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一色義直


ヨミ: イッシキヨシナオ

一色義直とは、

  1. 1431~1498?)一色氏嫡流で室町時代に活躍した武将
  2. (?~1643)関東幸手一色氏で戦国時代から江戸時代に活躍した武将

である。この記事では1について解説する。


概要


一色義貫息子。丹後・伊勢守護。幼名千徳丸。兵部少。左京大夫。修理大夫。

一色義直は相伴衆・四職を務める室町幕府最上位に君臨する一色氏の嫡流だったが、1440年に一色義貫足利義教の命を受けた武田信栄に自害に追い込まれる。その結果若狭武田氏、三河細川氏に奪われ、丹後一色氏の督は、義教の近臣を務めていた従兄弟一色教親に移っていった。

しかし1451年に一色教親が亡くなると、嘉吉の乱足利義教が亡くなっていたこともあり、一色義直のもとに督と丹後、さらに教親が新たに獲得した伊勢の守護に任じられたのだ。義直は足利義政に信頼され、彼のに義政が訪れることが恒例になっていた。

こうして徐々に復権していた一色義直であったが、彼は若狭、三河の復活も狙う。そして、妻の祖が山名持豊であること、宿敵の若狭武田氏が大内氏と細川氏の瀬戸内商業をめぐる対立において細川方に接近したこと、そもそも細川氏が三河を所有していること、といった事情から応仁の乱では西軍についた。

上御霊社の戦いで両畠山氏の間に戦端が開かれると、先手を打ったのは東軍であった。東軍は一色義直のを襲撃。ついに中で攻防が始まったのである。義直はその後船岡山での戦いに加わった一方、東軍の足利義政に敵対してしまったため、丹後は武田信賢、伊勢土岐政康と東軍方に与えられることとなった。

応仁の乱終戦するとその後も戦闘をたびたびおこなったが、結局若狭、三河は取り戻せなかった。しかし、終戦によって丹後、伊勢は再び戻って来た。ところが、督と丹後、伊勢を譲った息子一色1484年に19歳とくに亡くなり、1487年に別の息子一色義秀に督と丹後を譲る(伊勢北畠氏の抵抗で実権を失った)。さらに、1498年に丹後をめぐる戦いで一色義秀を失い、一色義直も自害に追い込まれたとされる。

こうして一色氏は系譜関係が混乱していく。一色義直の甥とされる一色義有が継ぐが、彼もまた消息不明となり、その後は一色教親の系統とされる一色義道らが継いでいった。


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最終更新日: 18/03/07 00:22
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