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ベルリンの壁


ヨミ: ベルリンノカベ
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ベルリンの壁とは、ドイツ首都ベルリンにあった亡命阻止装置である。


概要



東西分断


第二次世界大戦終結後、敗戦国ドイツアメリカフランスイギリスソ連の4分割占領されたが、ソビエトが占領した首都ベルリンもまた別箇にアメリカフランスイギリスソ連の4分割管理されることになった。

のちに東西冷戦化、ベルリン封鎖を経てソ連占領区はドイツ民主共和国東ドイツ)、それ以外の地域はドイツ連邦共和国西ドイツ)としてそれぞれ別のとなる。

しかし西ベルリンはそのままアメリカフランスイギリスの3が占領を続ける形(3の信託統治領)になり、西ベルリン東ドイツという共産圏の中に浮いた資本主義営ののようになってしまった。
しかもこのような状態でありながらも何もなく、東西の交通機関鉄道バスなどが界線をえるように運行され、東と西を往来する人が多くいる状態が1961年まで続いたのである。


壁の建設  - 一夜での境界封鎖 -


東ドイツ・東ベルリンでは過酷なノルマに対抗して発生した労働者の暴動が政府ソ連に鎮圧されるなど(1953年ベルリン暴動)、社会主義の理想とは裏に一貫して政府による民の抑圧政策が取られていたため、この東西ベルリン特性を利用して東側住人の西側への亡命を図る動きが活発化していった。
その亡命者は毎年数万から数十万に及び、このままでは東ドイツ国家の存亡が危ぶまれるようになった。そこでこの動きを封じるため、1961年8月13日に東西の界線に建設されたのがベルリンの壁である。 建設を最終的に決断したのはソ連の当時の書記長、フルシチョフであったと言われる。
は予告なく建設され、をまたいでいたSバーン電)、Uバーン地下鉄)の線路も寸断された。に面した建物では取り敢えずレンガで塞ぎ、後には建物そのものを取り壊して監視が可なように空白地帯を設けるようになった。

の建設により民の亡命の動きは阻止され、東ドイツは取り敢えず国家の安定を取り戻した。東ドイツ資本主義から社会主義を護るためのだと盛んに宣伝した。また経済西ドイツには及ばないがある程度成長し、同は「社会主義優等生」と呼ばれたこともあった。


壁の瓦解  - ハンガリー経由での亡命 -


しかし1980年代に入ると、東ドイツのみならず東欧経済は停滞、各民生活は困窮をきたした。
これにより何らかの革をめる民衆のが強くなり始めた。1985年ソ連書記長がゴルバチョフとなるとその動きは更に高まった。だが東ドイツルーマニアなど、東欧の多くはそのような変化を認識できず、民のを抑圧し続けていた。

そんな中、革をいちく始めたのがポーランドハンガリーである。
ポーランドでは独立管理労働組合「連帯」の活動勢が高まり、政府が円卓会議を開催するなど、それら運動妥協を探り始めた。
一方でハンガリーはもともと1970年代から独自の革を進めており、89年になると政府導権を握るようになった。彼らはカーテンによって阻まれていたヨーロッパへの復帰を強く望み、西側諸との関係をなんとか回復しようと模索していた。

そのハンガリー1989年5月オーストリアとのに存在した「条網」の撤去を発表する。これはハンガリーヨーロッパ復帰を宣言する意味があったと言われる。
だが、その動きは西ドイツテレビ放送を受信することが出来た東ドイツ民にも伝わり、西側に逃げられるのではないかと考えた東ドイツ人の一部がハンガリーバカンスの名で大量に移動、難民と化した。
8月19日、「汎ヨーロッパピクニック」としてハンガリー政府の裏工作もありこの東ドイツ人の一部がオーストリアへの出に成功、その知らせが伝わったことで更に多くの東ドイツ人がハンガリーへ出した。
9月11日、ついにハンガリー政府東ドイツ人の西側出然と認めると宣言。ハンガリーを経由すれば東ドイツ人はオーストリアを経て西ドイツへ逃亡する事が可となった。
ベルリンの壁の的はこの時点で事実上失われることになったのである。 

東ドイツ民はハンガリーの他、ポーランドチェコスロバキアなど周辺に次々と脱出、亡命を試みるようになった。この動きは他の東欧をも揺るがすものとなっていった。


そして崩壊へ - 歴史を動かした会見 -


このハンガリー経由での逃亡が可となるのと前後し、東ドイツでは5月7日に実施された選挙への不正操作が明るみに出て、ライプツィヒ月曜デモ600人規模で開催されるなど、内でも運動が起こりつつあった。

時の東ドイツ導者ホーネッカーはこのような運動に全く応えようとしなかったが、10月7日の党40周年大会で自画自賛発言を盛んに行った所、ソ連導者ゴルバチョフから軽蔑ので見られることになる。
東西分裂の中で建された東ドイツソ連の後ろあってこそ存続できるであり、ホーネッカーソ連の支持を失ったことが明るみに出たことで内での運動は更に化した。数万人規模のデモ内各所で発生するようになった。政府当局は慌ててホーネッカーを解任、クランツが後継につく。

だがクランツはが十分にある人物とは言いがたく、混乱は収まらなかった。11月4日にはベルリン万人規模のデモが発生した。言論・集会の自由める海外旅行自由化をめるはもはや止めることが出来なくなっていた。
11月9日クランツら中央委員会は旅行規制を大幅に緩和する策を打ち出す。これは本来、翌日から施行予定のものであり、海外旅行自由にすることを認め、それに必要な出ビザの発行を遅滞なく行うことが書かれていた。
だが、党のスポークスマンであったシャボウスキーはこの政案の内容をよく理解しないまま記者会見に及び、「東西ベルリンを含む全ての界線から、今ただちに東ドイツ民は自由に出が可である」と発言、これが内外に伝わったのである。

この記者会見を聞いた東ベルリン住民は半信半疑でベルリンの壁周辺に詰め寄った。警備隊は大量の住民の殺到に対処しきれず、遂には暴動の発生を恐れ、ベルリン界線を独断で開放した。

こうして1989年11月9日、ベルリンの壁はその意義を全に失い、翌11月10日からは住民が勝手にその破壊活動を開始した。後には東ドイツ政府によって一部を除くほぼすべてのが撤去された。

ベルリンの壁喪失後、東ドイツを支えるものはもはやなく、1990年10月3日には西ドイツが旧東ドイツ領を編入する形で「ドイツ再統一」が果たされた。
またベルリンの壁崩壊は他の東欧民主運動も加速させることになり、1990年までに東欧の体制は全て入れ替えられ、1991年末にはついに導的立場を担ってきたソ連をも消滅させることとなったのである。


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最終更新日: 15/09/09 21:56
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