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マン島TTレース(The Isle of Man Tourist Trophy Race)は、公道を封鎖して行われる二輪車のレースであり、100年以上の歴史を持つ。
英国北西部、グレートブリテン島とアイルランド島の間のアイリッシュ海に浮かぶマン島(大きさは日本の淡路島くらい)を舞台に、5月最終週から6月第一週にかけて約2週間にわたって開催される。レース専用のサーキットで行われる他の多くの二輪車レースとは違い、正真正銘の公道で行われる真の『ロード』レースと言われている(レース名の一部となっているTT: Tourist Trophy は、都市を移動する長距離レースを指す)。二輪車レースとして最古の、そして最高峰のレースと考える人も少なくない。
コースは島の南東部にある首都ダグラスを起点として、西へ北へと大きく曲がりながら、北東海岸部の町ラムゼイに入り、スタート地点まで戻る。一周 60.7 kmで200以上のコーナーが存在し、396mもの高低差があるこのコースを約3周して、順位を競う。普段は一般道として日常生活や観光のために使われているもので、レース中は一般車両の通行を封鎖する。レース車両は1000ccの市販車ベース(トップクラス)ではあるが、平均速度は200 km/hを上回り、最高速は330 km/hを記録する。
参戦する車両のクラス分けは世界スーパーバイク選手権(SBK)に準拠している。簡単に説明すると
マン島TTレースは、安全面から常に将来が危ぶまれていると言われている。
通常レースが行われるサーキットにはエスケープゾーンと呼ばれ、転倒やコースアウトの際にも安全なように、砂が敷き詰められた広い退避エリアが設けられている。また、その先にある壁もスポンジやタイヤバリアが設置してあって、衝撃をある程度和らげてくれる。しかし、公道が舞台のこのレースでは、もちろんそれらの防護設備は存在しない。コースアウト=民家の石壁などに接触、または崖に転落、となるエリアも少なくないのだ。200 km/hを超えるようなスピードで、生身の体が石壁に接触したらどうなるか、想像に難くないだろう。しかも路面はサーキットのように専用の舗装ではなく、汎用のアスファルトであるため低μ(摩擦係数)路でありただでさえ滑りやすく、公道特有の微妙な凹凸や、白線のペイント(滑りにくくしてあるとは言え)も存在する。バイクに乗る人であれば「こんな道でレースなど、正気の沙汰でない」との感覚を持っても、何ら不思議ではない。また、後述のように道幅が狭く、高速コーナーが連続することも危険性を押し上げており、死者は累計で200人を超えてしまっている。
さらに、このレースではライダーが走るすぐ横に観客が位置し、何ら防護壁なしにレースを観戦している場所も少なくない。従って、時にはライダーのみでなく、観客にも犠牲者が出てしまうことがある。このことは大きく問題視され、開催が危ぶまれる年もあった。2012年のレースでは、ライダー・観客共に死者が出ずに済んだことは幸運であるとともに、関係各所の安全に対する努力の賜物であることは忘れてはならない。
▲マン島TTレースは百年の歴史を誇る。発祥は日本で言えば明治期。オートバイは、まだ駆動にチェーンを用いずベルトを使用し、リアサスはリジットであった。馬力も数馬力でスピードも差ほど出ない。それでも、欧州人は「とりあえず競争」という発想が先にある。それは4輪で言えば、パリ・ボルドー往復レースや、インディ500にも通ずる気質だろうか。
そう書くと、欧州と日本ではレースの歴史の長さが違うから、現代の日本のレースへの認識が浅くても仕方ないのではないか、と思われるかもしれない。しかし、日本にも古くにレースが一大ブームとなったことがある。一般的に、日本人がマン島TTレースへ挑戦したのは、戦後のホンダの挑戦が有名であるが、大正時代から昭和の前半にかけて、日本にもオートバイレースへの火がついた事があった。当時、国内のトップライダーであった多田健蔵がマン島TTレースに参戦した事例もある。しかし、戦前の日本にレースが定着しなかったのは、レースという物が「見世物」と「ギャンブル」の範疇から脱しきれなかったからかもしれない。実際、1970年代以降になるまでサーキットであるにも関わらず、オートレース場のように車券売り場を探す人がいた、という伝聞もあるし、現在も日本において、「グランプリ・サーカス」と皮肉られるF1が最も人気の高いモータースポーツであるということが、日本のモータースポーツの現状を物語っていると言えよう。
