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八八艦隊とは
ここでは(1)の艦隊計画について述べる。 |
「八八」は、砲撃力と防御力に優れる戦艦8隻と、機動力に優れる巡洋戦艦(高速戦艦)8隻を中心とするものであったことに由来する。この他に補助艦として古鷹型重巡洋艦・球磨型軽巡洋艦・長良型軽巡洋艦・川内型軽巡洋艦など、合計で100隻余りの艦艇を建造することが計画された。
この項では併せて、八八艦隊計画を葬ることになった「ワシントン海軍軍縮条約」についても解説する。
日露戦争でロシア海軍を打ち破った日本海軍は、海軍大国のイギリスが今のところ同盟国(日英同盟:1902年/明治35年)であり、その後イギリス・ロシア・フランスが三国協商となったところへ、日本も日英同盟の関係からこれに加わるような格好となったことから、西太平洋海域における海上脅威はドイツとアメリカが想定され、特にアメリカが最大の仮想敵国として意識されるようになってきた。
主力戦艦を8+8=16隻とするのは、日本海海戦で有名な参謀・秋山真之少将が考えだしたと言われているが、実際のところは、明治40年(1905年)当時主力艦が25隻あったアメリカ海軍を迎え撃つために、少なくとも七割の主力艦(25隻の七割は17.5隻)が必要であるという考えと、秋山が戦術と艦隊指揮の適切性の観点から主力艦8隻の艦隊を2つ整備するべきとしていた考えが、丁度合わさる形で生まれたとも言われる。
の激しい対立の場となっていた。
この最中に発生した第一次世界大戦(1914~1918年/大正3~7年)の結果、国際情勢は激変。ドイツは東アジア・西太平洋から駆逐され、北方には共産ロシア(ソ連)が登場。大戦で疲弊した英国とフランスの勢力は後退し、アメリカが太平洋と中国大陸の利権拡張を目指しての進出を本格化させつつあった。
大正7年(1918年)の国防方針では、陸軍が大戦の戦訓を踏まえて「量より質」の観点へ移行し、戦時40個師団(平時21個師団)の整備を計画。一方海軍は、八八艦隊へ更に8隻の主力艦を上乗せした「八八八艦隊」の建造を計画するようになる。
大正8年(1919年)、原敬内閣の高橋是清(大蔵大臣)・田中義一(陸軍大臣)・加藤友三郎(海軍大臣)の三者協議によって決まった大正9年度の軍備予算方針では、陸軍が海軍に譲歩して海軍の整備を優先し、海軍は大正16年度までに八八艦隊を成立。その後陸軍の拡充を図ることとなった。
既に大正5年度予算で戦艦「長門」、6年度予算で戦艦「陸奥」「加賀」「土佐」と巡洋戦艦「天城」「赤城」、7年度予算で巡洋戦艦「愛宕」「高雄」の経費は帝国議会を通過していた。
大正9年(1920年)7月、当時の国家予算のおよそ30%にあたる、総額6億円にも及ぶ八八艦隊の本予算は成立。同年11月、八八艦隊第一号艦・戦艦「長門」は竣工を果たした。
艦型 | 排水量 | 主砲 | 速力 | 予定艦名 |
---|---|---|---|---|
長門型 (戦艦) | 34,000トン | 16インチ砲 8門 | 26.5ノット | 長門 陸奥 |
加賀型 (戦艦) | 40,000トン | 16インチ砲 10門 | 26.5ノット | 加賀 土佐 |
天城型 (巡洋戦艦) | 41,000トン | 16インチ砲 10門 | 30ノット | 天城 赤城 愛宕 高雄 |
紀伊型 (戦艦) | 43,000トン | 16インチ砲 10門 | 29ノット | 紀伊 尾張 (駿河) (近江) |
「第十三号艦」 (巡洋戦艦) | 48,000トン | 18インチ砲 8門 | 30ノット | (第十三号)他3隻 |
※戦艦「ドレッドノート」は1906年竣工 スペックは新造時による
艦型 | 排水量 | 主砲 | 速力 | 艦名(竣工年) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
薩摩型 | 20,000トン | 12インチ砲 4門 | 20ノット | 薩摩(1910) 安芸(1911) | 前弩級戦艦 国産 |
河内型 | 20,000トン | 12インチ砲 10門 | 21ノット | 河内(1912) 摂津(1912) | 弩級戦艦 国産 主砲は50口径4門と45口径6門 |
金剛型 | 26,000トン | 14インチ砲 8門 | 27.5ノット | 金剛(1913) 比叡(1914) 榛名(1915) 霧島(1915) |
巡洋戦艦(初め装甲巡洋艦) 金剛のみ英国製 |
扶桑型 | 30,000トン | 14インチ砲 12門 | 23ノット | 扶桑(1915) 山城(1917) | 超弩級戦艦 国産 |
伊勢型 | 30,000トン | 14インチ砲 12門 | 23ノット | 伊勢(1917) 日向(1918) | 超弩級戦艦 国産 扶桑型の計画変更・改良 |
