ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


フリードリヒ2世


ヨミ: フリードリヒニセイ
掲示板をミル!
49カキコ!

フリードリヒ2世とは、ドイツの君の名前である。重度のオタク個性的かつ先進的だった有能な二名の君が存在する。

  1. 第13代神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世
  2. 第3代プロイセン王フリードリヒ2世


1の概要


フリードリヒ2世(Friedrich II. , 1194-1250. 在位1220-1250)は第13代神聖ローマ皇帝である。彼の進歩性と残した業績によって彼は同名のフリードリヒ大王にも負けぬドイツの英傑の一人とされる。

世界の脅威」「玉座にのぼった最初の近代人」と称されたく生まれすぎた天才で、幼少から6カ国語を操るのみならず槍術狩猟、乗など体的にも秀でていた。多文化・多民族の共存共栄をし、当時先進的だったイスラム文化にも造詣が深く、宗教よりも科学するオタクでもあった。そのため、当時リア充の頂点であったローマカトリック教会からは反キリストとして忌み嫌われた。

フリードリヒ2世の祖は最も皇帝らしい皇帝ドイツ人気の高いフリードリヒ1世(バルバロッサ)である。祖王が実にドイツ的な君であったのに対し、フリードリヒ2世はもっとも非ドイツ的な君だったと言われる。というのは彼はイタリアで生まれイタリア人のを持ち、さらにはドイツ皇帝でありながらその治世のほとんどをイタリアで過ごした君であった。

フリードリヒ以前の神聖ローマ皇帝達はみなかつてのローマ帝国の再来をしてイタリアに干渉を続けていた(イタリア政策)。しかし彼らが考えていたのはローマ教会に権威づけられた大キリスト教帝国であった。それに対しフリードリヒ宗教の垣根をえて多民族皇帝の威の下に暮らす、まさに古代ローマ帝国再現を考えていたのである。その構想の上ではドイツなどは属州の一つでしかない。先進的に過ぎるフリードリヒ世界観は当然ドイツイタリア諸侯。特に古きを守するローマ教皇との衝突に結びついた。


生涯


フリードリヒ神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と南イタリアの両シチリア王の相続人コンスタンツァの間に生まれた。そのためフリードリヒはそのままいけばドイツと南イタリア広大な領土を相続することになるはずであった。当然それを面く思わない者がでてくる。

王がマラリアによって32歳の若さ折するとドイツで後継者争いが勃発する。王のシュヴァーベンフィリップ王の士(ミニテリアレス)のラヴェンナマクウヴァルトが両シチリアで勢争いを始めたときフリードリヒはわずか3歳でしかなかった。そのためコンスタンツァは教皇インノケンティウス3世を頼り、息をこれに預けた。フリードリヒは教皇の護下で最新の教育を受けて英邁に育っていった。

フリードリヒが元した時のドイツにはオットー4世が君臨していた。彼は元々インノケンティウス3世の後押しを受けて即位したのだが既に二人の仲は険悪になっており、またオットーイギリス王の甥であったためこれを嫌ったフランスフリードリヒを支持した。教皇は南イタリアの両シチリア王ドイツが併合されることを危惧して両シチリアの王はフリードリヒの嫡男ハインリヒに据えさせた。こうした後押しを受けてフリードリヒドイツに乗り込みオットー軍を撃破して皇帝に即位した。

しかしインノケンティウスが死ぬとフリードリヒは両シチリ国王だった嫡子ハインリヒを共同統治者としてドイツ王にして、自らは両シチリアを本拠地とした。当時のシチリアはほぼ政府状態での体をなしていなかった。フリードリヒはまずこの荒れた土に秩序を取り戻そうと努めた。

フリードリヒの非キリスト教的生活と胸に秘められた野心は教皇グレゴリウス9世を刺し、彼の十字軍不履行を口実にフリードリヒは破門宣告されてしまう。だが彼はそれにもめげず十字軍(第6次)を実行し、サラディンの後継者たちと交渉を進めて、なんとイェレサレムを無血開城させてしまった。ここで彼はイェレサレム王として冠をかぶった。

