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ダグラス・マッカーサー


ヨミ: ダグラスマッカーサー
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ダグラス・マッカーサー1880年1月26日-1964年4月5日、満84歳)とはアメリカ陸軍の軍人である。
軍帽、サングラスコーンパイプがトレードマーク
第一次、第二次世界大戦太平洋戦争)、朝鮮戦争官を務め、GHQ日本の占領に従事。
ウィンストン・チャーチルフランクリン・D・ルーズベルトとは遠い親戚である。

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ニックネーム

アメリカシーザー の大君(アメリカマスコミ

ダグアウトダグ・・壕に籠って出てこないダグラスという意味フィリピンアメリカ兵)

天皇・・朕(天皇)より上にいるという意味 元帥・・マッカーサー元帥の略日本人) 

偉大なる親父朝日新聞

好戦・・ウォーモンガー中国共産党

などたくさん


経歴


南北戦争に従軍したアーサー・マッカーサー・ジュニア中将息子として、アーカンソー州の陸軍宿舎で生まれる。アーサーは当時植民地だったフィリピンで初代総督も務めており、2代に渡って関わる事になる。

マッカーサーも軍人をし、ウェストポイント陸軍士官学校受験し優秀な成績で入学を果たす、その後卒業まで優秀な成績を残し、卒業時はトップであった。ここで重要なことは、他の都市トップ卒業者はすべて忘れ去られたのに対し、マッカーサーはそうではなかったことであろう。
1903年に陸軍士官学校少尉の階級で卒業した後、工兵隊に入隊。2年間フィリピンで働き日本東京で勤務した。
この時、とともに日露戦争を観戦しているが、アメリカの一部では日露戦争最後の決戦となった奉の戦いで、当時工兵中尉だったマッカーサーが、日本軍の一部隊を揮しロシア軍台を攻略したという伝説が信じられていたりする。ネタ元は親バカだった親父だという説も)

戦後大山東郷平八郎木希典といった日露戦争で活躍した日本軍将星たちと面談し、大きな感銘を受けている。

第一次世界大戦

1917年にアメリカ参戦。
マッカーサーは様々な州から集められた、第42師団「レインボー師団」の参謀長長として参戦した。
指揮官でありながら最前線で揮を続け、
2回負傷し、外の勲章も含めて15個の勲章を受章した。
塹壕体の中で偵察写真から塹壕を見つけ、戦線を突破して行ったという。この時史上最年少の38歳で少将に昇進した(ただしたった3か後には35歳の二人の少将にあっさり抜かれることになるが)。しかしWW1のあまり犠牲の多い戦いの経験から、のちの彼の戦略にを与えることとなった。

戦後、その功績から歴史上2番若さウェストポイント陸軍士官学校校長に就任、しごき止し軍事飲みにとらわれず広い世間に知見を広げた将校の育成をして教育革を行った。1928年には第9回アムステルダムオリンピックアメリカ選手団団長も務めている。そしてまたまた1930年に、今度は米軍史上最年少50歳で参謀総長にも昇進するなどエリート街道を突き進んだ。

参謀総長時代の1932年に、第一次世界大戦の復員兵が生活困窮により、慰労の前倒しでの支給を要し起こしたデモ活動に対し、フーヴァー大統領の命を受けて催ガスまで投入して武鎮圧を図った(ボーナスアーミー事件)。この時にマッカーサーに前面に出ての鎮圧を思いとどまる様説得した部下の内の一人が、後の連合軍総司令官・第34アメリカ大統領ワイト・D・アイゼンハワーであった。武鎮圧による死者はほぼゼロであったが、ボーナスアーミーは民の同情を得ており、共産主義者の活動を鎮圧したと得意げなマッカーサーに対し非難が集中し、以後は特にアメリカ民主党流のリベラル層に政敵として執拗なネガティブキャンペーンを受けるようになった。

