ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


八八艦隊


ヨミ: ハチハチカンタイ
掲示板をミル!
63カキコ!
曖昧さ回避

八八艦隊とは

  1. 第一次世界大戦後の日本海軍が実現をしていた大艦隊計画。
  2. 冷戦末期海上自衛隊にて計画された艦隊構成の通称。一個護衛艦隊群を護衛艦8隻と対潜ヘリ8機で構成するというもの。8艦8機体制という呼び方と1.をかけている。「新八八艦隊」とも呼ぶ。

ここでは(1)の艦隊計画について述べる。


■sm9890491[ニコ動]

「八八」は、と防御に優れる戦艦8隻と、機動に優れる巡洋戦艦高速戦艦)8隻を中心とするものであったことに由来する。この他に補助艦として古鷹重巡洋艦球磨軽巡洋艦長良軽巡洋艦川内軽巡洋艦など、合計で100余りの艦艇を建造することが計画された。

この項では併せて、八八艦隊計画を葬ることになった「ワシントン軍縮条約」についても解説する。

 背景

 日露戦争ロシア軍を打ち破った日本海軍は、軍大イギリスが今のところ同盟日英同盟:1902年/明治35年)であり、その後イギリスロシアフランスが三協商となったところへ、日本日英同盟の関係からこれに加わるような格好となったことから、西太平洋域における上脅威はドイツアメリカが想定され、特にアメリカが最大の仮想敵として意識されるようになってきた。

 戦艦を8+8=16隻とするのは、日本海戦で有名な参謀・秋山少将が考えだしたと言われているが、実際のところは、明治40年(1905年)当時艦が25隻あったアメリカ海軍を迎え撃つために、少なくとも七割の艦(25隻の七割は17.5隻)が必要であるという考えと、秋山が戦術と艦隊揮の適切性の観点から艦8隻の艦隊を2つ整備するべきとしていた考えが、丁度合わさる形で生まれたとも言われる。

 明治末年から大正前期にかけての軍備計画は、

 のしい対立の場となっていた。

 この最中に発生した第一次世界大戦(1914~1918年/大正3~7年)の結果、際情勢は変。ドイツ東アジア・西太平洋から駆逐され、北方には共産ロシアソ連)が登場。大戦で疲弊した英国フランスの勢は後退し、アメリカ太平洋中国大陸利権しての進出を本格化させつつあった。

 大正7年(1918年)の防方針では、陸軍が大戦の戦訓を踏まえて「量より質」の観点へ移行し、戦時40個師団(21個師団)の整備を計画。一方軍は、八八艦隊へ更に8隻の艦を上乗せした「八八八艦隊」の建造を計画するようになる。

 大正8年(1919年)、原敬内閣高橋是清(大蔵大臣)・田中義一(陸軍大臣)・加藤三郎軍大臣)の三者協議によって決まった大正9年度の軍備予算方針では、陸軍が軍に譲歩して軍の整備を優先し、軍は大正16年度までに八八艦隊を成立。その後陸軍の拡充を図ることとなった。
 既に大正5年度予算で戦艦長門」、6年度予算で戦艦陸奥」「加賀」「土佐」と巡洋戦艦天城」「赤城」、7年度予算で巡洋戦艦愛宕」「高雄」の経費は帝国議会を通過していた。

 大正9年(1920年)7月、当時の国家予算のおよそ30にあたる、総額6億円にも及ぶ八八艦隊の本予算は成立。同年11月、八八艦隊第一号艦・戦艦長門」は工を果たした。

 八八艦隊の戦艦

排水量 予定艦名
長門 (戦艦 34,000トン 16インチ 8門 26.5ノット 長門 陸奥
加賀 (戦艦 40,000トン 16インチ 10門 26.5ノット 加賀 土佐
天城 (巡洋戦艦 41,000トン 16インチ 10門 30ノット 天城 赤城 愛宕 高雄
紀伊 (戦艦 43,000トン 16インチ 10門 29ノット 紀伊  (駿) (近江
「第十三号艦」 (巡洋戦艦 48,000トン 18インチ 8門 30ノット  (第十三号)他3隻
  1. 十三号艦は資料の棄・抹消により、不明な点が多い。18インチ搭載は平賀譲(造船大佐)の意見書が根拠とされるが、決定されたものではなかったとする説もある。
  2. 巡洋戦艦天城戦艦紀伊に性差がさほどいのは、紀伊を、先行各艦の建造状況に応じて良させる意図があったと言われる。

(備考) 明治末~第一次世界大戦期に建造された戦艦

戦艦ドレッドノート」は1906年工 スペックは新造時による

排水量 艦名(工年) 備考
薩摩 20,000トン 12インチ 4門 20ノット 薩摩(1910) 安芸(1911 戦艦 
河内 20,000トン 12インチ 10門 21ノット 河内(1912) 摂津(1912) 戦艦 
50口径4門と45口径6門
金剛 26,000トン 14インチ 8門 27.5ノット 金剛(1913) 比叡(1914)
榛名(1915) 霧島(1915)
巡洋戦艦(初め装甲巡洋艦
金剛のみ英国
扶桑 30,000トン 14インチ 12門 23ノット 扶桑(1915) (1917) 戦艦 
伊勢 30,000トン 14インチ 12門 23ノット 伊勢(1917) 日向(1918) 戦艦 
扶桑の計画変更・