フリードリヒがシチリアに帰った時には教皇との仲は修復不可能になっており戦争が始まった。教皇サイドにはロンバルディア都市同盟がつき、ドイツ諸侯も味方し、なんとフリードリヒの嫡男のハインリヒまでもがの敵に回った。しかしフリードリヒはこの攻勢をイスラム兵すら駆使してひらりと交わし続け死ぬまで奢な生活を楽しんだと言われる。

とはいえ破門を恐れずローマ教皇相手に戦争を続けられるのは稀代のニヒリストフリードヒリだけである。彼の死後、後継者たちは没落しフリードリヒのホーエンシュタウフェンは断絶。神聖ローマ帝国は大位時代に突入する。


治世


フリードリヒの治めたシチリア王中世にあるまじき先進性を持っていた。全な法典をもち、市民貴族と並んで政治に参加し、税以外の関税を取らず、産業と商業の大幅な国家独占を行なったは同時代で二である。

ビザンツとギリシャアラビアアフリカの文化が入り混じったこのでは多くの言が話され、フリードリヒもイェレサレムでアラビア語で交渉を行ない現地人から「この者は他のフランク人とは違う」と一置かれている。フリードリヒ治安を揺るがす異端には厳しかったが、基本的には信仰の自由を認め、自らもアラブ人ハーレムを持つなど異端的行動をよく教皇から叱責されていた。

彼の学問的好奇心は広く強く、特に占術と文学愛した。また彼は奇獣えた動物園を設立し人々を驚かせたり、ローマ教皇の影から外れた大学おこして学術を保護した。ある時フリードリヒは、一言も言葉をかけずに赤ん坊を育ててみたらどうなるかと気になり実際に実験してみたことがある。しかし被験者の赤ん坊全員死んでしまっため、その残酷さは後世まで非難された。


2の概要


フリードリヒ2世(Friedrich II. , 1712-1786. 在位1740-1786)は、第3代プロイセン王である。

別名「フリードリヒ大王(フリードリヒ・デア・グローセ)」

は「偉大なる内政王」「兵隊王」と呼ばれる第2代プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム1世
オーストリア継承戦争七年戦争勝利し、さらにポーランド分割によって、辺の一小国であったプロイセン王国の地位を列強(末席とはいえ)に押し上げた。

彼本人は芸術肌の典的な啓専制君で、多くの功績により同時代の人々からも「大王」とあだ名された。またフランス哲学ヴォルテールと友誼を交わしたことでも有名である。ベルリン郊外のポツダムにサンスーシ宮殿というロココ式離宮を作り、そこで学者や芸術との交遊を楽しんだ。自らもフルート演奏していたという。敵国の君にすら信奉者がおり、たびたび窮地から救われた。飢餓対策としてドイツじゃがいもを広めたことでも知られる。


フリードリヒ大王


フリードリヒ大王はヨーロッパのみならず世界で広く英雄として崇拝され、明治日本でもその業績はよく知られていたほどである。

さて、若い頃のフリードリヒ戦争嫌いの平和義者であった。彼が青年の頃に著した『反マキャベリ論』では弱肉強食ヨーロッパ世界批判しており、軍事訓練よりも音楽に触れている方が好きな線の細い人物であった。王は息子のそんな気質が気に入らず、厳しい体罰も含むスパルタ教育を彼に施した。父親暴力に耐えきれずある日フリードリヒは友人と共に亡命を企てるが失敗し、友人は彼のの前で処刑。フリードリヒ自身も殺される寸前という始末であった。

しかしそんなフリードリヒが、王の後を襲ってプロイセンを継いだ途端に侵略戦争を始めるのだった。その変ぶりにはヨーロッパの多くの人が驚いた。

彼が挑んだオーストリアハプスブルク帝国は大といえど、政治軍事も知らず、皇族でありながら政略婚約を蹴って恋愛結婚した初心なマリア・テレジア(当時23歳)が即位したばかりで隙があった。元々オーストリア戦争でなく婚姻政策で領土を拡大した(「幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」)であり軍事が圧倒的というわけでなく、むしろよりも柄を重んじたせいで宮廷には庸な人材しかっていなかった。

