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ホームラン


ヨミ: ホームラン
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ホームランとは野球において得点に繋がる安打の事。本塁打HRホーマーとも表記される。

曖昧さ回避、もしかして……

概要


ホームラン本塁打)には、出し方が以下の3種類存在する。

  1. 打球がフェアグランドの外野スタンドに直接入り、本塁まで安全に走塁できるホームラン
  2. 1番と同じく打球が伸びていき、外野スタンドに設置されているポールに直撃してもホームランとみなされる。
  3. 打球が内外野手の間を深々と破り、エラーく走者が本塁まで走る"ランニングホームラン"

ドーム球場の場合、屋外球場であれば外野スタンドに入ったであろう打球が屋根に当たってしまうことが起こりえる。そのため、屋根に当たった打球の扱いをどうするかは球場ごとにルールが定められている。
西武ドーム札幌ドームの場合は、フェアグランドの外野まで行った打球が屋根で跳ね返っても認定ホームランとみなされる。また、東京ドームナゴヤドームでは外野にある懸垂物(東京ドームであればスピーカーなど)に直撃させるとホームランになる。大阪ドームではスーパーリングの一番外側とその1つ内側のリングに入るとホームランになる。福岡ドームドーム球場認定ホームランルールが存在しない。

狭い屋外球場の場合、ホームランを打つと球場から飛び出す「場外ホームランが出る場合がある。時たま何故かドーム球場であるはずの西武ドームでも見受けられる。

直接打球が外野スタンドに入ったのではなく、フライ外野手が弾いてスタンドに入ってもホームランになる。また、野手がグラブを投げつける、飛んでいるに当たるなどしてスタンドに入らなかった場合も、それがなければスタンドに入っていたと審判が判断すればホームランになる。

なお、打球がスタンドに入っても「ベースを踏み忘れる(長嶋茂雄)」「前のランナーを追い越す(新庄剛志)」などバッターランナーがアウトになってしまうとホームランは記録されない。

:「一塁打♪イェイ!!二~塁打♪イェイ!!三塁回ってホームラン~♪」

投手が打者にホームランを打たれた場合は本塁打として記録される。

本塁打や被本塁打の数の場合、当然ながら打数や投球回に影されるため、本塁打率や被本塁打率という記録がある。
本塁打率は打数/本塁打であり、ホームランを1本打つのに均何打数必要かというものになる。「率」がつく打者の記録としては例外的に、少なければ少ないほどいい記録となる。
一方で被本塁打率は本塁打×9/投球回であり、1試合投した場合に何本ホームランを打たれるかというものになる。防御率自責点本塁打に変えたものと言えばわかりやすいか。


ホームランの歴史



MLBのホームラン


黎明期

意外に思われるかもしれないが、野球明期は外野スタンドという概念がなく、外野の広さは理論限遠であったため、「柵越えホームラン」という概念がなく、ホームラン全てランニングホームランであった。これは、野球の起として、打ったボールをいかにして相手の守備をかいくぐるかというスポーツだったからである(実際に投手は下手投げのみで打者は投手コースの注文ができ、ストライクボールコールもなかったほどである)。

ホームランは元々三塁打の延長線上の存在でしかなかった。しかし19世紀後半になってアメリカプロ野球リーグが創設されると、観客動員の観点から外野スタンドが設けられた。しかし、スタンドに入ったボール外野手はどうすることも出来ず、苦の策として、四個の安全進塁権、つまり「本塁打」としたのである。

しかし、これが苦の策であったことは選手側も知っており、また野球スポーツの本来の起からも逸脱する行為だとして柵越えのホームランは「四塁打」などと呼ばれ野蛮だと考えられていたのだ。そのため、ボールも飛ばなく、球場現在とは段違いに広かった時代であり、実際にランニングホームランの方が柵越えよりも多い選手もしくなかった。例えば、イチローが破るまで連続シーズン200安打記録を保持していたウィリーキーラーは通算33ホームランのうち、なんと30がランニングホームランである。