「河内」は大正7年(1918年)、火薬庫の爆発事故で沈没。
「薩摩」「安芸」「摂津」はワシントン海軍軍縮条約によって廃棄対象となり、「薩摩」と「安芸」は大正13年(1924年)に標的艦として砲撃実験に使われ沈没。
「摂津」は無線操縦の標的艦として、徹甲弾や酸素魚雷など各種の実験に長く使われ、昭和20年(1945年)7月の呉軍港空襲で大破着底となる。
「金剛」以降の8戦艦が近代化改修を繰り返された後、太平洋戦争で活躍することになるのは周知の通り。
こうしてようやく走りだした壮大なる八八艦隊計画だったが、上記のように艦隊の整備予算は国家予算の3割から4割を占める膨大なものであり、第一次世界大戦の戦争景気が急速に陰ってゆく中で、未だ国力に乏しい日本がこれだけの大艦隊を保有していけるのかという危惧は、当初から少なからずあった。大蔵省の事務次官は、予算が成立したその大正9年ごろ、海軍首脳に対し「このままでは国がやっていけない」と訴えている。
そして、八八艦隊予算を成立させた当人である海軍大臣・加藤友三郎大将もまた、八八艦隊の先行きに疑問を持つひとりだった。海軍省幹部との会合で加藤は、「少し前まで軍艦の進水式というと、みな諸手を挙げて喜んでくれたものが、このところ経費の心配をする話ばかりで、自分もよく悩んでいる」という話をしている。
そのころ、第一次世界大戦の戦火の余韻冷めやらぬヨーロッパでは、戦勝国イギリスが積み重なった戦費負債と、膨れ上がった軍備の後始末にあえいでいた。ドイツ海軍を封じ込めるために建造を続けた大艦隊など、戦争が終わってしまってからも維持できるものではなく、また予算の欠乏は、世界中に散らばる大英帝国の植民地の統治に支障をきたすものであった。
他方、戦勝国であり、また戦勝国・敗戦国双方に対して最大の債権者となったアメリカは、前世紀の王者・イギリスに代わって繁栄を謳歌する「狂乱の1920年代」の扉を開けようとしていた。大戦中の1916年(大正5年)、ウィルソン政権(民主党)のダニエルズ海軍長官は、3年で戦艦10隻・巡洋戦艦6隻など155隻の大艦隊を整備する「ダニエルズ・プラン」を計画して海軍法が成立。大戦終了後も計画は破棄されなかった。
とはいえアメリカも、何の躊躇もなく戦後軍拡に邁進しているのではなかった。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカは、それゆえに太平洋の大国となった日本と大西洋の王者イギリスが手を組んで、両側から戦争を仕掛けてくることへの恐れを抱いていた。具体的には「日英同盟」に対する恐れである。
日英同盟に関しては、イギリス側はこれが日本の火事場泥棒的な第一次世界大戦参戦の口実に使われたことから、日本側はイギリスが同盟の適用対象からアメリカを外そうとしている(←日米戦争となったらイギリスは助けない)ことについて、それぞれ不満を抱き、ある意味既に有名無実化していたのだが、それでも現に存在する同盟はアメリカにとって不安の種であり、かつ日本が「八八艦隊」を推進し、イギリスも巡洋戦艦「フッド」の改良型4隻建造を発表したことで、アメリカ・イギリス・日本で建艦競争が繰り広げられることになるのを嫌がっていた。
1921年(大正10年)11月。こうして、できれば軍拡を避けたい米英の思惑が一致し、アメリカ大統領ハーディング(共和党)の提唱としてアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの9ヶ国による国際会議をワシントンD.Cで開催。このうち米英日仏伊の五大国間で軍縮会議が開かれることとなる。
原敬首相は、「八八艦隊の推進者を全権大使にすれば、まとまるモノもまとまらなくなる」という周囲の反対をはねのけ、海軍大臣・加藤友三郎を首席代表に選んだ。
原 「国内は自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やって下さい」
加藤 「八八艦隊の原則は破りたくないが、米英との釣り合い上、いざという場合の対策は練っている。海岸の防備もアメリカがグアムの防備を撤去するならば、我が方は小笠原、その他の防備を撤去してもよい。またアメリカがマニラの防備を撤去するならば、澎湖島ほか一ヶ所の防備を撤去してもよいと考えている」
ワシントンに到着した加藤は、外務省から代表を務める駐米大使の幣原喜重郎に対してもこう語る。
「八八艦隊なんぞ、出来るものではない。何かチャンスがあったら止めたいと思っていた」
加藤がワシントンに到着した2日後、東京駅で原敬首相はテロリストに襲われて殺害(原敬暗殺事件。大正10年11月4日)。大蔵大臣・高橋是清が閣僚全員を留任させて、慌ただしく内閣を引き継いだ。
11月12日、コンチネンタル・メモリアル・ホールで始まった軍縮会議は、アメリカ全権代表・ヒューズ国務長官の爆弾発言から始まった。ヒューズの提案は、