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ラバウル


ヨミ: ラバウル

ラバウルとは、ビスマルクニューブリテン北東に位置する都市である。


概要


パプアニューギニア東方にある、ニューブリテンの最大都市。良港シンプソン湾を有し、コプラやコーヒー等の産地で有名。火山地帯でもあり、噴火の際は火山が覆われた事もある。原住民としてカナカ族が存在する。

1910年にドイツ帝国の支配下に置かれ、ココポから首都を移してが作られた。第一次世界大戦中の1914年9月11日オーストラリア軍が上陸し占領。以降、オーストラリアの管轄化に置かれる。数人のオーストラリア人が居住し、人の投資で農園、バナナ園、椰子が作られたが、大半は未開の原生で占められている。

日本から遠く離れた土地であるが、一部の人には一定の知名度がある。


大日本帝國の占領


1941年12月8日大東亜戦争が始まる。に乏しい日本戦争を遂行できるだけの資を得るため、フィリピンインドネシアマレー半島に侵攻。その悉くを占領し、東南アジア一帯は日本の勢圏になる。これら資地帯は日本にとって命綱であり、何としても守らなければならなかった。そこで資地帯を守る「門」として、良港シンプソン湾と飛行場を擁する重要拠点ラバウルの攻略が計画された。攻略作戦はラバウルの頭文字を取って「R作戦」と呼称。

1942年1月20日帝國海軍真珠湾攻撃から戻ってきた空母赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」を投入。第一次攻撃隊109機がラバウルを襲した。オーストラリア軍は帝國海軍の侵攻を察知してを後退させており、残っていた守備隊は微々たるものだった。ハドソン爆撃機4機とワイウェイ練習機7機は零戦によって叩き落とされ、施設や台には急降下爆撃隊が襲い掛かった。続いて第二次攻撃隊46機が発進し、残っていたオーストラリア軍を駆逐。三日後、大本営直轄の南海支隊が奇襲上陸。敵は退却する際、飛行場を爆破して大穴を開けて行ったため陸戦隊工作隊に変わりして修復した。こうしてラバウルは制圧され、日本の占領下に置かれた。


不沈空母ラバウル



1942年


日本に占領されたラバウルは、重要拠点として機し始めた。東西には二本の飛行場があり、航空機の発着には打ってつけの場所であった。

占領してから一晩が明けた1月24日、特設水上機母艦丸」の飛行隊が進出し基地を開設。続いて千歳戦闘機隊が進出し、31日に九六式艦戦18機が到着した。この旧式戦闘機によって構成された制隊がラバウル航空隊の始祖となった。この頃はまだ零戦の数も少なかったが、2月末には9機が配備されている。
2月20日空母レキシントンから襲を受け、最初の被害を受けるも着々と要塞化は進んでいった。当時、大本営はポートモレスビー攻略しており策地のラバウルには次々と航空機や人員が送られた。4月には山田定義少将率いる第二五航空戦隊が進出。ところがポートモレスビー攻略が失敗に終わり、ラバウルの戦は宙に浮いてしまった。

8月7日アメリカ軍ガダルカナルに来襲。く間に飛行場を奪取され、横浜航空隊はラバウルに別電を打って壊滅した。その日の午前8時45分、ラバウルから九九式艦爆が発進して反撃を行った事でガ争奪戦が幕を開けた。争奪戦生起に伴って鹿任一中将率いる第十一航空艦隊が進出し、ソロモン方面を担当する第八艦隊を揮下に入れた。以降、ラバウルはガ奪還の前進拠点として機。港湾には艦艇や補給艦が並び、飛行場からは航空隊が出撃していった。戦、偵察、攻撃、補給、修理などソロモン方面の軍には欠かせない重要拠点と化した。また西部ニューギニア方面にも航空偵察を出しており、八面六臂の活躍を続けた。

しかしラバウルから戦場のガまでは非常に遠く、足の長い零戦ですら20分程度の戦闘しか出来なかった。搭乗員の疲労も大きく、損耗率は増えるばかりだった。解決策としてラバウルより更にガに近いブーゲンビルブインやバラレに飛行場が設営された。それらの拠点に物資や人員を送る集積地になったのは論ラバウルであった。

当然アメリカ軍もラバウルは厄介な存在と認識しており、何度も爆撃を仕掛けている。おかげで迎撃に上がる機の搭乗員は慢性的な不眠症に悩まされた。更にラバウル近には既に潜水艦が遊し始めており、徐々に補給線が脅かされていた。

