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ナポレオン


ヨミ: ナポレオン
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ナポレオン(Napoléon)とは、フランス語男性名。イタリア語男性名ナポレオーネ(Napoleone)に由来し、旧くはロンバルディア地方の山岳地帯ヴァルサシーナ(Valsassina)を本拠とする名門貴族デッラ・トッレDella Torre)出身者をすあだ名であったが、については諸説あるものの定説はい。

転じて、以下のことをす。

  1. フランス第一共和制の軍人・政治家ナポレオン・ボナパルトナポレオン1世として皇帝に即位しフランス第一政を布く。子孫および兄弟の子孫の多くもナポレオンの名を継承し、政崩壊後も子孫の多くは政府位を請している。以下はな者。
  2. ブランデー(コニャック/アルマニャック)の等級名。
  3. ナポレオン(トランプ) - トランプの遊び方のひとつ。
  4. ナポレオン(GBA) - ゲームボーイアドバンスで発売されたナポレオン・ボナパルトを題材としたゲーム
  5. ナポレオンボードゲーム) - 任天堂より発売されたボードゲーム
  6. ルイ・ナポレオン - 漫画キャプテン翼」に登場するキャラクター
  7. ナポレオン - ディズニー製作アニメ作品『おしゃれキャット』に登場するキャラクター
  8. ナポレオン - ジョージ・オーウェル小説動物農場』に登場する雄キャラクター
  9. ナポレオン - ゲームスナッチャー』に登場する中国系のタレコミ屋。
  10. ナポレオンフィッシュ - スズキベラ科最大種メガネモチノウオCheilinus undulatus)の英名の一つ(英: Napoleon fish, Napoleonfish)。ナポレオン時代の士官制帽である双帽(ビコルヌ、bicorne)を想起させる形状のため。
  11. いいちこ - 三和酒類の麦焼酎キャッチフレーズが「下町のナポレオン

ここでは2.以下の多くの直接および間接的由来となった、1のナポレオン・ボナパルトについて説明する。


ナポレオンとは。


長いし複雑だしこれだけで一冊の本になるものなので、より詳細な内容については各種有名どころの歴史書、ナポレオニックサイトなど調べてほしい。また、あくまでもマンガであるため随所に脚色・誇があることをただし書きとしたうえで、長谷川哲也氏の『ナポレオン -獅子の時代-』などで理解を深めるのが良いだろう。
ここでは概略を記するだけとする。

コルシカ出身。コルシカでの名前はブリオーヌ・ボナパルテ(Nabulionu Bonaparte, 現代コルシカではナプリオーネ・ブォナパルテ(Napulione Buonaparte))。トスカーナの下級貴族の末裔であるため、洗礼名は現代イタリア語体となったトスカーナ貴族号を入れたナポレオーネ・ディ・ブォナパルテ(Napoleone di Buonaparte)としている。しかし生涯の多くをフランスで過ごし数々の事績を成したため、フランス語によるナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)が最も通用している。

父親ウマい立ち回りで、フランス領となったコルシカからフランスへ移り住み幼年学校、士官学校へのを歩む。当時としても傑出した才があった…と言われるが、どうだろうか。

砲兵士官のへ進んだあと、生地であるコルシカへ赴任されるがここで騒ぎに巻き込まれ、フランス家族ともども移住する。
当時フランスは、フランス革命以後の大混乱の渦中の中にあり、フランス周辺革命の余波が自に及ばないよう第1次対大同盟を組んでいた。つまり内では政争、外では戦争という状態だった。この中でナポレオンはトゥーロン派遣され結果を出し、大尉少佐少将という破格のスピード出世を果たす。
その後、さらにヴァンデミエールの反乱でも頭を現し、一躍フランスの表舞台へと名乗り出ることになった。

以後、イタリア戦役、エジプト遠征の戦いの後、第一執政を経て皇帝の座につく。
一概に戦争英雄と見られがちな側面があるが、数多くの内政面での功績も特筆されるだろう。
何しろ、現代につながる「万人の法の前の等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」を盛り込んだナポレオン法典の導入や現代でも続くメーターやグラムなど根拠のある度量法の統一など様々な功績を果たしていることは特筆に値する。