ベーブ・ルースの登場

1920年代以前までは、現在はるかホームランが少なく、例えば1909年のタイ・カッブは三冠王となるが、その時に打ったホームランは9本塁打でその全てがランニングホームランであると言った有様であった。守備技術こそ現在とは格段に遅れていたため、三塁打は多かったようである。

ところが、1920年代に入ってこの傾向が大きく変わった。ベーブ・ルースという打者が出現し、柵越えのホームランを次々放り込む。また、当時のヤンキース球場も左打者のルースのホームランを出やすくするために右中間を狭くするといったことを行い始め、球場も狭くなっていった。こうしてメジャーリーグは熱狂的なホームラン時代に突入した。

同時に1920年代は著しい打高の時代に入った。実際に4割打者にもかかわらず首位打者を取れなかった打者すらいたほどである。ベーブ・ルースの影を受け、多くの打者がホームラン狙いに走った結果、それまでの野球の起、柵越えのホームランに対する扱いは大きく変わった。更に守備技術の向上で、ランニングホームランが減少の一途をたどった。

もちろんこの傾向に反対する打者もおり、球と呼ばれたタイ・カッブはその代表的な選手である。即ち、ホームラン時代以前はフィールドを活かす野球であり、またカッブは単打と盗塁の応酬が野球醍醐味だと言った。それまでの野球は、単打などで出塁しバント盗塁で走者を進める戦術が一般的だったのだ。

また、ホームランが増えるに連れ、盗塁の数は減っていった。こうしてメジャーリーグは長いホームランの時代に入り、野球哲学は大きく塗り替えられた。日本でも、「野球ホームラン」などと呼ばれているのもメジャーリーグの影、究極的にはベーブ・ルースの影でもある。

ホームラン主義の功罪

メジャーリーグではこうしたホームラン義が日本以上に根強く、盗塁男と言われたリッキー・ヘンダーソンや、V9巨人の原となった「ドジャース戦法」におけるスモールベースボールの採用などスピードや小技が注を集めることこそあったものの大勢を覆すには至らなかった。

しかし、こうしたパワーに任せたホームラン義は非常に魅的ではあるが、もちろん影の側面もあった。「敵なし」となったホームラン至上義は暴走を極め、1990年代に入るとメジャーリーグでは物汚染が立ち始める。

ホセカンセコを起として、サミー・ソーサマーク・マグワイアのホームラン競争では、これまでのシーズンホームラン記録を大きく上回るホームラン記録が出るなどして全が熱狂。これにを立てたバリー・ボンズは、それまで走攻守っていたプレースタイルを捨て、物を使用して守備走塁を犠牲にし、打撃特化に走る。しかし2000年前後にはこうした打者が物を使っているという噂は然の秘密となっており、ファンや識者の間では非難のも上がっていたが、メジャーリーグ機構は野球の最大限の魅であるホームランと、それを量産する打者の処分にしていた。

イチローの登場

こうしたホームラン至上義を終わらせた存在は他ならぬイチローであった。彼はそれまで日本プロ野球スター選手として過ごしており、2001年からマリナーズに移籍した。極東のである日本から来た彼の活躍は日本人が思う以上に大きな衝撃があったようである。

決して長打こそないものの高打率ヒットを量産し、あるいは盗塁し、強肩と広い守備範囲による麗な守備で魅了した。ホームランだけが野球の魅ではないということをめて示したのだ。

彼はその年、新人最多安打記録を90年ぶりに更新する242安打(もちろん最多安打)を打ち、打率は.350首位打者、更に盗塁王であった。新人王とMVPを受賞すると同時に、シルバースラッガー賞とゴールドラブ賞を受賞し、最多得票でオールスターにも出場した。実はこれと同じ年、バリー・ボンズMLBシーズン本塁打記録である71本塁打を打ち立てたのだが、この頃は既に彼の物疑惑は多くの人に知れるところとなり、冷ややかなで見る人も多かった。

イチローはこう言われた。「汚れたスラッガーたちが忘れた全てのことをやってのけた選手」と。

2004年にはイチローシーズン最多安打記録を打ち立てた。2004年を遡ること84年前の記録を破ったのである。この年、バリー・ボンズ底的に勝負を避けられた結果、四球長打率OPSなど狂ったような記録を打ち立てたが、これらが「作られた記録」だということはしもが知る所であった。この頃になると先述のカンセコ、マグワイア、ソーサなど物を使用した長距離打者に対する批判は頂点に達していた。

