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一式戦闘機


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一式戦闘機とは、大日本帝国陸軍が採用していた戦闘機である。称(ペットネーム)は『はやぶさ)』。呼称・略称は「一式戦」、「ヨンサン」。連合軍コードネームOscarオスカー)。陸軍の試作機機体通し番号であるキ番号は「キ43」。中島飛行機開発。


概要


一式戦闘機とは帝国陸軍を代表する戦闘機として、大東亜戦争における事実上の機として使用された。総生産機数は約5,700機で、日本軍の戦闘機としては軍の零式艦上戦闘機に次いで2番に多く、陸軍機としては第1位


名称


一式戦闘機とは皇紀2601年(昭和16年)に採用されたので、皇紀の下一ケタを取って「一式」と名づけられた。

戦中の日本ではに部隊内部や新聞上において、陸軍航空部隊自体や各飛行部隊、航空機から中勤務者などの喩表現として「鷲(荒鷲・陸鷲)」「」「」「翡翠」といった鳥類の呼び名が盛んに用いられており、かつ日本戦闘機にも欧の「スピットファイア」や「ハリケーン」のような称が欲しいというを受け、陸軍航空本部発表の正式な称として一式戦は「」と命名、開戦まもない1942年3月8日には「新鋭陸鷲、、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。この「」の名は一式戦をもって南方作戦で活躍した第64戦隊の隊歌冒頭から取られたものとされている。


開発・採用


1937年、日本陸軍航空隊のは固定脚(輪がそのまま出ている事)の九七式戦闘機だった。
登場当時は九七戦は、速度・上昇・旋回は一流だったが、後にMe109メッサーシュミット)やホーカーハリケーンスピットファイアなどの引込脚(輪を収納する)が出現すると陸軍航空本部は保守的な設計で将来性が乏しい九七戦の後継機を開発をした。

そのため九七戦採用と同である12月、陸軍航空本部は中島に対し一社特命でキ43の試作内示を行い、1939年末の完成して開発が始まった。な要仕様は以下の通りとされている。

①最大速度 - 500km/h

②上昇 - 高度5,000mまで5分以内

③行動半径 - 800km以上

運動性 - 九七戦と同等以上

⑤武装 - 固定機関銃2挺

⑥引込脚を採用

引込脚以外の基本構造は九七戦を踏襲していたので開発は順調に進み、1938年には試作一号機が完成している。だが、同年5月のノモンハン事件で九七戦が旋回を得意とした戦術で戦果を挙げると、軽戦闘機・重戦闘機として中途半端な機体と見做されていたキ43の採用は危ぶまれた。

そのため、同年11月、審の結果を受け胴体以下各部をめ全体のスタイルがのちの採用機相当となった増加試作1号機(通算試作4号機)が完成したものの、ノモンハン事件の戦訓として次期戦闘機には更なる高速化・武装強化・防弾装備がめられたこともあり、今だキ43の審は長引いていた。

三次計画を経て、軽戦・重戦の双方から中途半端とみなされたキ43試作機をそのまま制式採用することは見送り、より強エンジン(ハ105)に換装して高速化を図った、キ43性向上第二案の開発を進めることが決定された。

速度と上昇と航続距離の向上を重視する実用側の明飛校審員間においてもこのエンジン換装案は支持され、直後の研究会において第二案の開発が確定した。このため、中島のキ43設計務者の小山技師もキ43再設計を開始している。


採用


1940年、参謀本部は南進計画に伴い南方作戦緒戦で上陸戦を行う船団を南部印より掩護可、また遠隔地まで爆撃機護衛および制することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機を要仮想敵であるイギリス軍新鋭戦闘機スピットファイアに対抗可と考えられ、本来は陸軍戦闘機となるべきキ44(二式戦)の配備が間に合わないことと、陸軍飛行実験実験隊のトップである今川一策大佐の進言もあり、一転してキ43試作機に一定の修を施した機体を制式採用することが決定。

同年11月、『キ43遠戦仕様書』が中島に示され、翌1941年3月修機が飛行実験実験戦闘班に引き渡され再度試験が進められた。キ43性向上第二案開発中であった当時、不採用であるキ43原試作機を急遽採用する行為に対して開発・審側では反対や混乱が起きている。またキ43原試作機の採用が凍結され、中島による根本的な再設計が行われていたためキ43原試作機生産のための治具は片付けられていた。

なお陸軍航空隊はあくまでキ43は不満足な「原試作機」を採用することは本来はせず、「性向上」の開発・審を再度行ったのちこれを採用する方向であったため、決して「キ43自体」の開発はお蔵入りになっていたわけではない。

かつて問題となっていた九七戦との運動性の較については、戦闘ラップを使用しなくとも方向でなく上昇速度を生かした「垂直方向」の格闘戦に持ち込むことで、不利な低位戦であっても圧倒可と判断されている。これはノモンハン事件におけるソ連戦闘機I-16の戦法を参考にしたものとされ、飛行実験テストパイロット譲三大尉の研究結果であった。

これらの結果を受けて1941年5月、キ43は陸軍軍需審議会幹事会において一式戦闘機として仮制式制定(制式採用)された。参謀本部の要請からキ43の採用を望んでいた航本総務部は、制式決定を待たず中島に対して400機生産の内示を出したとされており、一式戦量産1号機は同年4月完成6月時点で約40機がロールアウトしている。


