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シンボリルドルフ


ヨミ: シンボリルドルフ
掲示板をミル!
38カキコ!

85年、ジャパンカップ

ある男が言った。「競馬に絶対はないが、”その”には絶対がある。」

勝利より、たった三度敗北りたくなる

シンボリルドルフ。永遠なる皇帝

その日本世界に届いていた。

2013年ジャパンカップCMより

シンボリルドルフ(Symboli Rudolf)は日本の元競走馬・元種日本競馬史上4頭クラシック三冠馬であり、また初めて敗でクラシック三冠を達成した。「皇帝」、または「七冠」と称される。1987年顕彰馬に選出された。

パーソロン
スイートルナスピードシンボリ

であるパーソロンは1971・1976年にリーディンサイアーを獲得し、子3代天皇賞制覇の偉業を成し遂げたメジロマックイーンの祖である天皇賞メジロアサマクラシック2冠サクラスターオーである日本ダービーサクラショウリ等、数々の名を輩出した名種である。

スピードシンボリ有馬記念2連覇・天皇賞(春)宝塚記念を制し、海外遠征も積極的に行い、近代競馬の礎を築いた1頭でもある。また、1990年には顕彰馬にも選出されている。

※当記事は、シンボリルドルフが活躍した活躍した時代の表記に合わせて、特に記載がない限り年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。


3歳時:皇帝始動


シンボリ軍団総帥の和田氏、調教師はデビュー前からシンボリルドルフの素質を見抜き、シンボリルドルフのであるスピードシンボリ戦騎手でもあった「ミスター競馬」こと野調教師。そして戦騎手は「名手」岡部幸雄騎手というな布で、シンボリルドルフは新潟の芝1000m新戦にてデビューした。

この1000mで岡部幸雄騎手は1600mの競馬を覚えさせ、次走の芝1600mいちょう特別では2400mの競馬をし、シンボリルドルフに将来戦うことになるクラシック戦線を見据えた教育を施している。

3走は当時の3歳GIである朝日杯3歳ステークスではなく11月27日オープン競走が使われている。これは和田氏のジャパンカップに来場した海外競馬関係者にシンボリルドルフという素晴らしいサラブレッドを見せたい」という意向に基づいてのことである。


4歳時:一冠目皐月賞~ビゼンニシキとの対決~


4歳緒戦は弥生賞(GⅢ)から始動。下のライバルは前走共同通信杯4歳ステークス(GⅢ)を含む4戦4勝のビゼンニシキであるが、岡部騎手はビゼンニシキ戦騎手でもあったため、どちらに騎乗するかを選ぶこととなった。

岡部騎手はビゼンニシキを管理する成宮調教師と縁が深く、も猛にプッシュしてきたため、「岡部騎手はビゼンニシキに乗るのではないか」との見方が多かった。・・・が、岡部騎手が選択したのはシンボリルドルフであった。いや、岡部騎手く、「選択するとか迷うとかそういう次元じゃなかった。問題なくシンボリルドルフ。」とのこと。ちなみにこの選択激怒したビゼンニシキは二度と岡部騎手に騎乗依頼をすることはなかった。成宮師ともしばらく疎遠になったという。

そして迎えた弥生賞。休み明けに加えて当日の体重が+18kgだったからか1番人気ビゼンニシキ。ところが結果は1身3/4差でシンボリルドルフの勝。岡部騎手く、「この日はビゼンニシキに格の違いを見せつけるレースをした」とのこと。

続く皐月賞ではビゼンニシキ営の乾坤一擲の秘策により一騎打ちとなり、ぶつかり合い斜行してしまったが、最終的には1身1/4離して皐月賞制覇。そして表式で岡部幸雄騎手が行ったのが、後の武豊騎手とディープインパクトへと繋がる一冠を示す1本を掲げるパフォーマンスである。


二冠目日本ダービー~皇帝による名手への競馬の教授~


シンボリルドルフと戦を繰り広げたビゼンニシキマイラー血統であり、更には日本ダービーまでの過酷なローテーションから、シンボリルドルフは単勝1.3倍の圧倒的な支持を受けていた。

岡部幸雄騎手はこれまで好位差しの競馬をさせてきたにも関わらず、先頭を行くスズマッハら先行勢に並ぼうと示を出したが、シンボリルドルフはその示に全く答えず、第4コーナー過ぎ辺りで自ら進出を開始。先行勢を差し切り、敗でのクラシック二冠制覇を達成した。ビゼンニシキ?そんな馬いましたっけ?