 「河内」は大正7年(1918年)、火庫の爆発事故で沈没。
 「薩摩」「安芸」「摂津」はワシントン軍縮条約によって棄対となり、「薩摩」と「安芸」は大正13年(1924年)に標的艦として実験に使われ沈没。
 「摂津」は線操縦の標的艦として、徹甲弾酸素魚雷など各種の実験に長く使われ、昭和20年1945年7月軍港襲で大破着底となる。

 「金剛」以降の8戦艦近代修を繰り返された後、太平洋戦争で活躍することになるのは周知の通り。

 ワシントン軍縮会議

 こうしてようやく走りだした壮大なる八八艦隊計画だったが、上記のように艦隊の整備予算は国家予算の3割から4割を占める膨大なものであり、第一次世界大戦戦争気が急速に陰ってゆく中で、未だに乏しい日本がこれだけの大艦隊を保有していけるのかという危惧は、当初から少なからずあった。大蔵事務次官は、予算が成立したその大正9年ごろ、軍首に対し「このままではがやっていけない」と訴えている。
 そして、八八艦隊予算を成立させた当人である軍大臣・加藤三郎大将もまた、八八艦隊の先行きに疑問を持つひとりだった。幹部との会合で加藤は、「少し前まで軍艦進水式というと、みな諸手を挙げて喜んでくれたものが、このところ経費の心配をする話ばかりで、自分もよく悩んでいる」という話をしている。

 そのころ、第一次世界大戦の戦火の余韻冷めやらぬヨーロッパでは、戦勝イギリスが積み重なった戦費負債と、膨れ上がった軍備の後始末にあえいでいた。ドイツ軍を封じ込めるために建造を続けた大艦隊など、戦争が終わってしまってからも維持できるものではなく、また予算の欠乏は、世界中に散らばる大英帝国植民地の統治に支障をきたすものであった。

 他方、戦勝であり、また戦勝・敗戦国双方に対して最大の債権者となったアメリカは、前世紀の王者・イギリスに代わって繁栄を謳歌する「狂乱の1920年代」のを開けようとしていた。大戦中の1916年(大正5年)、ウィルソン政権(民主党)のダニエル軍長官は、3年で戦艦10隻・巡洋戦艦6隻など155隻の大艦隊を整備する「ダニエルズ・プラン」を計画して軍法が成立。大戦終了後も計画は破棄されなかった。

 とはいえアメリカも、何のもなく戦後軍拡に邁進しているのではなかった。太平洋大西洋にまたがる土を持つアメリカは、それゆえに太平洋の大となった日本大西洋の王者イギリスが手を組んで、両側から戦争を仕掛けてくることへの恐れを抱いていた。具体的には「日英同盟」に対する恐れである。

 日英同盟に関しては、イギリス側はこれが日本火事場泥棒的な第一次世界大戦参戦の口実に使われたことから、日本側はイギリスが同盟の適用対からアメリカを外そうとしている(←日戦争となったらイギリスは助けない)ことについて、それぞれ不満を抱き、ある意味既に有名実化していたのだが、それでも現に存在する同盟はアメリカにとって不安の種であり、かつ日本が「八八艦隊」を推進し、イギリス巡洋戦艦フッド」の4隻建造を発表したことで、アメリカイギリス日本で建艦競争が繰り広げられることになるのを嫌がっていた。

 1921年(大正10年)11月。こうして、できれば軍拡を避けたい英の思惑が一致し、アメリカ大統領ハーディング(共和党)の提唱としてアメリカイギリス日本フランスイタリア中華民国オランダベルギーポルトガルの9ヶによる会議ワシントンD.Cで開催。このうち英日の五大間で軍縮会議が開かれることとなる。

 対米七割と戦艦「陸奥」の復活問題

 原敬首相は、「八八艦隊の推進者を全権大使にすれば、まとまるモノもまとまらなくなる」という周囲の反対をはねのけ、軍大臣・加藤三郎を首席代表に選んだ。

原 「内は自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やって下さい」

加藤 「八八艦隊の原則は破りたくないが、英との釣り合い上、いざという場合の対策は練っている。の防備もアメリカグアムの防備を撤去するならば、が方は小笠原、その他の防備を撤去してもよい。またアメリカがマニラの防備を撤去するならば、澎ほか一ヶ所の防備を撤去してもよいと考えている」

 ワシントンに到着した加藤は、外務省から代表を務める駐大使の幣原喜重郎に対してもこうる。

「八八艦隊なんぞ、出来るものではない。何かチャンスがあったら止めたいと思っていた」

 加藤ワシントンに到着した2日後、東京駅で原敬首相テロリストに襲われて殺(原敬暗殺事件。大正10年11月4日)。大蔵大臣・高橋是清が閣僚全員を留任させて、慌ただしく内閣を引き継いだ。

 11月12日コンチネンタルメモリアルホールで始まった軍縮会議は、アメリカ全権代表・ヒューズ務長官の爆弾発言から始まった。ヒューズの提案は、


次へ»
最終更新日: 16/06/11 09:00
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