11月20日未明、新たに設立される第八方面軍の揮を執るため、今村均中将以下十数人が飛行艇に乗って神奈川県水上基地からラバウルに移動。トラックを経由して22日にラバウルへ到着した。今村中将に課せられた任務は、ラバウルから東へ1000kmも離れたガダルカナルの奪還だった。着任と同時に、今村中将自給自足体制の構築を考えていた。12月、経理部長森田親三中将と軍医部長上原中将を集め、原住民のカナカ族が何を食べているか調べるよう命じている。自活をするには未開の原生を切り開く必要があったが、日本軍にはその専門がいなかった。森田中将は陸軍に問い合わせ、熱帯産業研究所サイパン支所長の山中一郎が一ヶの予定でラバウルに出張した。当初自活の考えは軍に一蹴され、仕方なく今村中将揮下の陸軍だけで始めた。ただ陸軍の中には「仕事より軍事訓練を」と叫ぶ者も多かった。

12月、大本営はガからの撤退を検討し始めた。しかし連合軍に撤退を気取られないよう積極的な攻勢へ出る事になり、いっそうガへの攻撃がしくなった。


1943年


19431月29日、サンクリスバルにてガに接近する第18任務部隊を発見。ブイン、ブカ、ショートランド、ラバウルから陸攻隊が発進し、レンネル島沖海戦が生起。対火によって10機が失われたが、重巡シカゴを撃沈。駆逐艦ラ・バレットを大破させる戦果を挙げた。

2月10日日本ガダルカナル争奪戦に敗れて撤退すると、その前線基地であるラバウルに攻撃が集中した。大本営はラバウルを中心とした防衛線を構築し、連合軍の侵攻に備えた。ガから退却してきた将兵はラバウルに収容されたが、他戦線への転出や本土に後送されるなどして数が減っていった。大本営に依頼しておいた農事導班、農具修理班、野菜の種子、農具、労務者など自活に必要な人材は2月から3月にかけて続々と到着した。まず試作として、部付近を開墾して甘いもと野菜が植えられた。4月上旬、空母の艦載機を陸上基地に転用し制権の奪還をす「い号作戦」が発動。山本五十六大将揮のため、ラバウルに進出した。ところが4月18日、ラバウルからブインに向かった山本長官機が撃墜され、戦死した。

5月1日、ラバウルに展開していた陸軍部隊が一斉に開墾を始めた。現地自活のため前もって開墾が始められていたが、これで本格始動した。ブーゲンビルから撤退してきた第三八師団等がラバウルに集結し、彼らから餓で味わった飢餓地獄を聞かされた事で、全員が自活に本を入れ始めた。論、連合軍の襲は何度も続き、その合間を縫っての農作業となった。潜水艦の跳梁もしくなり、輸送船の到着も数えるほどに落ち込んでしまった。

9月、最後の病院船ぶえのすあいれす丸がラバウルに入港。看護婦慰安婦は全てこの最終便で帰した。連合軍は飛び石作戦を実行し、強固なラバウルを放置。代わりに周辺の基地や拠点を潰してラバウルの孤立化を図った。これに対抗するため、ラバウルには戦の集結地として利用された。11月1日、連合軍がタロキナ地区に上陸。帝國海軍は迎撃のため、トラックに在泊していた重巡部隊をラバウルに進出させたが、この重巡部隊を脅威と捉えた連合軍は艦載機によるラバウル襲を実施。在泊艦艇に大きな損が生じてしまった。敵の注意を引き付ける重巡部隊は、南東方面艦隊鹿中将によってトラックに送り返された。

10月12日以降、ラバウルは熾襲にさらされた。150機から400機に及ぶ戦爆連合が毎日のように爆撃していったのである。ラバウルには150機程度の航空機があったが、12月15日から27日にかけて行われたマーカス岬及びツルブへの攻撃、敵機との交戦によって稼動機は戦闘機80機と艦爆十数機にまで減少した。水上駆逐艦7隻と潜水艦9隻しかなく、制権は連合軍に奪われていた。

1943年末、今村の防壕が被弾。これを機に方面軍は地下要塞の建造に着手した。


1944年


連合軍の飛び石作戦上封鎖により、ラバウルは孤立。ニューブリテン西部戦闘に増援すら送れなくなってしまった。2月17日弱体化したラバウルの隙を突くかのように湾内へ敵艦が侵入。艦砲射撃を加え、4隻の輸送船が失われた。2月19日トラックが大規模な襲を受けて機を喪失すると、在ラバウル航空トラックへと転用されてしまった。ラバウルには1機の軍機も残らなくなった。航空くなった事を知るや否や、連合軍は低からの焼夷弾攻撃を実施。ラバウルを防衛すべく、第一七師団が後退の形でラバウルへと移動した。敵の苛な攻撃を前に、「ラバウル方面軍の玉砕も近い」ともが覚悟していた。トラック壊滅の報を聞いた軍は、陸軍から甘いもの栽培方法を教わって農業を開始。急速に農地を拡大させたが、陸軍と歩調は合わせていなかった。敵機は、海岸線に近いの中に山積みされた被や軍需品、医薬品を狙って襲してきたため、3月頃に内陸のジャングルへ輸送された。