レースという文化が大正時代から芽吹いていたのにも関わらず、それが欧州のレース文化に肩を並べるほど成長しなかったのは不運であった。それはナゼか、と問われたらならば、戦争によりレースどころでは無くなった、と言う事もあるが、結局の所、レースに使うオートバイのメーカーが育たなかったというのが原因であろう。戦前のレースは輸入車やライセンス生産車によるものであったからである。実際に、戦後もオートレースでは長い間トライアンフのエンジンが重宝されていたし、メグロのような英国車のコピーも多かった。
そうして、マン島TTレースにおいて日本のメーカーが活躍するには、結局は戦後のホンダの挑戦を待たねばならない。戦後は自転車に50ccの補助動力を付ける、その名も「原動機付自転車」の隆盛から始まり、その中から、数多くの二輪車メーカーが誕生するのであるが、皮肉にもマン島TTレースに挑戦したメーカーだけが、のちのちの四大メーカーとして生き残った(ホンダ、スズキと続き、ヤマハはやや後発、カワサキは前者らが撤退した以降からの挑戦であった)のは、何とも面白い。言葉を変えれば「浅間火山レース」など国内レースから、「マン島TTレース」に鞍替え出来るほどの「体力」があったからこそ、後々にもメーカーとして生き残ったと言えるかもしれない。だが、本当の所は、国内の二輪車メーカーにとっては「マン島」は避けて通れぬ試練であったのだ。それだけ、2輪モータースポーツにとって、ある時期のマン島は性能評価への指針となるイベントであったのである。
例えば、ノートン・マンクスといえば、クラシックバイクに興味が無くても知っている名前だと思う。そのマンクスは、マン島TTレースのアマチュア版である「マンクス・グランプリ」にちなんで命名された。それだけノートンはマン島のコースをフレキシブルに速く走れるフレームとエンジンを持った最高のマシンであった。そして、それはGPでも充分強く、世界最高基準であったのである。それに果敢に挑戦し、活躍したのが、MVであり、モトグッチであり、ドゥカティであり、ホンダであった。しかし、物事には全て終りが来るというもので、ワークスによる挑戦というものは実質数年という短いサイクルで終わりを告げる。
だが、肝心な事は、マン島TTレースという物が無くならずに続けられてきた、という事である。マン島TTレースは、ご存知の通りマン島という島の中の一般道を周回するレースである。最高速が続くストレートから石垣に囲まれたタイトコーナー、そしてコースアウトしたら怪我無しには済まない高速コーナーが多く存在し、初開催から現在までの死者は200人を超える。その危険性から、70年代始めにはグランプリレースから外されて、その名の通り「ツーリスト・トロフィー」という、走る者へ記録と栄誉だけを称えるレースと変わっていった。
しかし、マン島TTレースは脈々と現代まで続けられている。それは「伝統」が成せるワザなのだろうか?いやいや、幾らなんでも「伝統」とか「格式」だけでは何事も長きに続きはしない。それも、マン島TTレースは、世界でも屈指の危険なモータースポーツなのである。日本で言えばPTAや自治体が黙っちゃいないレースなのである。ならば、なぜマン島TTレースは続けられるのか? それは挑戦する人々が絶えないからなのだ。
つまり、モータースポーツは、自分の可能性に挑戦するスポーツなのである。マン島は、そのステージに過ぎない。そして、その挑戦するべき間口は極めて広い。ここに、日本のモータースポーツに無い、裾野の広さを感じるのだ。
モータースポーツは、他のスポーツと同様、自己の可能性に挑戦する物なのである。それは個人のレーサーも、1959年当時のホンダという日本の小さな企業も同じ事なのだ。「挑戦」することに、物事の発展はある。「挑戦」をしなければ失敗はしない。しかし、得るものは無いどころか、物事は一歩も進まない。むしろ、時間の流れに置いて置かれて、後退する事となるかもしれない。たぶん、日本のモータースポーツは少しづつ発展を続けるだろう。そして欧州並のモータースポーツ文化が宿ることを望みたい。せっかく世界最高水準の自動車技術があるのだから、それを生かさぬ事は勿体無いし、「日本は技術だけでレースはイマイチ」などと言われないために。
(参考文献 「百年のマン島・TTレースと日本人」 大久保 力著 三栄書房刊)
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