ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


全国高等学校野球選手権大会


ヨミ: ゼンコクコウトウガッコウヤキュウセンシュケンタイカイ
掲示板をミル!
237カキコ!

全国高等学校野球選手権大会とは、阪神甲子園球場にて毎年に行われる硬式野球の大会である。催は朝日新聞社と日本高等学校野球連盟。
(全高等学校軟式野球大会は、同じ兵庫県明石公園野球場と高砂野球場が開催地となる。)

この大会のテレビ中継はの代名詞でもあり、開催地の名にちなんで「夏の甲子園」の名で親しまれている。


概要


高校野球における硬式の部の全大会は、甲子園球場における選抜高等学校野球大会(以下、センバツ)との全国高等学校野球選手権大会(以下、選手権大会)、民体育大会(国体)において開競技として行われる高等学校野球競技、神宮球場で行われる明治神宮野球大会高校の部の4つが存在する。
その中でも、地方予選から各都道府県テレビラジオ中継があり、校・故郷の応援で思い入れも強くなるの選手権大会は、最も注される大会である。
また、有望な選手をドラフトで獲得しようと論むプロ野球スカウト達にとっても、この大会は補を絞り込む、あるいは新たな素材を発掘するための絶好の機会となっている。
テレビラジオ中継は、おもにNHK(全試合全中継)とテレビ朝日系列局(各県代表の試合を出場校の地元系列局が放送、決勝戦のみ全ネットで放送。ただし制作局の朝日放送<近畿圏>はサンテレビKBS京都などの独立局と共同で全試合全中継、BS朝日がそれを受けて全生放送CSスカイ・Aも録画放送する。またダイジェスト番組「熱闘甲子園」をABCテレ朝の共同制作で全ネットで放送)が行っている。近年では地方ケーブルテレビ局も中継していることがある。


代表校選出


1978年の第60回記念大会以降、現在まで例年の大会では南北北海道と東西東京のみが12校、1都2校の代表を選出し、他は全て1府県1校である。それ以前は第40回・50回記念大会で全都道府県1校が出場したのを除き、一部地域ではいくつかの県をまとめて地区代表として甲子園に出場することになっていた。
現行の制度では予選出場校数が25校程度の鳥取県160校をえる予選出場校がある千葉県大阪府が同じ出場1を争う形になっており、出場の価値にあまりにもひどい格差が生じている。

1998年に行われた第80回大会は記念大会と位置づけられ、愛知県神奈川県などの戦区から二校が出場した。この年に優勝したのが、松坂大輔小山良男、後藤武敏小池正晃といった後にプロ球界で活躍した選手たちを擁する横浜高校であった。

2008年の第90回大会も同様に記念大会となり、北海道東京都のほかに高校数の多い神奈川県埼玉県千葉県愛知県大阪府兵庫県から2校ずつ選出されている。2018年の第100回記念大会は福岡県からも2校選出となり、過去最多の56校が出場する事になる。

広域な地域でまとめて出場校を選ぶセンバツとは異なり、地区大会で優勝した高校はほぼ間違いなく選手権大会に出場できる。ただし不祥事を起こした場合は例外であり、過去には高知県代表の明徳義塾高校が地区優勝を果たしたものの出場を辞退し、準優勝に終わった高知高校が出場したケースがある。第90回大会でも群馬県代表の桐生第一高校野球部で不祥事があったが、出場を取り消し・辞退するまでには至らなかった。ただ、一部の批判などが重圧となって出たのか、1回戦敗退してしまった。


地方大会の球場の特徴


地方大会には、それぞれ地方大会なりの開催地があり、球場地方によって異なる。

プロ野球公式戦が組まれている球場や、実際にプロ野球チームが本拠地を置いている球場も開催地に選ばれる。

愛知県大会はナゴヤドームを決勝などの会場にしており、「高校生にはすぎる」と揶揄される場合も(2008年以降は使用されず)。最近では大阪府大会で京セラドーム大阪を会場としており、開会式直後の2試合はドームでやることになっている。

東京代表は東東京西東京とも新宿区明治神宮球場周辺を開催地としており、決勝は神宮球場宮第二球場を使用する場合がある。

兵庫県大会ではかつて阪神甲子園球場を会場に使っていたこともあるが、2004年を最後に甲子園での県大会は行われていない。

地方によっては甲子園球場より広いグラウンド、甲子園球場より高いフェンスの球場で戦わなければいけない。特に東西東京宮城広島の代表選出は両101mをえる球場が使われている。場所によっても、両100m級(千葉マリンスタジアムなど)が使用される場合があり、俊足ランナーが三塁打を狙える分、長距離ヒッターがホームランを狙えないケースが多い。


