ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


三十年戦争


ヨミ: サンジュウネンセンソウ
掲示板をミル!
21カキコ!

三十年戦争(1618〜1648)とは、ヨーロッパを巻き込んだドイツ大内乱である。


概要


三十年戦争はドイツにとって2つの世界大戦以前における最大の戦争にして災禍であった。30年もの長期にわたりドイツのほとんど全土を巻き込んだ内乱は、同時に西欧最初の戦争でもあった。

その対立構造は複雑でなかなかに分かりづらい

以上の対立による戦争だけでも大変なのに、

などなどの要素が加わり、ドイツというはすさまじい打撃を受けることとなった。


関係各国


オーストリア系ハプスブルク家

旧教(カトリック)。

すはカトリックによる普遍的支配、そしてその頂点としての信仰の守護者ハプスブルクである。スペインと分かれたものの、中世以来の帝国政治的分裂に終止符を打ち、欧州ハプスブルクで支配するのが標。敵が眼前に居るのでスペインよりは異端に寛容(にならざるを得ない)。

帝国諸侯

帝国内で自由に動きたいから皇帝の権は弱くあって欲しいが、帝国外の諸帝国内部に影を持って欲しくないから皇帝には強くあって欲しいという矛盾したような立場で皇帝と諸の間を行きつ戻りつする。そのため、皇帝に逆らうが、フランス帝国内に入れないが、スペイン帝国に影あるのがむかつく。結局の所、自分が得したいという話。

ネーデルラント共和国

新教(カルヴァン

カルヴァンの信仰を認めて欲しいのに、支配者が異端に絶対の嫌悪を示すスペインハプスブルクだったため、独立戦争を起こす。この頃、事実上の独立は達成していたものの、スペインからの経済上の圧が掛けられており、新大陸からの富に関与できなかったことが、ネーデルラントアジア貿易をす理由となる。当時、最大のアジア貿易であったポルトガルスペインとの同君連合下であったことも有り、独立戦争アジアにおける植民地戦争へと移行していった。こうした状況下で三十年戦争が勃発する。

スペイン系ハプスブルク家

旧教(カトリック)。

アルマダ戦で負けたとはいえ、未だ覇権国家。また、歴史的、地理的な理由から異端や異教を凄まじく敵視する。というより、称号の一つがカトリック王なのでヘタに異端異教を認めると王権の正統性に疑問符が付きかねない。標は同じく、カトリックによる欧州の普遍的支配。皇帝でもないので、宗教的な統一の方に重が偏っている。

フランス王国

旧教(カトリック)。但し、ナントの勅内では新教も容認。

カール5世のときのような、個人によって挟み込まれると言う状況は脱したが、東西をハプスブルクに挟まれている状況は変わらない。というか、ネーデルラントイタリアまで含めると、フランスは四方にハプスブルクがいる様な状況であるからこの状況をどうにかすることが標。特に、イタリアが欲しい。あわよくば、皇帝位を奪取したい。だからハプスブルク氏ねカトリックだが新教側。

イングランド王国

新教(プロテスタント)。

王が実に個人的な理由でカトリックをやめた事に加え、スペインが新大陸の富を独占していることが気に食わないので反カトリックとして新教側を支援する。とはいえ、の仲であるとはいえ、新教側のフランスとも殴り合うというよく分からない立ち位置。

デンマーク王国

新教(プロテスタント)。

スウェーデン独立したとは言え、いまだ北方の大の地位にある。バルト北海の交易利益で食っていたので、この地域に大勢が出現することを望まない。ただし、スウェーデンの拡も望まないし、あわよくば再連合したい。

スウェーデン王国

新教(プロテスタント)。

デンマークから独立した。バルトの交易で食っていて、この地域での更なる勢拡大をす。ただし、デンマークとは敵対する。新教であることに加え、旧教のポーランドとも一着起こしていたため、新教側。新教を守ると言う建前以外に、古ゴート義なる全欧州のものというジャイアニズム信望者でもある。

ポーランド・リトアニア共和国

旧教(カトリック)。

ポーランドが、リトアニアを取り込んで、広大な領土と膨大な人口を持ったが、貴族の勢が高まりすぎて積極的な対外政策が打ち出せなかった事に加え、内のかなりの人口が異端(正教徒)なので、異端禁止と言い出すと東のモスクワ大公(後のロシア)も合わせてどうなったものか分からなかったため、この戦争にはほぼ関係不介入をつらぬく。その結果、西欧全体が疲弊する中で、の時代を享受する。

オスマン帝国

イスラーム

最盛期を過ぎたとはいえ、脅威は陸でまだ健在。このの存在は皇帝に新教への幾度もの妥協を強いた他、属トランシルヴァニアが新教側で三十年戦争に参加した。反ハプスブルクのため、どちらかと言えば新教側。


戦争への道


三十年戦争のきっかけになったのは新旧の宗教対立である。ルターの宗教改革からうまれたプロテスタントカトリックの対立は、1555年の、領都市に信教の自由を認めるアウクスブルクの宗教平和会議によってひとまず解決されたかにみえた。しかしこれは一時の妥協にすぎなかった。プロテスタントはその後も北ドイツに拡大し、それに対抗してカトリック側もトリエント会議にて対抗宗教改革を行い営を立て直した。

その際に、アウクスブルクの和議の持つ「職者に関する留保」が最大の問題とされた。それは「カトリック職者がプロテスタント宗するときには、その職と所領を放棄しなければいけない」というものである。読んで分かる通り、プロテスタントにとっては不利な条項である。そこでプロテスタントは、これは帝国等族の同意を得ていないとして、その条項の効をした。