その後、トラファルガー戦の敗北のためイギリス攻略は頓挫したものの、反転してプロイセンロシアオーストリアの各軍を破った「アウステルリッツの戦い」で欧州覇権を握ることに成功した。
…とはいえ、ナポレオンの絶頂期はこのあたりまでで、のちのロシア遠征失敗を契機に破綻が始まり、部下からも裏切りにあうなどして位を失い、エルバへと流される。

が、決してあきらめなかったナポレオンエルバを脱出。
再度フランス皇帝の座に舞い戻ったものの(下)、当時の勢いはすでになく「ワーテルローの戦い」ですべてを失い、今度はさらに遠いセント・ヘレナへ流され、そこで亡くなった。52歳だった。

ヒ素による殺説が根強いが、幼少期の髪の毛からも同等の濃度のヒ素が検出されている。


ナポレオンがもたらした軍事的革新と限界


よく言われることだが、当時フランス軍がどうして精強だったのか。という点についてあげられる民軍の確立砲兵騎兵歩兵の三兵戦術および軽歩兵による散兵戦術、そしてこれを運用する兵単位としての師団制度の導入などはナポレオンが編み出したわけではなく、7年戦争後のフランス軍内部の大規模な革新とそれに続くカルノーらが果たした軍制革によるところも多い。

ではナポレオンがどうして現代に至るも賞賛されているか、といわれれば、スピードを生かした兵の移動と集中が見事だったからといえるだろう。民皆兵の士気の高さなどが可とした問わず異常なまでの行軍スピードで進軍しつつ、さらに分進合撃、すなわち各師団、軍団をバラバラに進ませ、要所で終結させるという手法は、当時の旧態依然とした歩みの各軍勢を翻弄した。

1805年においては800kmをわずか5週間で踏破する驚異的な進軍スピードを見せている。毎日徒歩を中心として2025kmを進軍した計算となり、当時の交通網を考えると驚異的ともいえるだろう。
一人であればさほど難しくないと思われる距離だが、万レベルの人員が動くのである。隊列を維持し、大砲などの重装備を移動させる困難さを考えれば一日20kmオーバーがどれほど驚くべきものか想像がつくだろう。

これらの驚異的な移動速度速さを確保できたのは当時としては丁寧に構築された兵站システムに負うところが大きいとも言われている。軍隊の携帯食の長期保存などを善し、缶詰の元祖はナポレオン軍事革命から始まった。
ナポレオンといわれるとイタリア戦役やロシア戦役などで行った現地調達の話が印に残り、兵站補給など軽視していたと見られがちではあるのだが、それは当時状況がそれを許さなかったケースだけであった。通常は内からの進軍などを行う際には事前の見積もりに基づき兵站拠点を準備するなど当時としては手厚い兵站路を構築していた。
(ただし現在では、行軍速度については他とあまり差がないのではなかったのか、という意見もある)

彼は望むとき、望む場所で相手に戦いを強要した。分進合撃は、敵軍指揮官にしてみれば各個撃破のチャンスであると考えられたが、それ自体がナポレオンだった。分散しているように見える軍勢はナポレオンの緻密な示のもとで、ある時、ある地点において集合することが可だった。つまり敵軍は優位と信じて進出し、対峙したときにはフランス軍もまた同程度の軍勢がそこに現れていたという形になる。

また戦場においてもそれは変わらなかった。従来までの戦列歩兵的横列形が体だった会戦に、散兵戦術及び縦列形から横列形への形転換などの新機軸を盛り込んだ。
(実のところ、従来までの横列形が運用できる地形があまりにも少なく・・・万単位の兵が横列形をとるために必要な戦場があまりに限られていた・・・ということもあり、このような条件がナポレオンに敵対する諸外の軍運用に制限をあたえていた、という意見もある)

つまり、ナポレオン戦場を選ぶだけでなく、戦場においてもポイントを選び出し相手に損を強いることができたのだ。
同数の兵で対峙しても巧みな欺瞞と速な運動で局所的に兵の優位を作るほか、砲兵を移動させつつ攻撃させ集中火を行い、必要であればアウステルリッツでは有利な丘陵を明け渡す、あるいは自オトリにするなど敵軍の移動方向を制限するなど巧みな手腕をみせたこともある。

ただし戦いが進むにつれ、柔軟で複雑な動きを可とした経験ある将兵たちが失われていき、ナポレオンの戦術は壮麗さを失って愚直なものとなっていったことも忘れてはいけないだろう。