2010年代に入るとステロイド規制が大幅に強化された影ホームラン数や打率などリーグでの打撃標が軒並み低下し、投高打低の時代に入った(統一球と被ったためあまりそう感じられないが)、未だにステロイドの検に引っかかり出場停止処分を受ける選手は多いものの、ポストステロイド時代の幕開けとなったと見られている。メジャーリーグでも守備や走塁と言った価値が大きく見直され、守備技術・投手レベル2010年代はそれまでとはるかレベルが上がっている。

フライボール革命

2017年、総本塁打数が6105本とそれまで最高だった2000年の5693本を412本も上回る最高記録となった。この理由として挙げられているのが、「ゴロよりもフライの方がヒット確率が高い」という統計に基づき打者がフライを打つようになったという「フライボール革命」である。打球の速度158km/h以上、度が30°前後の場合は8割以上がヒットとなり、多くはホームランになるという分析結果となっている。


日本のホームラン


日本では、日米野球開催によるベーブ・ルースの来日などから、「ホームラン野球」といわれることが多かった。しかし、戦前から戦後一時期にかけてはグランドボールなどの環境も悪く、ボールも飛ばなかったため、投高打低であった。スコアブックだけを見ると意外に乱打戦のようなスコアも多いが、これは失策の数が今よりもはるかに多かったためである。メジャーリーグでもそうであるが、昔の野球は守備技術及び野球用具が未発達であったため、失策日常的に起こっており、むしろ失策のない試合はかなりかった。

こういった時代ではやはりスモールベースボールを持つ。単打や相手の失策などで出塁し、それをバントで送り、あわよくばバントで守備を乱れさせる。あるいは盗塁をする。そしてまた単打で返すという戦法である。

ところが1948年に入り、「ボール自動製造機」が開発され、1948年9月から1950年までの間に投入された。ボールの精度が格段に上がり、質の高いボールが作られたため、反発が劇的に向上、特に1950年松竹ロビンスが誇った「水爆打線」の破壊やまさに水爆を名乗るに相応しいものであり、小鶴誠打率.35551本塁打と言った記録の他、更新不可能と考えられている記録の一つである161打点及び143得点をあげ、投手が打席に立っているにもかかわらず、1試合均得点は6.63にも達した(DHありの近鉄いてまえ打線が5.50ラビット全盛期の2003年ダイエーでも5.87である)。もちろんこれには飛ぶボールホームランの急増に支えられていた。

これではさすがにまずいということもあって反発の規定が作られた。こうして1950年代半ばにはホームランも減ってすっかり投高打低に戻ってしまった。

王貞治の登場

しかし1958年国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄が、翌1959年には王貞治が登場する。実際にはリーグ全体としては相変わらず投高打低であったが、この二人はとにかく打ちまくった。三番打者が王、四番打者が長嶋という「三番最強説」に立ったONは手が付けられなかった。仮に王を敬遠しても後ろにはチャンスに滅法強い長嶋が控えていたのだから。

1965年から1973年までの9年間、巨人川上哲治監督のもとで前人未到の9連覇という偉業を成し遂げる。このチームは守り重視のスモールベースボールチームであったが、王長嶋という長打も活かしたチームである。

特に王貞治ホームラン徴的選手であり、1964年にはシーズン本塁打記録である55本塁打の記録を打ち立てる。本塁打王になること15回、三冠王になること2回(長嶋茂雄に阻まれることも多かった)、圧巻は通算868本塁打であり、40本塁打20年連続でも達成できないため、プロ野球史に残る不滅の大記録となっている。

通常メジャーリーグの選手はプライドが高く、あまりNPBの選手は尊敬しないものであるが王貞治だけは数少ない例外的選手である(イチロー普通MLB殿堂入り選手として尊敬されている)。日本よりも試合数が多いメジャーリーグでもホームランの記録はハンクアーロン755本、ステロイド時代を入れてもバリー・ボンズの762本である。


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最終更新日: 19/05/18 15:24
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