過去のドラマ、人物



奪三振の男、板東英二(徳島県代表・徳島商業)


後に中日ドラゴンズに入団し、タレントに転向した板東英二

実は徳島商業時代、高校野球にて偉大な記録を作っている。

1958年、夏の甲子園。秋田商、八女を下して迎えた準々決勝。富山県代表のに延長18回、実に25奪三振を奪うものの、0-0のまま引き分けに終わり、大会初の延長引き分け再試合が適用された。

しかし、再試合でも板東登板し、勝利で下した。その後も準決勝で作新学院を破ったが、決勝の井戦で尽き、準優勝で終わった。

だが、その時の大会通算奪三振数は83で、これは未だにどの高校のどの投手からも破られていない。

荒木大輔桑田真澄松坂大輔斉藤田中将大菊池雄星ですら記録を破ることはできなかった。


最高試合と呼ばれた試合(和歌山県代表・箕島高校対石川県代表・星陵高校)


1979年8月16日に行われた最高試合と呼ばれた試合である。

はこの年の第51選抜高等学校野球大会で優勝しており史上3校高校としては初の連覇がかかっていた。戦石井毅-嶋田バッテリー自慢の機動を生かした打線が充実。

対する稜も、エースの堅田外昭に音重鎮らの打線が充実していた。この試合に勝利したはそのまま同大会を制覇。そのを最も苦しめた稜はその健闘ぶりが逆照射的に認識されることとなった。

試合が動いたのは4回表陵の攻撃で一死後、陵の3番北安博が安打で出て、続く4番の川井ヒットエンドランで一塁走者・北が三塁へ。川井盗塁で二塁へ。投手の堅田の適時打で陵が1点を先制。

しかしその裏、の先頭の上野山が安打で出塁。北野の送りバントが失敗するが、上野敬三のヒットエンドランで一塁走者・北野が三塁へ。森川の適時打でが1ー1の同点に追いつく。

試合はもつれ込み延長12回の表、1死後陵の6番音の安打四球で走者をためると8番の石黒の2塁ゴロをセカンド上野山がトンネル、その間に走者が1人生還し2ー1で陵の勝ち越し。

しかし続く12回裏は簡単に2死、続く1番の嶋田が打席に入る前に尾監督に「ホームランを打っていいですか」と言いカウント1ー0から左翼ラッキーゾーンへの同点本塁打が同点に追いつく。

試合は16回表、1死後死球投手の堅田の安打で走者を貯めて、その後の打者の投手ゴロで走者の堅田がアウトになるが、陵の7番山下の適時打で陵が3ー2で勝ち越し。

しかしその裏は簡単に2死になり打席に入った森川が1塁ファールフライを打ち上げ今度こそ万事休すかと思われた、しかしその年から敷かれた人口芝がグラウンドの土との少しのが出来て、陵の1塁手加藤が転倒、情にも球はファールグラウンドに落ちは命拾いした、再び打席に入った森川カウント2ー1から左翼スタンドへの起死回生の同点本塁打を放ちは3ー3の同点にする。

そして延長18回の裏、この回で点が入らなければ引き分け再試合となる所では先頭の内が四球で出塁し、1死後4番の北野四球で出塁、そして5番の上野が適時打を放ち2塁走者の内がヘッドスライディングで生還し、サヨナラ勝ちとなった。

試合時間は3時間50分で試合開始時刻が16時06分で試合終了時刻が19時56分となった。


やまびこ打線(徳島県代表・池田高校)


1982年の夏の甲子園に突如現れた怪物打線。時代を先取りした筋トレーニング底した打撃練習1974年に導入された金属バット特性を最も活かしたチームである。

6戦で85安打を放つなどバントをしない積極的なスイングは「やまびこ打線」と呼ばれ、高校野球革命をもたらした。

当時「大ちゃん」だった荒木大輔を擁する早稲田実業を準々決勝で14-2と打ち崩し快勝、全を驚かせる。

決勝では機動バントを駆使した緻密な野球を身上とし、高校野球流である「広商野球」を作りあげた広島商業を相手に初回6得点と打線爆発。結局12-2で初優勝を飾った。

翌年1983年も制し史上4校連覇を達成。5試合で34得点2失点という圧倒的な強さでも優勝補筆頭に挙げられる。

しかし、下記に記してある通り準決勝で当時1年生KKコンビを擁するPL学園に0-7で敗退。史上初の3季連続優勝は幻となった。

また、準優勝した1974年の選抜では野球部員が11人しかいなかった時もあり、「さわやかイレブン」とも呼ばれていた。 


KKコンビ(大阪府代表・PL学園)


