ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


ロシア帝国


ヨミ: ロシアテイコク
掲示板をミル!
89カキコ!
基本データ
正式名称 ロシア帝国
Российская империя
Rossiyskaya Imperiya
国旗 ロシア帝国国旗
国歌 神よツァーリを護り給え[動]
公用語 ロシア語
首都 サンクトペテルブルク(1713年 - 1728年)
モスクワ(1728年 - 1730年)
サンクトペテルブルク(1730年 - 1914年)
トロラード(1914年 - 1917年)
面積 21,799,825k(1914年)
人口 128,200,200人(1897年)
通貨 ロシアルーブル

ロシア帝国とは、1721年から1917年の間、現在ロシアに当たる地域を中心に北ユーラシアに存在した帝国である。ロマノフまたは帝政ロシアとも。
本項では1613年のロマノフの成立も記述する。

概要

ソ連の前身に当たる、ロシア国家である。

このの特徴には次のようなものが挙げられる。

上述の帝国像が形成されるのは成立してしばらくのことである。
17世紀にロマノフは成立するが、その君権は不全にあり、ロシア西欧からも帝国として認められていなかったのだ。が、1721年に5代君ピョートル1世大北戦争勝利し、その功績から「インラートル(皇帝)」の称号を得ると、ロシアにも「皇帝を戴く」ができあがった。これがロシア帝国の成立であり、以後世界史において大きな影を持つ一として、このは君臨し続ける。

ロマノフ朝の創成

ロシア帝国はロマノフによる国家であるが、その創成の背景にはモスクワ大公国の姿があった。

時を遡ること15世紀、モンゴル系であるタタール国家ロシア都市国家群と競争し、勢を拡大させていたモスクワ大公国は、イヴァン3世の時代にツァーリ(王あるいは皇帝として他と一線を画すほどに成長した。さらにこの時期、イヴァン3世はローマ皇帝の姪と婚姻したことから、モスクワ大公国は「ローマの血統」を(建前だが)手にした。こうしてモスクワは「第3のローマ」なる付加価値を得、東ローマ帝国の継承者として正教圏における新たな盟となったのである。

続いて1480年、イヴァン3世の下でモスクワ大公国は「タタールのくびき」なるモンゴルの支配から脱し、事実上の独立を果たす。そして彼の孫である“雷帝”ことイヴァン4世の代には、モスクワ大公国は全ロシア国家トップを自任する。

ところが1589年にモスクワ大公国のリューリクが断絶すると、ロシアは後継者を巡る大動乱の時期に入った。リューリクの外戚にあたるフョードル・ニキチチ・ロマノフがこれを制すると、その息子ミハイル・ロマノフが1613年にロシア国会議において推戴され、ツァーリとなった。ロシア300年王ロマノフが成立したのである。

帝国の誕生

ロシアを統一したロマノフだが、その存在は海外とりわけ欧州からは帝国とは認められてはいなかった。ツァーリの権限も当初は不全であり、絶対的な君とはいい難いものだった。1617年にはスウェーデン、翌年にはポーランドと和を結んだが、土は削られ油断ならぬ状況が続く。


大帝現る


しかし17世紀の中頃になると、ロマノフ北方戦争や対ポーランド戦においてを高めていった。4代ツァーリのフョードル・アレクセーエヴィチが亡くなった後はまたも後継者争いが勃発したが、これは1682年にピョートル1世(大帝の即位により定された。

ピョートル大帝の登場はロシア史を大きく塗り替えた。

ロシア西欧化を進めるべく、彼は300人からなる大使節団をヨーロッパ派遣したが、面いことにピョートル自らも偽名で変装し参加していたのだ。そうやって自身の眼で西欧を見、自らの肌で近代を感じたピョートル1世は、帰まもなく革に着手した。これまた興味深いのがその順番で、政治や軍隊の再建をするのかと思えばそうではなく、まずは貴族装や様式にこだわりを見せたのだ。そして東ローマ帝国の紀元を止し、新たにユリウスを使うよう示したという。


大北方戦争


ピョートル1世はまたオスマン帝国との戦いは危険すぎるとし、従来のロシアが採り続けてきた南下政策を一時中断。そして狙いを北西の方角、すなわちバルトへと向けた。スウェーデンである。当時のスウェーデン30戦争により北欧覇者バルト帝国として君臨し、ロシアバルトへの出口を依然として封鎖していた。

もとより凍らないを欲することで南下政策をしてきたロシアである。バルトというの重要性もまた大きかったことだろう。ピョートル1世はポーランドデンマークと同盟を結び軍事を高め、オスマン帝国と和し後方の安全を確保すると、1700年、スウェーデンの港湾都市ナルヴァに侵攻を開始した(大北戦争)。

ロシア軍の数は圧倒的に勝っていた。にもかかわらず、カール12世が率いるスウェーデン軍には大敗を喫した。とはいえその後のスウェーデンロシアにではなくポーランドに軍を向けていたことは、不幸中の幸いであった。ピョートル1世はこの好機に乗じ、教会の鐘を売って大砲えるなどして、軍備の再建に取りかかる。

再度スウェーデンへ進軍すると、今度はネヴァ流域の占領に成功した。そして1703年、後にロシア帝国の首都となる、「西欧」ことサンクトペテルブルクを建設。戦争における最前線を確保したのである。その勢いのまま1709年にポルタヴァの会戦にてスウェーデンにほぼ勝し、カール12世オスマン帝国へ亡命させるほどに追い詰めると、戦いの行方は決定的となった。一応、カール12世を擁護したオスマン帝国の反逆にあうのだが、1714年には新設の艦隊が活躍しバルトの制権を得た。これをもって1721年、ニスタットの講和によりロシア勝利が確定された。これによりロシア帝国は、ついにを一つ手に入れたのだった。