なにより、このナポレオン戦術は各により分析されることになる。有名なところではプロイセン(当時のドイツ)の高級士官たち、シャルンホルストグナイゼナウクラウヴィッツたちの参謀集団たちはこの戦術を理解し、従来の傭兵体から民兵への転換など様々な轢の中、プロイセンの軍政、及び革を促すことになる。
オーストリアも同様に、そしてスウェーデンナポレオンに敵対したフランス将軍、ベルナドットを王として向かえて研究を重ねていった。こうしてナポレオンの敵対は彼の戦いを身につけ、対応策を講じていくことになる。

これは皮な結果だといえるだろう。ともかく、彼という怪傑に対抗する為に、欧州中が国家を基盤とした近代的な軍隊の成立を急いだのは紛れも事実である。

ナポレオンナポレオン自身が傑物だったために、大陸軍(だいりくぐん、グランダルメ、La Grande Armée)と称されるフランス陸軍の揮は極論で言えばナポレオン本人が考え、本人が示を出すことで勝利することが出来たのである。
当時のフランス軍の師団長元帥号をもつ各軍団長はそれぞれ特徴をもち有能かつ戦意に溢れた指揮官たちだったが、そのはどこまでいっても前線指揮官としてのであり、ナポレオンの意図を高次元で理解し、あるいは独自の判断で戦い、勝利を勝ち取ることの出来る将官は…本当に数が少なく、ダヴー、マッセナなど一握りだけでしかなかったのだ。

勇猛を誇ったフランス大陸軍の元帥たちはナポレオンがいない戦場では総じて並、あるいは並以下の指揮官でしかなかった。それはナポレオンが望んでいたことでもあるのだが。

以上のようにナポレオンという偉大な天才がいたことでフランスは強だったが、それはフランスの弱みともなったのである。逆にプロイセンの秀才たちが集う参謀本部は、シャルンホルストが志半ばで倒れたあとも、なおその他の将官たちが支えることが出来た。 彼らはたった一人の閃きをもつ天才にすべてを委ねるより、貴族民問わずに秀才たちを集め、軍事的知識をつけさせた。
これによって集団導と、委託命、つまり作戦的と標を明確に示するのみで実施にあたっては各部隊の指揮官-参謀の独自裁量で行うことを可にできたのである。

フランス側も参謀制度はあったものの、参謀長役を長年務めたベルティエにしても日本で参謀といわれるとイメージの強い軍師的な、あるいはプロイセンの参謀本部的な役ではなく、ライン&スタッフスタッフ側、つまり事務方的任務の立場であり、指揮官の戦術立案の補佐という意味合いからは遠い。

これら揮体制の極端な一極集中化による弊は没落のはじめとなったスペイン戦線でより一層はっきりすることになった。ナポレオン一人で戦うには欧州大陸は広く、そして戦いの連続はナポレオン自身を疲弊させた。ナポレオンの一族には彼を補佐できる有能な人材はなく、ありていに言えば個人としては善良であったとしても政治的、軍事的には愚物がおおかったのも彼が常に働かねばならぬ一因でもあったのだ。

またナポレオン天才はどこまでいっても軍事上の問題であり外交上のものではなかったことも没落の大きな一因だろう。数度にわたる対同盟などを打開するのに最終的には軍事にのみしか頼れなかったところが彼の限界ともいえる。

こうしてナポレオンが過度の緊化におかれ心身を消耗し、年と共に体に問題を抱え、判断にキレがくなっていたとき、彼を支える人材はいなかった。…逆に裏切る者も現れたのである。
ロシア戦役後に行われた「諸民の戦い」のあと、フランス内で内線作戦を行いプロイセン軍を迎撃しようとしたナポレオンだったが、首都であるパリを護っていたマルモンが彼を裏切り降伏してしまう。それはすべてを台しにする行為だった。
マルモンは長年ナポレオンに付き従っていた部下ではあったが、パリを明け渡すということはナポレオンの戦略を理解していれば決してとるべき対応ではなかったのだ。これは部下に対して駒として動くことをめたナポレオン自身の失策でもあった。こうしてナポレオンの治世は終わっていったのである。
まさしく一人の天才の可性と限界を示したといってもいいかもしれない。


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最終更新日: 18/12/13 08:30
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