この当時、すでに北ドイツではほとんどすべての教領がプロテスタントの手中にあり、下ライン地方まで勢を伸ばさんとしていた。一方カトリックも上記の留保を理由に巻き返しを計ったので1570年代以降、両の対立は深刻となった。その対立は8283年のケルン大司教職を巡る紛争で最初のピークを迎える。これに勝利したカトリックは勢いづき、北ドイツにまで勢いを伸ばす。

カトリックは留保事項をもとにプロテスタントに領土の返還をめるが、それはプロテスタントにとっては破滅と同義である。到底受け入れられるものではない。ドイツ帝国議会はこの紛争を調停するを持たずであり、事態は軍事による決着しかなくなりつつあった。

このころ既にプロテスタント側は、新たに勢を伸ばしてきた急進的カルヴァンと穏健のルターに分裂していたが、カルヴァンリーダーであるプファルツ選侯の導の下、1608年に新教同盟(ウニオン)が結成されると、それに対抗してカトリックも翌年に、バイエルン侯マクシミリアンによって、多くのカトリックをまとめた旧教連盟(リガ)が結成された。

新教同盟の背後には西ヨーロッパのカルヴァン、とりわけオランダがついていた。これに対して旧教連盟にはヨーロッパカトリックの盟スペインが後ろとなっていた。つまりドイツの新旧宗教対立はヨーロッパ全体の際的な対立にも繋がっていたのである。火種はヨーロッパのいたるところにあり、まさに一触即発。その導火線に火がついたのは1618年のベーメンであった。


ベーメン・プファルツ戦争(三十年戦争の第一幕)


ベーメンではルター以前に学者フスに関して宗教戦争が起きているなど、プロテスタントが多く、しかも信仰の自由が保された土地であった。しかし、反宗教改革フェルディナントハプスブルクオーストリアの領も兼任していた)が1617年にベーメン国王につくと、ただちにプロテスタントを弾圧し始めた。ベーメンの領邦等族がこれに対抗したので、単なる宗教的対立を越えて、領vs領邦等族の対立と、チェコ人とドイツ人の民族的対立が発生した。

ことのおこりは、等族議会が領フェルディナント抗議して、一部の過激派皇帝の代官マルティニツとスラヴィタをプラハから突き落として殺したことに発する(第2次プラハ窓外放擲事件)。1618年5月23日。三十年の永きにわたりドイツ全土を戦乱に巻き込んだ三十年戦争の勃発である。

反乱貴族たちはただちに新政府をつくり、軍隊を招集した。さらにオーストリア内のプロテスタントにも呼びかけを行い、勢を広げる。そしてついに翌年の議会でフェルディナントを罷免し、新教同盟の盟プファルツ選フリードリヒ五世ベーメンの新国王に選出した。ここにドイツのカルヴァンベーメンの等族が政治的に結びついたのである。

当然、領側のオーストリアも黙ってみていたわけではない。フリードリヒ五世のベーメン国王就任とほぼ同時期に、フェルディナント神聖ローマ皇帝に就任する。新皇帝スペインや旧教連盟と同盟を組むことに成功し、ルターザクセンまでが皇帝の側についた。これに対してベーメンは新教同盟や外の援助の獲得に失敗し、その勢の差は歴然となってしまった。

1620年、新旧軍がプラハ郊外突したとき、ベーメンは壊滅的敗北を喫する。ベーメン国王フリードリヒ五世はを追われ、ベーメンの反乱貴族は処刑あるいは追放され、その財産は没収された。ベーメン内ではカトリック教化が行われ、ベーメンは従来の体制を大きく変化させることとなった。

プロテスタントベーメンの領邦等族、ベーメン国王フリードリヒ五世

             vs

カトリックベーメン国王フェルディナント(兼オーストリア国王、新ドイツ皇帝

その後、舞台ベーメンからプファルツに移る。バイエルンティリー将軍率いる旧教連盟軍と、スピノラ支配下のスペイン軍は1621年にプファルツに進軍し、そこを占領した。それによってバイエルン大公マクシミリアン一世は皇帝とのかねてとの約束通りプファルツ選の地位を獲得した。一方で一緒についてきたスペインスペイン街道の確保に成功した。この街道は北イタリアネーデルラントを結ぶ重要な街道であった。こうしてとりあえず三十年戦争の第一幕であるベーメン戦争プファルツ戦争(1618〜23)は終結した。しかし、戦争はまだ終わらない。


デンマーク戦争(三十年戦争の第二幕)


このスペインプファルツ侵攻に対して、フランスは強い脅威を感じていた。ルイ十三世の宰相リシュリューは北ドイツの諸侯の他にオランダイギリスデンマークにも働きかけ、1625年にハーグ同盟をむすび、ここに三十年戦争の第二幕が始まった。

まず行動にでたのはデンマーク国王クリスチャン四世であった。プロテスタント危機を感じていたクリスチャン四世は北ドイツに侵攻。これに対抗して神聖ローマ帝国軍の総司令官に選ばれたのが、傭兵隊長ヴァレンシュタイである。

1626年にティリーとクリスチャン四世がルッターにて衝突し、ティリーの勝利に終わる。この間にヴァレンシュタインは10万の軍勢を率いて北上し、北ドイツのメクレンブルクを占領し、さらにデンマークのあるユトラント半島にまで迫った。

ドイツ皇帝軍の優勢のもとに1629年にヴァレンシュタインはデンマークとリューベック講和条約をむすび、同年ドイツ皇帝帝国等族に相談することなく単独で、復旧勅を発布した。これは1552年以来、プロテスタントに没収された教会領をカトリックに返還することを命じたもので、ドイツ皇帝権のピークと皇帝絶対義を意味するものであった。三十年戦争の第二段階であるデンマーク戦争1625〜29)はここに終わった。しかし戦争はまだまだ続く。


次へ»
最終更新日: 18/10/24 23:36
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