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セカイ系


ヨミ: セカイケイ
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セカイ系とは、と君とその周辺で完結するセカイを救うお話である。


概要


ここでの『セカイ』とは、一般的な『世界』とは違いごく限られた範囲、具体的には主人公とそれを取り巻く環境す。このギャップゆえに世界ではなくセカイと表現される。

もともとは2000年代初めに生まれた言葉であり、主人公とそのごく近くの人間だけで世界の行く末が決まってしまうストーリーにつけられた呼び名であった。

また、1995年に放送されたアニメ新世紀エヴァンゲリオン』の影を受けた作品にもこの呼び名が付けられた。

その後も多くの人間作家がこの言葉に言及して独自の見解を示しており、正確な定義というものは存在しない。そのような状態ではあるが大まかに特徴を挙げてみると、

などの点が見られる。

評論家東浩紀らによって発刊された『波状言論 美少女ゲームの臨界点』編集部注による定義では

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界危機」「この世の終わり」などといった抽的な大問題に直結する作品群のこと」

とされている。

重ねて言っておくが、セカイ系という言葉の定義はあいまいであり、これが正解だというものは存在していない


否定的意見としてのセカイ系


使う人間によっては『薄っぺらい思想で世界を救おうとしている話』『主人公と大きな社会の繋がりをなくした独りよがりな話』という意味でセカイ系という言葉を使って作者批判する場合もあり、この言葉を使う際には周囲に誤解を与えないように注意する必要がある。


セカイ系としてのエヴァンゲリオン


1995年に放送された『新世紀エヴァンゲリオン』はそれまでのロボットアニメとは全く異質な作品であった。

通常兵器がきかないの巨大な敵とそれと戦う秘密組織とその組織が持つ巨大ロボットというモチーフこそよくあるものだったにせよ、それ以外の点については違っていた。ここでとくに注すべきは主人公碇シンジというキャラクターである。

碇シンジが人兵器エヴァンゲリオンに乗る理由は最初はヒロインが傷ついていたからその身代わりとして、のちには父親に褒められたいから、あるいは周囲に期待されているから、というよう変遷こそするものの『自分が地球を守るんだ、敵を倒すんだ』という強い意志はない。そこにあるのは周囲の期待に応えたいという自分周辺のみの動機であった。

ストーリー上でも敵が登場せずにシンジを描くだけのエピソードがあったりするなど心情描写が重視され、また、最終回前の2話についてはそこまで積み上げてきた伏線をすべて投げ捨てひたすらシンジをはじめとするキャラクターたちの内面描写のみが続き、最後は主人公が自分の居場所を見つけてハッピーエンドという視聴者の度肝を抜くものであった。

映画版ではきちんとそれまでのストーリーにつながる話が開されたものの、その中で世界シンジの乗るエヴァによって滅亡し、しかし、シンジの心の中のによりごくわずか人々が生き残るという悲劇的なものであった。

これをセカイ系に重ねてみると、シンジとその周辺のみで世界危機が展開し、シンジの心情によって世界が滅ぼされたり一部再生されたりと、シンジ世界危機が非常に密接にかかわっているといえる。


セカイ系と既存の物語との相違点


世界を救う。このテーマ古今東西普遍的なヒロイックサーガテーマとして使われてきた。日本を代表するRPGであるドラゴンクエストファイナルファンタジーもこのテーマは変わっていない。だが、これらの作品とセカイ系は決定的に違う点がある。

これらの世界を救う物語には避けては通れないお約束がある。『世界を救うためには世界中を巡らなくてはならない』がそれである。主人公たちはの中で世界中のの人々とらい、あるいは驚くような冒険を繰り広げ、あるいはその地にはびこる悪を倒し、そして最後に世界の果てで待ち構えている大魔王を倒さなくては世界平和を取り戻せない。

一方、セカイ系は違う。セカイ系の物語では、主人公は最初の村から出ようとしない。ことによっては自分のからすら出ようとしない。

ここでいう最初の村とは主人公が所属しているコミュニティのことであり、自分のとはコミュニティの最小単位、すなわち家族・友人・人のことである。世界危機とは村の崩壊と同意義であり、伝説の武器も倒すべき大魔王も村の中に存在している。そんなこじんまりとした大冒険がセカイ系の物語である。


