、ヴェッツェラ男爵マリーマリー・フォン・ヴェッツラ)と、ルドルフ皇太子が血まみれで絶命しているのが発見された。彼らの死因によるものであった。

このことは妻との婚姻関係や、井の多くの愛人関係との狭間に悩んだ挙句、皇太子マリー・フォン・ヴェッツェラと理心中をしたのではないか?との噂を呼んだ。しかし、この事件の相は、1世紀以上が経った現在でも明らかになっていない。

ただ、この事件でルドルフ皇太子が亡くなったことは紛れも事実である。
一人息子の急逝という知らせを聞いた時、フランツ=ヨーゼフ1世は言葉を失った。

皇位継承者フランツ=フェルディナント


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最終更新日: 14/07/17 23:24
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