かたやプロイセンには王が育て上げた近代的な軍隊と豊かな財政(王は軍事好きだったが戦争は行わなかった)があり、勝算は十分である。彼の狙うシュレジエンの土地は産業が豊かで人口豊富。喉から手が出るほど美味しい獲物であった。

フリードリヒ大王は「オーストリアに男はいない」と侮りシュレジエンを急襲する。オーストリア宮廷は見事なフリードリヒの軍隊にが引け、シュレジエン割譲止むなしに傾いていた。そこで待ったをかけたのがお飾りの皇帝だったはずのマリア・テレジアその人である。フリードリヒの最大の誤算はマリア・テレジアの才覚を過小評価したことにある。フリードリヒ絶対許さないウーマンと化したマリア・テレジアはすぐさま反撃にでる。

マリア・テレジアカール6世政治は夫のフランツが行えば良いと考えており、マリア・テレジアには帝王学をほとんど教えていなかった。しかし元は小国王子だったフランツは蓄財は得意だったが軍事や大を治めるは欠けていた。フリードリヒはその間隙を突いたのだが、その夫に代わりマリア・テレジアハンガリーから援軍を得てフリードリヒっ向から撃退する構えを見せたのだ。後にフリードリヒは「オーストリアで初めて男を見たと思ったらそれは女だった」とっている。

二度のシュレジエン戦争大王の名はこの戦いにおける々しい勝利によって、称されたものであった)を経てひとまずの平和が訪れたがマリア・テレジアにはプロイセンに勝ち逃げさせるつもりは一切なく、次々と内の軍事行政革に取り組んでいった。ハンガリー市民に徴兵を行ったり、格に関わりなく義で優秀な人材を登用した。フリードリヒを屈させるために200年以上ライバル関係を続けていたフランスとも手を組むことも辞さなかった(外交革命)。万が一にもブルボンフランスハプスブルクが手を組むことはないと考えていたフリードリヒは驚き恐懼したが、「敬虔なカトリックテレジアフランスの売婦と手を結んだ」などと軽口をいていたようでもある。

男尊女卑義のフリードリヒ女性を小馬鹿にする発言を繰り返していたこともあり、マリア・テレジアは各の有貴婦人と手を重ねていく。オーストリアマリア・テレジア、宮廷を王ルイ15世のポンパドゥール夫人、ロシアの女エリザヴェータ。ピチカート同盟とも言われるに囲まれてフリードリヒは不安を募らせた。なんと言ってもプロイセン小国。彼が死んだ時ですらプロイセンの人口はフランスの1/4にしかならなかったのである(と言っても当時のイギリスですら、フランスの1/3~1/2の人口しか持ってはいなかったが…)。

このような情勢下でフリードリヒ先手を打ってザクセンに侵攻し七年戦争が始まった。これはかつて彼がオーストリアから奪ったシュレジエンを今度はオーストリアから守るための戦争であった。シュレジエンを巡るフリードリヒマリア・テレジアの因縁は欧州とその植民地まで巻き込み、世紀の大戦争に発展していった。この戦争フリードリヒは勝ち抜き自身の名を確固たるものにする。強運に助けられたと言えど、本質的には彼のり強さがあったこそ、ギリギリのところでプロイセン王国生存に成功したと言える。

当時のフリードリヒオーストリアフランスロシアから袋叩きにされて、プロイセン王国は何度も絶体絶命の土壇場を迎えることになった。大王母親は博打でを稼ぐこともあったようだが、大王もまたギャンブラーで前線で部隊を率いることを好み、負けが確定してもぎりぎりまで撤退を行おうとせず、大敗して命からがら戦場から逃げ帰ったことも一度や二度ではない。胸に弾が当たった際に、に入れていたタバコケースが弾をはじき返したという冗談のような話まで残っている。もうダメだと諦め自害を考えたこともある。遺書も何枚も書いた。首都ベルリンは二度も占領され、財政援助をしていたイギリスにもやがて見捨てられた。


次へ»
最終更新日: 19/08/15 15:44
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