セカイ系のメリット


セカイ系の物語の利点として挙げられるのとして、主人公とその周辺へスポットライトを当て続けられることが挙げられる。

人ひとりができることは非常に限られている。一人の人間であるはずの主人公世界に影を及ぼすようになるには本来ならば「主人公→周辺の人間関係(家族・友人)→より広がった人間関係(所属組織・学校)→(中略)→際関係(国家)→世界危機世界)」という順に数多くの段階を踏まなくてはならない。その段階を踏んでいく中で、主人公は新しい人間関係を築いたり、組織の仕組みの中に組み込まれていったりするのが通常の世界を救う物語である。

しかし、セカイ系の物語では世界を救うためにはそこまでの段階を必要としない。「主人公→周辺の人間関係→世界危機」あるいは「主人公ヒロイン世界危機」と、おそらくここまで短絡しても世界を救えるのがセカイ系である。

これだけ人間関係が狭ければ、物語の描写のほとんどを主人公とその周辺のみに使えるようになる。物語の中の社会の仕組みや世界危機の正体の説明すら省略してしまうことも可であり、その分主人公の考えや主人公の周辺とのかかわりを緻密に描けるようになる。

その結果、世界危機主人公周辺のみで展開され、日常危機が同居するようになる。遠い戦場で数千人が殺された話を聞くよりも身近な人間一人亡くなった時の方が死を身近に感じるように、主人公戦場に送り込むよりも日常の中においておいた方が読者の共感を得られ、同時に、いざというときにはその日常を崩壊させることにより危機の深刻さを読者に伝えることができる。

世界危機という巨大なテーマ読者の周囲に似た環境に落とし込むことによって、読者主人公への共感度を上げることができるのは非常に大きなメリットである。


セカイ系のデメリット


セカイ系の欠点はそのまま利点の裏返しである。主人公とその周辺しかスポットライトを当てないことにより、物語の中の社会世界危機の正体が説明されず、リアリティが欠如することは否めない。世界には数十億人の人間がいるのにもかかわらず、世界を救うのはたった一人の主人公(およびその周辺)のみである。

大げさに言ってしまえば、世界主人公の意のままであり、主人公の視界に入らない人間はその存在すら認識されない。主人公社会とのつながりではなく、当然あるべき社会理念とのや他人との衝突も薄く、個人の感情の赴くままに行動し、しかしそれでも世界は救われてしまう。そこにあるのは自分とその周辺の狭いコミュニティの利益のみであり、時にそれは『独りよがり』になる。上で記述した否定的意見としてのセカイ系はここに起因する。

また、主人公の行動が『楽して世界を救って賞賛されたい』というんだヒーロー願望と受け取られてしまう場合がある。セカイ系の主人公日常に生きている以上、何らかのや血のにじむ努とはなじみが薄い。むしろそれらの要素を入れてしまえば日常から離れてしまう。ゆえに、主人公世界を救うための下準備としての努は取り払われ、その場限りの感情などで世界が救われてしまうことがある。そのような話は因果応報を是としている人たちにとっては受けが悪い。

特に、ネット上の創作作品などで作者が自分自身を主人公投影させている場合、この非難はより強くなる。作者自身の知識不足などが原因で、『結果的に』セカイ系となってしまった場合はなおさらである。


セカイ系と分類する際の注意点


セカイ系という言葉は繰り返し書いたように固定された定義を持たない。そのため、個々人の感覚によってセカイ系という分類はその幅を大きく変える。

ゆえに、上記のようなセカイ系の特徴に一つでも被る部分があればセカイ系と呼ばれてしまう作品もあれば、セカイ系の特徴に重なる部分が多くてもセカイ系と呼ばれない作品も多い。

時に、単なる非難のためのレッテル貼りとして「○○はセカイ系だからだめだ」というような文脈で使われることもある。セカイ系の特徴をごくわずかしか含んでいない作品に対しても使われるが、それが余計にこの言葉の定義を混乱させる一因になっている。


セカイ系と分類されることがある作品



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最終更新日: 19/11/11 23:08
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