岡部騎手は表式で二冠を示す2本を掲げ、「シンボリルドルフに競馬を教えてもらった」とった。


三冠目菊花賞~史上初。無敗での牡馬クラシック三冠馬~


セントライト記念(GⅢ)から始動。このレースを4身差のコースレコードで圧勝。余談ではあるが、このセントライト記念で2着に入り、皐月賞でも3着の実を持つオンワードカメルンは菊花賞を回避。この事からもシンボリルドルフの圧倒的な実い知れる。

ところが、ここで「シンボリルドルフ自身が菊花賞を回避する」という噂が流れたのである。というのも、和田氏は前述の3歳時の逸話の通り、ジャパンカップというレースに相当いれ込んでおり、出来れば大標であるジャパンカップに万全の状態で出走したいという思いがあった。が、菊花賞に出走するとジャパンカップは中1週となり、さすがに万全の状態での出走は厳しい。この世代、どの最強かはだれがどう見ても明らか。なら、わざわざ取れるのが明らか三冠など視して万全の状態でジャパンカップに出走すべきではないか、というのである。

しかし、周囲からの説得や、ファンの強い要望もあり、和田氏も「やはり三冠もとっておこう」と折れたのであった。もしここでシンボリルドルフが菊花賞を回避していたら今の三冠歴史は大きく変わっていたかもしれない。

そして菊花賞では外から強襲したゴールドウェイを3/4身離し勝利アナウンサー杉本清氏による「大歓京都競馬場い大輪が薄曇り京都競馬場に大きく咲いた!!」の名実況られて、シンボリルドルフは史上初の敗でのクラシック三冠制覇を達成。「不敗の三冠馬」の称号を手に入れたのである。そして表式では、岡部幸雄騎手による三冠を示す3本が掲げられた。


ジャパンカップ・四冠目有馬記念~ミスターシービー・カツラギエースとの対決~


菊花賞への出走により、当初の大標であったジャパンカップの出否が注されたが、やはり和田氏にこの大標を回避するという考えはなく、中1週のローテーションでシンボリルドルフはジャパンカップへ出走。前走の天皇賞(秋)を制した前年度クラシック三冠ミスターシービーとの史上初となる三冠馬同士の対決になった。

ミスターシービーは1番人気。シンボリルドルフは中1週のローテーションに加え、下痢を発症していることから生涯最低の4番人気であった。だがレースを制したのは三冠馬でも外でもなく、逃げを得意とする宝塚記念覇者カツラギエースだった。シンボリルドルフは英国ベッドタイムも差し切れず3着。こうしてシンボリルドルフの連勝記録は8連勝でストップ。初の敗戦を刻むことになってしまった。

次走の有馬記念では、逃げるカツラギエースマーク。第3、4コーナーで一気に差を詰め、直線で先頭に立つとそのまま2身突き放してゴールインカツラギエースにきっちりお返しをしてみせた。

式では岡部幸雄騎手が4本を掲げ、シンボリルドルフは史上初の4歳4冠を達成。7戦6勝3着1回の成績で最優秀4歳、そして年度代表に選ばれることになった。


5歳時:五冠目天皇賞(春)~三冠馬対決の決着~


シンボリルドルフの5歳緒戦である日経賞(GⅡ)は今でもり継がれている圧勝レースの1つである。シンボリルドルフ、終始なり。岡部幸雄騎手、終始持ったまま。その結果が4身差の圧勝である。もはや皇帝に敵はいなかった。

だが、それでも皇帝に立ち向かっていったミスターシービーであった。3度の対決となる天皇賞(春)では、皇帝勝利するためにこれまでの戦法を捨てた。向こう正面からマクリ始め先頭に立ち、自身の菊花賞再現を図ったのである。だがシンボリルドルフはもう一頭の三冠馬の奇襲にも全く動じず、いつもと同じく好位から直線で他を差し切り、シンザンと並ぶ五冠制覇を難なく成し遂げた。