世界恐慌の対応に苦しむフーヴァー大統領選挙に敗れ、1933年フランクリン・ルーズベルト大統領が就任し、ニューディールが開始された。陸軍Civil Conservation Corps市民保全部隊)の立ち上げを導することとなった。工兵隊出身のマッカーサーはここで才をいかんなく発揮し、数十万人の雇用促進に大いに貢献することになった。民主党流層から蝎のごとく嫌われ解任圧の強かったマッカーサーであったが、ルーズベルトの一言で留任が決まった。しかしニューディールによる陸軍予算削減はすさまじいものがあった。陸軍はそもそもWW1後に将校の地位は大戦以前に戻され、将校と兵士と問わず、昇進はまるで氷河の動きのように遅く、大佐に昇進するのが通常59歳で、マーシャルのような有能な将官でも、准将になったのはやっと56歳であった。ほかの多くの将校はマーシャルのように優秀でも意欲的でも幸運でもなくまともな昇進は望めなかったのである。マッカーサーはしばしば大統領と衝突し、その仕事は楽なものではなかった。それでもマッカーサーの陸軍参謀総長はさらに任期を延長され1935年まで及び、M1ガーランドの制式採用や陸軍航空隊になけなしの予算を割いてのちのB-17の開発を成功させるなど実績を残した。

マッカーサー陸軍参謀総長退任後、1935年にフィリピン軍の軍事顧問に就任した。マッカーサーは優秀なアイゼンハワーを気に入っており副官としてフィリピンに連れていった。しかし陸軍の予算は乏しく、フィリピン軍の育成はそれに輪をかけて貧相であり、どうにも成功しそうにない不毛な仕事であった。さしもの温厚なアイゼンハワーも音を上げ、本に何度も転任願いを出したが、マッカーサーがマニラでの行軍パレードをアイゼンハワーの責任に押し付けた事件をきっかけについに1940年アイゼンハワーは袂を分かち本に復帰した。

1937年12月、マッカーサーはアメリカ陸軍を退役し、フィリピン軍の初代元帥に就任した。(フィリピンアメリカより1946年独立約束されており、独自の軍隊の編成中であった)。フィリピン独立準備政府初代大統領マニュエル・ケソンが、独立軍の完成には、50ドルボーナスを支払うことを約束していたのである。

第二次世界大戦

1941年7月日本印進駐に伴い日の関係が悪化していた頃、61歳のマッカーサーはホワイトハウスによって再招集され、再びフィリピンに赴任した。しかし1940年6月ヒトラーフランスにより情勢が大きく変わっていた。アメリカイギリス戦争となった場合ドイツを先にたたくことで合意しており、補給路が欧州戦線の3倍にもなるフィリピンについては防衛を放棄したためである。

そして12月真珠湾攻撃と同時に、フィリピン日本軍との戦いが始まった。アメリカの物資及び戦の多くは大西洋に向かい、バター半島およびコレヒドールの戦いで日本軍に大きな損を与え撃退するなど健闘したものの、援軍の見込みはなく追い詰められた。マッカーサーは最期まで戦う覚悟だったが、すでにマレー及びシンガポール日本軍に占領、多くの兵士が捕虜となり本土の危機に陥ったオーストラリア政府アメリカに対し共同軍の指揮官を懇願、ルーズベルト大統領より撤退の命が出され渋々承諾する事となった。オーストラリアに退避したマッカーサーは豪州マスコミインタビューにて「I shall return (必ずや私は戻って来るだろう)」と発言した。この言葉は有名なスローガンになり、マッカーサーが彼の約束1944年10月に果たすまで、フィリピン人の希望を保持するのに役立つことになる。

しかしコレヒドールの要塞の地下壕に閉じこもりバター半島に出てこないマッカーサーを将兵らは『ダグアウトダグぐらに籠るダグラス・マッカーサー)』とあだ名を付けて『ダグアウトダグは震えて岩石の下で横になってる。ぐらは爆撃機から安心でどんなショックも怖くない』という歌まで作って揶揄していた。しかしこの歌は不なものだった。地下の部はいつもしい撃にさらされていたし、マッカーサーはしばしばトンネル内の部から地上にでて、いっさいのものを破壊する身の毛もよだつ危険や脅威に、然とたち向っていたからだ。個人的なヒロイズムということになると、例によって、マッカーサーは部下の模範になる以上の態度をしめした。しかし前線にいる将兵は、この官の姿を見ることが出来なかったのである。

また日本軍の猛攻と飢えや病気で苦しむ自分らを見捨てて(いくら大統領とは言え)逃げ出したマッカーサーに対して、フィリピンで戦い日本軍の捕虜となった多くの将兵は非難の気持ちを抱いていたと言う。