当時の敵情判断は、「連合軍のから侵攻してくる」としていた。方面軍と軍は協同で敵を迎撃し第一七師団は西部を、第三八師団は東部の堅持して撃滅を狙った。タロキナ地区まで失陥し、今や末端の兵にまで「本格的な来攻があれば全員玉砕は免れない」と直感していた。一方、第三八師団長は「敵のはホーランジアにあり、後方のラバウルに大出血覚悟で攻めてくるとは思えない」と思っており、敵の来攻が近いと流布しているのは兵士の士気を高め、怠けさせないためだとしている。この考えは見事的中していた。連合軍は昭和18年8月のケベック会談で、攻略の中止を決めていた。堅な要塞と9万人の陸軍が自活するラバウルを前に、連合軍の参謀たちは攻略する手立てを思いつかなかった。

4月今村大将部が移動。地から東南約10kmの図南嶺(となんれい)という場所に移された。ここは決戦揮するのに最適な立地だった。敵が上陸してきた時に備え、ラバウル湾には逆上陸用の大発等を収めた洞窟を造った。非常に堅に造られたからか、現在でもその姿を見る事が出来る。去年末から始められていた地下要塞建造も着実に芽を出し始めていた。病院施設は地下に収容され、数は15ヶ所に及んだ。5500人の収容があった。この頃、軍内に餓死者が発生。これでようやく自活に理解を示した南東方面艦隊は6月1日に「ラバウル自活生産体勢確立要領」を発して本格的に農作業に加わった。

10月今村大将は「剛部隊決戦」を発布。敵が上陸してきた場合、これだけは心得よという十項をまとめた30ページほどの小冊子であった。三回の開戦記念日となる12月8日には全将兵に「決戦訓」を発布。統帥思想を底させ、士気を鼓舞した。これに伴って対戦車の量産が始まり、終戦までに八万個が作られた。これは使いくなった爆弾改造したものだった。

年末、ジャングル内に運び出した軍需品や食糧品を地下洞窟へ収容した。しかし湿度の高い洞窟内は保存状況が悪かった。これを解決するため、を長期保存する方法を懸賞付きで募集している。農耕、訓練、築の三つを方面軍は「必勝行事」と呼称し、日曜日を除いて2万5000名の兵員が作業に当たった。とはいえ重機がいので、洞窟の掘削は全て人力だった。岩に立ち向かうツルハシシャベルはすぐに丸くなり、それを修理班や鍛冶屋が直した。作業員の大半はマラリア患していたが、めげずに作業を続けた。今村大将が残した手記には「7万の各人が、地下に六畳の部屋を作り、そこに住み、物資を貯蔵して生き、かつ戦ったとも言える大工事を成し遂げた」とられている。血と汗と涙の結晶と呼べる地下洞窟は、連合軍の爆撃から物資や人員を守りぬき、被害を最小限に抑えた。


1945年


昭和20年に入っても連合軍の熾爆撃は続けられた。しかし堅な地下要塞はビクともしなかった。今村大将はこの時の様子を「米軍航空隊は、全く効の大量爆弾毎日費していることになった」と残している。今村大将は週に一度は進捗状況を確認して回り、兵をねぎらった。日に日に地下要塞は拡充されていき、通信施設や発電所、通信線までもか地下に収容されたのを見て「ラバウル地下要塞はに難攻不落になったと確信するようになった」と評した。地下は楽園だったが、地上は地獄だった。敵機は動くものを見るとすぐに撃ってきたので、移動には慎重を要した。

農耕以外にも養も推奨され、数日に一回はを得られるようになった。飢餓で人肉食が横行していたニューギニア戦線とべると、ラバウルは天国そのものだと言えよう。今村大将も進んで養を行い、エサになるの巣をジャングルまで探しに行き、ヒナに与えていた。森田親三中将によると「装も食べ物も住まいも階級差はあまりかったので、お互い気易い気分だった」という。連作すると作物の量が減るので、焼きも行われていた。陸稲、甘いも、タピオカナスカボチャ等が栽培され、兵士袋を満たす十分な量が支給された。もっとも、陸稲や類は備蓄に回され、食は甘いもとなっていた。動物タンパク質の摂取にはカタツムリカエルヘビネズミコウモリトカゲ等を使用した。い尽くしのラバウルでは工夫を凝らし、様々な試行錯誤が繰り返された。特に便利だったのが椰子蜜だった。これは食用油、アルコール灯油砂糖の代用品になった。

3月初旬、ラバウルに程近いズンケンに連合軍が上陸してきた。ここには20代成瀬健民少佐率いる500人程度の大隊が守備していた。構成しているのはガの生き残りや、内地からの未教育補充兵と寄せ集め部隊だった。り込みで抵抗したが、3月27日に第三八師団部へ送られた別電を最後に消息を絶った。4月末にはオーストラリア軍が各地に出現し、エレベンタ地区周辺で戦闘が生起した。自給自足体制は拡充され続け、8月には全将兵の85%分の食糧を確保していた。


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最終更新日: 19/11/18 23:24
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