戦歴



初期~中期


制式採用の遅れから、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は飛行第59戦隊飛行第64戦隊の僅か2個飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であった。しかし、南方作戦においてこれらの一式戦は戦において喪失で約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜、以下の記録は開戦日である南方作戦期間中たるマレー作戦開始から作戦終了にかけて、当時の日本軍と連合軍が残した戦闘記録較調により裏付の取れた一式戦の確実な戦果である。

さらに、「南方の確保」という理由で始められた南方作戦において、その開戦理由かつ陸軍の作戦における戦略上の最重要攻略標たる、オランダ領東インド(現インドネシアスマトレンバンの油田・製油所・飛行場を陸軍落下部隊とともに制圧するなど(パレンバン作戦)、一式戦は陸軍が想定していた以上の々しい戦果を挙げた。1942年後半以降は旧式化した九七戦に替わり変が順次進められ、名実ともに陸軍航空部隊の戦闘機となっている。一式戦は北は千島列島、南はオーストラリア、西はインド、東はソロモン、とほぼ全ての戦域に投入された。

最初期の頃は配備数の少なさ故に一式戦の存在自体が日本軍内でもあまり知られておらず、さらに当時の陸軍機は胴体に標識の日章を記入することをやめていたため、軍ばかりか身内の陸軍操縦者からも敵新戦闘機と誤認され、味方同士の真剣戦が起こるなどの事もあった。このため1942年中後半頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。南方作戦一通り終了した1942年3月に一式戦は「」と名付けられ大々的に発表され、以降陸軍内でも知名度を上げていった。


中期~後期


一式戦は特筆に価する点として、大戦初期に限らずビルマ(現ミャンマー)やその南東、中国戦線では大戦後期・末期である1944年後半以降においても連合軍戦闘機との戦において「互ないしそれ以上の勝利」を重ね、また、スピットファイアP-38P-47P-51P-51アリソンエンジン搭載A型のみならずマーリンエンジン搭載B/C・Dをも含む)といった新鋭戦闘機との対戦でも「互の結果」を残していることが挙げられる(中でもビルマ航空戦ではこれらの全新鋭機を一式戦は初交戦にて一方的に確実撃墜している)。これらの記録は日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の較により裏付も取れている。一例として、以下の記録は19437月2日から1944年7月30日にかけてビルマ方面の一式戦が記録した裏付の取れている確実な実戦果・実損である。

同様に、以下は大戦末期1944年8月18日から終戦間際の1945年8月13日にかけて、ビルマを初めとする東南アジア方面(ビルマフランスインドシナマレーインドネシアタイ)を担当する第3航空軍戦域における、一式戦の確実な実戦果・実損である。

末期においても圧倒的不利な状況にて一式戦が活躍していた事例として、以下の戦闘記録が存在する。1945年3月15日バンコク付近にて飛行第30戦隊の一式戦2機が「第二次世界大戦最優秀機」と評されるアメリカ陸軍航空軍のP-51D 8機と交戦、この一式戦2機は中退避中にP-51D 4機編隊の奇襲を受けた劣勢にも関わらずまずその一撃離脱攻撃を回避、続く別のP-51D 4機編隊の攻撃は得意とする域機動によってこれも回避、一式戦は反撃し1機を確実撃墜。


特攻機として


1944年11月、陸軍中央は、軍が小回りの利く零戦などの小機による特攻で成果を挙げていることを知って、明野教導飛行師団で一式戦闘機などの小機を乗機とする特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。

名前の由来は日本書紀の「八紘をもってとなす」(八紘一宇)による。アメリカ軍レイテ上陸により、一時部をネグロスに移転していた第4航空官の富永恭次中将が、マニラ部に戻ると、「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を八紘隊、一隊、靖国隊、護隊、心隊、石腸隊と命名し「諸子のあと第4航空軍の飛行機が全部続く、そして最後の1機には富永が乗って体当たりをする決心である。安心して大任を果たしていただきたい。」と訓示励し、軍官自ら隊員一人一人と握手し、士気を鼓舞している。

後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸導飛行師団・下志飛行師団・田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、丹心隊、勤皇隊、一隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊と命名された。

八紘隊各隊は「十鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど、陸軍特攻隊では最も大きな戦果を挙げた部隊と言われている。

以下は全て確実な戦果として、11月27日に八紘隊が戦艦コロラド」、軽巡洋艦セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入し損を与え、駆潜艇SC-744」を撃沈。

11月29日靖国隊(一式戦「」)が戦艦メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦オーリック」に突入し損を与えている。

さらに12月には一隊(一式戦「」)あるいは軍特別攻撃隊第2金剛隊が軽巡洋艦ナッシュビル」に、1月5日には重巡洋艦「ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)。

1月8日には軽巡洋艦コロンビア」に心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、1月9日には戦艦「ミシシッピ」に一隊(一式戦「」)がそれぞれ突入し損を与えた。

なかでも、靖国隊の一式戦「」が40.6cm(16インチ)を備えるに突入した戦艦メリーランド」は大破炎上し、修理のため翌1945年3月まで戦列を離れている。メリーランドに突入した一式戦「」は、の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に、機首を上げて急上昇をはじめ、尾翼下に垂直上昇してまたに入ると、1後には太陽を背にしての急降下で、メリーランドの第2に突入した。その間特攻機は全く対射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていたメリーランド兵は「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一の栄きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていたモントピリアの艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。


その後



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最終更新日: 17/08/19 22:47
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