マッカーサーは連合軍である南西太平洋方面最高官に就任すると、豪州カーティ首相と緊密な信頼関係を立した。米軍はさまざまな技術協インフラ整備に協し、オーストラリアの生産は大いに伸長し、1939年には、工作機械を生産するオーストラリア企業は3社しかなかったが、1943年までには100社以上になり、膨大な缶詰などの食料、車両リバティ船などがニューギニアやがなるカナルに供給されるようになった。豪州WW2においてアメリカレンリースより多くの物資をアメリカに供給したほとんど一のとなった。この補給体制の確立により、日本軍の予想よりい1942年末からニューギニアをにおいて連合軍の反抗が始まり、アイランドホッピングという損の少ない戦い方で日本軍を撃破していき、名民的人気を更に高めていった。


■sm9053065[ニコ動]

1944年太平洋の戦略において、マッカーサーはフィリピン攻略したが、ワシントンの統合参謀本部のアーネストキング提督太平洋戦争海軍戦争と考え、ニミッツ提督中部太平洋での作戦を優先、空母機動部隊はマッカーサーの嶼沿いよりいのである。しかし太平洋で実際に戦闘を行っている諸将は、南西太平洋方面軍はもとより、ハルゼー提督などの太平洋方面軍においてもフィリピン攻略を支持していた。物資の補給基地となった豪州から嶼沿いに太い補給路が確保できたからである。これらの見解の相違は、ルーズベルトもよく知っていたが、いずれにしても、これを調整する会議を開く必要があった。しかしノルマンディー上陸作戦のため英国太平洋戦線における二方面作戦に物資兵面で難色を示すと、ワシントンの統合参謀本部のマーシャル陸軍参謀総長もアーネストキング提督台湾攻略方針一本化に賛同するようになり、マッカーサーへはニミッツ海軍への兵供給と、残存の兵による印への限定的な侵攻を命じた。しかしこれは思わぬ人物により覆されることになる。

1944年7月ハワイに「日本に対する行動の段階を決める」ためにマッカーサーは、個人的に出席するよう招かれた。大きな会議にはそれまで一度も出席したことがなかったので(その後も2度と招かれなかった)、何か重要な問題が決定されるのだろうと考えていた。しかし会議には、マーシャル参謀総長もキング海軍作戦部長も出席していなかった。かわりにリーヒ統合参謀本部議長と、ルーズベルト大統領が直々に参加していたのである。この会議ではニミッツ台湾攻撃をし、マッカーサーはニミッツの戦略による被害の大きさを批判、その後ルーズベルトフィリピン解放する道徳的義務を強調した。ルーズベルトとマッカーサーは、そのあと一緒に部隊を閲兵したのである。決め手となったのは補給であった。補給路が倍になる台湾攻略は、太平洋戦線に許された物資量では極めて困難であることが分かってきたのである。9月ルーズベルト大統領は、ついにマッカーサーにフィリピン攻略を命じた。

1944年10月23日に再びフィリピンの地を踏み「I shall returnを実現させたマッカーサーは終戦までフィリピンで戦い続ける事になる。太平洋戦争の有名な戦闘太平洋正面の戦や上陸戦で、太平洋方面の連合軍官であった海軍チェスター・ニミッツ元帥は、マリアナ・硫黄島沖縄などで大規模な戦や上陸戦を勝ち抜き、々しい活躍をしたが、ニューギニアフィリピンで多くの日本陸軍部隊と厳しい戦闘を戦い、少ない損にて圧倒的な勝利を得たマッカーサーのの方がニミッツを上回るとの評価も多く、硫黄島沖縄での苦戦を報じたアメリカマスコミが、マッカーサーに揮をさせればここまで苦戦しなかったと論評する事もあった。

余談だが、今日マッカーサーが「I shall returnを成し遂げた間として、レイテのに上陸するマッカーサーとその幕僚の写真が有名であるが、あの写真は後日海岸線日本軍を掃討し安全となった後に撮された所謂プロパガンダ写真である。流石日本軍の攻撃の中であんなのんびりと撮する余裕はなかったが、マッカーサーの強い希望により安全になった後に記念として撮され、特にそのような注釈をつけられる事もなく、上陸時の写真として今日に伝えられている。

連合軍最高司令官総司令部(GHQ)

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最終更新日: 18/05/27 02:27
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