1983年1985年まで甲子園を沸かせた桑田真澄清原和博コンビ

桑田はこの3年間で20勝を挙げホームラン清原に次ぐ6本、清原も3年間で40安打、歴代最多の13本のホームランを放っている(成績はの選抜込み)。

1年のでは準決勝での3季連続優勝を狙う池田を7-0、決勝では清原ホームランもあり横浜商を3-0で破り優勝、2年のは取手二高に延長戦の末4-8で敗れ準優勝だったものの、3年の部商を4-3で下し優勝を果たした。

このときのPLは3回、2回の甲子園全てに出場し、
優勝2回、準優勝1回
準優勝1回、ベスト4が1回
というとてつもない成績を残しており、1985年2回戦では東海大山形を相手に毎回得点の29-7というスコアを記録している。

なお、KKコンビ卒業した2年後の1987年には史上4校連覇も達成している。


恐れられた『ゴジラ』(石川県代表・星稜高校対高知県代表・明徳義塾高校)


1992年ラッキーゾーンが撤去され両が広くなってから初めての甲子園であるセンバツ64回大会。
広い両浜風に阻まれ、本塁打が狙えなくなる中、本塁打を連発する球児がいた。
その有り余るパワーからゴジラとあだ名された高校将、松井秀喜である。
松井は今大会の初戦で2打席連続の本塁打を放ち、2回戦でもまた本塁打を決め、ドラフト会議の有補にもなる程に注の的となっていた。

そして同年の夏の甲子園。
制覇を狙いに来ていた稜は初戦の長岡向陵を11-0で下し、勢いに乗っていた。
この試合を観戦していた明徳義塾の監督である淵史郎は、松井高校生離れしたバッティングをの当たりにし、稜と当たる事になった第2回戦のミーティングである示を下す。
それは「松井と勝負をせず、5番、6番打者と勝負する」という策だった。

そして迎えた8月16日稜対明徳義塾。
監督示通り、明徳義塾のエース河野は1回表の松井の第一打席を敬遠する。
しかも、故意四球と感づかれないようにキャッチャーを座らせたまま四球を投げるという底ぶりだった。
3回表の第二打席も同じく敬遠。が、観客は感づいたのかこの時から河野が1球を投げるごとにスタンドがどよめくようになる。

5回表、1死1塁で迎えた松井の第三打席。
「1塁にランナーが居る状態で敬遠は流石にないだろう」
球場の観客はもがそう思っていた。
だが、またしても河野松井を敬遠。疑念は確信へと変わった。

3-2と明徳義塾1点リードの7回表の第4打席。
観客席からは「勝負!勝負!」の怒号がく中、またもや河野松井を敬遠。
この時、稜側はおろか、明徳義塾側の応援席からも「土佐っ子なら正々堂々と勝負しろ!」という野次まで飛んでいた。しかし、明徳義塾はこの策を変えることはなかった。

9回表の松井の第5打席も当然のごとく敬遠。
ところが、観客の怒りは頂点に達し、堰を切ったように野次と怒号に包まれるという、高校野球では史上まれに見る異様な雰囲気となった。
しかも、稜側のスタンドからはメガホン等の応援用具が次々投げ込まれ、明徳義塾側からもナインに向かい「帰れ!」「殺すぞ!」という怒号が飛び交う始末になってしまった。
これを危険と見た審判タイムを掛け、ボールボーイ稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走った。松井はこの風景を1塁で憮然と見ていた。
その後、松井が2盗を決めチャンスゾーンにランナーを進めるものの、次打者の岩は退。
1点差を逃げ切り、明徳義塾の勝利となった
が、明徳義塾の校歌斉唱時にもブーイングが止まず、負けた方の稜に盛大な拍手が贈られるという異常な事態となってしまっていた。


次へ»
最終更新日: 18/08/22 03:12
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