式で岡部幸雄騎手は5本のを掲げ、ミスターシービーはこの後脚部不安により休養。そして膜炎を発症し引退となり、3度あった三冠馬の対決は3度ともシンボリルドルフの先着という結果に終わった。

次走の宝塚記念は直前に左肩跛行を発症し出走取り消し。ここを勝てば凱旋門賞遠征というプランもあったが、それは白紙となり、のGI戦線に向けて休養に入った。(ちなみにこの年の凱旋門賞サクラローレルレインボウクエスト。ただ繰り上げ優勝なので評価が難しい)


天皇賞(秋)・六冠目ジャパンカップ~世界を見据える強さ~


シンボリルドルフの次の標は勝利すれば連覇となる天皇賞(秋)だったが、調整の遅れからステップレースを使えず、天皇賞(春)から約半年振りのぶっつけ本番だった。それに加えて府中2000mでは絶対不利の大外17番。このシンボリルドルフ打倒の絶好条件にマイル皇帝ニホンピロウイナーや前走毎日王冠を制したゴールドウェイ、同競走2着の古ウインザーノットらが名乗りを上げた。

だがレースはシンボリルドルフが好位から他を引き離し、天皇賞連覇かと思われたが、外から1頭の皇帝を強襲。皇帝に対してまさかの差し切り勝ちという快挙を成し遂げたのは、当時準オープンギャロップダイナだった。
今でこそ天皇賞(秋)を制し、翌年には安田記念制覇後に海外遠征も経験し、引退レース有馬記念ではダイナガリバーの2着に入るという名として知られているが、当時のギャロップダイナは33戦7勝で、芝のレースで勝ったのは新戦のみ。単勝8820円の数字が示す通り、「あっと驚くギャロップダイナ」であった。(シンボリルドルフを差し切って勝ったのはギャロップダイナだけであり、ビゼンニシキミスターシービー・後述のミホシンザンが遂に成し得なかった事である。)

休み明けの緒戦であったとはいえ、まさかの敗北を喫してしまったシンボリルドルフだったが、次走のジャパンカップでは地方競馬代表のロッキータイガーとの日本所属ワンツーフィニッシュとなる六冠制覇。ギャロップダイナは7着に敗れ、カツラギエースと同じくお返しをしてみせた。

式では手綱から手を離し、五冠を掲げる手にを1本置いて六冠し示した。


七冠目有馬記念~ミホシンザンとの対決~


ジャパンカップ勝利したシンボリルドルフの次の相手は、五冠シンザンの最高傑作と言われている1歳下のクラシック二冠ミホシンザンであった。

シンボリルドルフは有馬記念ミホシンザンと対決し、4身差の圧勝。アナウンサーである盛山毅氏の名実況世界ルドルフ、やはり強い!3身、4身、日本ミホシンザンを離す!」という言葉を背に、シンボリルドルフは海外遠征を行うことになる。であるスピードシンボリに次いで史上2頭となる有馬記念2連覇となり、5戦4勝2着1回の成績で最優秀5歳以上、そして満票で年度代表に選出された(満票での年度代表1977年テンポイントに次ぐ史上2頭となる)。

式で岡部幸雄騎手は七冠制覇のを掲げなかった。この七冠制覇のパフォーマンスは、後年にディープインパクトに騎乗した武豊騎手とオーナー金子真人氏により成されることになる。


6歳時:海外遠征始動直後の悲運


シンボリルドルフは海外遠征を行うことになったが、和田氏と野調教師の間で計画の意見が対立。和田氏が海外遠征を強行し、シンボリルドルフは米国のサンルイレイステークス(GⅠ)に出走。米国特有である芝コースの中を横切るダートコース左前脚繋靭帯炎を発症。Daharの6着に敗れた。帰後、再度海外遠征が計画されるも、引退が決定。12月7日引退式が行われた。


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最終更新日: 13/11/08 02:47
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