ピョートル1世はこのかしき戦勝により、元老院からインラートル(皇帝)の称号が贈られた。ここに、ロシア皇帝による国家すなわちロシア帝国が成立したのである。


帝国のその後


ピョートル1世が国家近代化させた一方、農民層は農化し中世へと逆戻りしていた。これは後の乱や列強との量差を生むきっかけとなる中世色彩である。ロシア帝国の18世紀、それはなにも明るい側面には限らない。

ピョートル1世亡き後は再び熾位争いが頻発した。たる原因はピョートル1世が遺した位継承法であり、これは現皇帝が気に入った者を名し位を継承させるというものだ。従来の位継承は長子制すなわち長男から順に優先されるというものであったが、生前のピョートル1世はこれを「新皇帝は前皇帝が決める」というように変したのである。

18世紀は女の時代ともいえる。位を争う形で7人の皇帝が続出したのだが、うち4人は女と(当時にしてみれば)少々異例である。そしてその特異な女時代の最後を飾ったのが、かの女エカチェリー2世であった。

大国へ

1756年、マリア・テレジアが統べるオーストリアは、フリードリヒ2世プロイセンに対しシュレジエンを要戦争に突入した(七年戦争)。エリザヴェータ女が統治する当時のロシア帝国は、オーストリアフランス側に味方し、プロイセンをあと一歩のところまで追い詰める。ところが1762年にロシア皇帝がピョートル3世に代わると、状況は一変。ピョートル3世はフリードリヒ2世かっこいい」という極めて個人的な理由でプロイセン側への攻撃を中止し、結果としてオーストリアフランスを裏切った。ロシア帝国はオーストリアはもちろんフランスに非難され、また内も動乱した。当然である。

これを見かねたピョートル3世の皇后エカチェリーナ(2世)はクーデターを起こす。このとき彼女男装上で揮を執っていたという。彼女を待望するはピョートル3世の失態以来とても高く、それゆえクーデターはほぼ血で成功。旦那のピョートル3世は位・閉され、後に暗殺された。そしてまもなく彼女皇帝として即位した。エカチェリー2世大帝である。


ドイツ人の啓蒙専制君主


エカチェリー2世は生ドイツ人であった。現ポーランドのシュテッティンからロシアに来た彼女は、ヴォルテールやモンテスキューなど、フランスの啓思想の著作をよく読んだ。また歴史にも関心を持ち、カトリックバールが著した『ドイツ史』も熱心に読んだという。彼女はまた啓思想としても知られ、ヴォルテールやディドロと文通し多くの精を学んだ。

即位後エカチェリー2世はすぐに法の編纂にあたった。彼女は「ロシアには近代的な法が必要」と唱え、君権を絶対とする一方、法の前では臣民はみな等であると説いた。

エカチェリー2世はまた宗教的寛容や自由経済活動を促進し、各地に学校や孤児院、病院を建設させたうえ、機関立させ、また文芸の出版にもを注いだ。


プガチョフの乱


ロシア帝国の人口の9割は農民であり、彼らの農化は加速するがままであった。エカチェリー2世はこれを緩和する意志はあったのだが、貴族の猛な反対にあってしまう。かくして搾取され負担が増加する一方の農民らは不満が募り、1773年、エメリヤン・プガチョフが率いる乱が勃発した(ガチョフの乱)。

乱の範囲は南ロシア一帯にまで拡大し、農や農民はもとより諸部族まで包括した。結局この大規模な乱は鎮圧されるのだが、それは仲間に裏切られロシア政府に差し出された、プガチョフの処刑(1775年)によるものだった。


さらなる拡張


危険因子をいまだ抱えたまま、ロシア帝国はより多くの領土を貪っていった。

二度の露土戦争1768 - 1774年 / 1787 - 1791年)では、オスマン帝国からクリミア半島を獲得し、オスマン内の正教徒に対する保護権をも手に入れた。またロシアとすべく、艦隊を創設していった。これにより、ロシア帝国はついに方面への本格的な進出を可とした

西方の拡大もまた大きく、七年戦争の後にプロイセンオーストリアと共にポーランド分割すると、その東部をみごと併合した。

ナポレオン戦争

1801年にアレクサンドル1世が即位すると、ロシア帝国は動の近代をいく形となる。

即位後のアレクサンドルは、拷問止し検閲を緩和するなど開放的な姿勢を見せた。その一方、非公式委員会なるものを組織し、革を進めていった。具体的には、時代遅れの参議院に代わり8つのと大臣委員会を組織したり、領に農解放を認めたり、教育革により大学を建設したり、などである。

VSナポレオン

フランス革命の中台頭した軍人ナポレオン・ボナパルトは、1804年にはフランス皇帝となり欧州大陸に覇を唱えていた。アレクサンドル1世は即位当初イギリスフランスにそれぞれ別個の案で接近していたが、この皇帝ナポレオン1世の登場によりフランスロシアの関係は急に緊した。

1805年、 第3回対大同盟が展開されると、ロシア帝国はそれに加盟。同年、アレクサンドル1世率いるロシア軍フランツ1世率いるオーストリア軍が、ナポレオンフランス軍と対決(アウステルリッツの戦い(三会戦))するが、決定的な敗北を喫してしまう。ロシアオーストリア連合軍はフランスの10倍以上の戦死者を出し、第3回対大同盟は崩壊、また神聖ローマ帝国全に消滅した。

祖国戦争


次へ»
最終更新日: 19/07/06 01:06
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