ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


北条氏規


ヨミ: ホウジョウウジノリ
掲示板をミル!
10カキコ!

「北条氏規」(ほうじょう・うじのり 1545 ~ 1600)とは、戦国時代の武将である。北条美濃守。

外交・軍事・内政で活躍して北条の勢拡大に貢献したが、豊臣秀吉が行った小田原の役によって北条終焉を見届けることになった。


前半生


相模の獅子こと北条氏康今川義元である瑞渓院。
徳川家康と同様、幼い頃に今川へ人質として送られた。
人質とはいえ当時の人質は厚遇された上、北条氏規は今川義元の甥であり、しかも北条今川はすでに盟友の間柄だった。
北条氏規の初めの妻は、今川重臣の朝比奈出身である。
また江戸時代の史料では、北条氏規は駿河時代に徳川家康と出会い友人になったとされる。

北条は長年に渡り房総半島の里見に脅かされてきた。
特に軍の戦は里見が優勢で、その猛威はを越えて武蔵相模沿部から内陸の鎌倉にまで及んだ。
里見への対策は、北条綱成とその子の北条氏繁、北条氏照、北条の側近たち、他多数の武将が取り組んだ。まさに総を挙げた防事業だった。
実家へ戻った北条氏規もこの事業に参加し、三浦半島の三崎に赴任して軍衆との交渉や、漁業民の保護を行った。
さらに伊豆に出向して同様の役割を担った。

1567年、北条氏政、氏規、綱成らは大軍を動員して房総半島へ侵攻。
当時、北条の西の安全保障だった三同盟(北条今川武田)が武田信玄徳川家康の蠢動で破綻間近だった。
この作戦は、西で今川が持ち堪えている間に東の脅威である里見を打倒するという重要な作戦だった。
事前に房総の士民へ周到な根回しをした北条軍は、快進撃を続けて里見を滅亡寸前まで追い詰めたのだが・・・。
北条軍は詰めの三船山合戦で房総の怪物・里見義から反撃を受けて大敗した。
勢いに乗った里見軍は、北条軍を撃破して相模へ逆侵攻。
北条今川を救援するどころではなくなり、翌1568年に今川武田軍と徳軍から挟撃を受けて没落してしまった。
西の盟友を失い、東に里見、北には上杉謙信という宿敵を抱えていた北条は、この時存亡の危機に立たされた。

かしここで北条は、今川を打倒したばかりの徳川家康と同盟して今川の再支援するという外交革命を実現。さらに上杉謙信とも手を結んだ。甲斐の虎返しである。
今川と縁が深い北条氏規はこれらの交渉に参加した。

北条氏規は北条軍を率いて駿に入り、現地で今川の活動を行う旧臣たちを支援
さらに氏政と協して武田軍の補給路を制圧し、武田軍を撤退に追い込んだ
北条は三船山敗戦の窮地から、獅子奮の働きで挽回を果たしたのだ。

今川駿を奪還して御した上で北条に従属し、東海道に北条・今川・徳の新たな三同盟が形成された。
かつて今川義元の許でを育んだ(かもしれない)北条氏規、今川氏真徳川家康を合わせて共通の敵に立ち向かう胸熱な展開が始まり・・・すぐに終わってしまった。

北条を共通の敵とする武田信玄と里見義が同盟し、両の軍勢が北条を攻撃したのである。
北条は再び危機に陥った。
頼みの徳川家康は、下の人衆が相次いで武田へ寝返ったため身動きが取れない状況だった。
上杉謙信は苦に陥った北条を恫して領地を割譲させただけで、北条を救援しなかった。

北条氏規は伊豆武田の大軍を撃退するなど活躍したが、北条の苦は続いた。

1571年、武田信玄への制裁と今川に執念を燃やした北条氏康が亡くなると、北条氏政武田との再同盟を決断。
北条氏規はに従い、武田との同盟交渉を進めた。
これにより北条今川を見捨てた上、徳とは手切れとなった。
ただし北条と徳の交流はその後も続けられた。

北条・武田の再同盟と同時期に、里見上杉も再び同盟した。
北条氏規は西の守備と外交を担いつつ、里見への対処を続けた。


天正壬午の乱~豊臣秀吉との交渉


1582年、織田武田を攻め滅ぼし、続いて本能寺の変織田信長織田信忠が横死した。
織田が衰えると、関東甲信越では大規模な抗争が勃発した。
上方から帰還した徳川家康織田から甲斐を奪取。これにより北条は東の反北条勢佐竹宇都宮など)に加えて西にも脅威を抱えることになった。

北条氏規は甥であり宗北条氏直に従い、大軍を率いて北の上野織田から奪取。さらに信濃甲斐へ侵攻して徳軍を圧迫した。
並行して北条軍は徳領の駿河にも攻め込んで戦っていたが、徳軍が反撃して伊豆に侵攻。
北条氏規は伊豆に転戦し、徳軍を撃破して駿河へ押し戻した

しかし北条氏規たちが抜けた甲信の戦況は悪化し、北条氏直徳川家康との和を決断。
北条氏規は北条氏政、氏直の側近たちと協して徳と交渉を行い、両軍の和と両の同盟を成立させた。

北条は外交問題で武田信玄上杉謙信に翻弄されて苦労したが、徳との同盟は強固なものとなった。
徳川家康羽柴秀吉豊臣秀吉)と対決した小牧長久手の戦いでは北条が援軍を送る計画があった。
戦後に北条、家康秀吉が外交戦を繰り広げた頃には、徳川家康の方から北条領の伊豆に出向いて北条氏政と会見した。
また北条氏規は徳臣たちと親しく交流した。

一方、秀吉は北条・徳をまとめて打倒しようと東の諸大名に呼びかけて大規模な包囲網を構築した。
しかし1586年から方針を大転換して、豊臣政権に家康を好待遇で迎え入れた。

北条家康に倣い、秀吉従しようとしたのだが・・・そこで問題が生じた。
当時の大名の上には、方々に贈る手土産を調達するための大な財貨が必要だったのである。
の反北条勢との抗争に加えて、北条秀吉軍の侵攻を想定した総力戦の準備も進めていたため欠だった。

北条は先に当氏直の側近たちが上して豊臣側と交渉を行い、北条氏規が宗の代理で上することで話をまとめた。
そして北条部は氏規上の実現に向けて尽した。

名前 続柄 立場 豊臣政権へ従するための行動
北条氏直 北条総帥 側近たちに命じて、北条秀吉に従うための交渉を進めさせた。
北条氏政 先代総帥 同上。後述の受け取りの際には、秀吉派遣した使者に対して失礼がないようにと細かい示を出した。
北条氏照 兄弟 関東担当 長年の抗争で佐竹宇都宮を追い詰めていたが、佐竹と協して常陸人衆の抗争を調停。
北条氏邦 兄弟 北関東担当 を切って氏規の上費用に充てたが、それでも足りないので領民に臨時課税を行った。
太田氏房 武蔵太田 氏政の子。叔父の上費用に充てるために、領民への臨時課税を行った。

北条氏規の上は、北条中と領民の血税によって実現した。


北条氏規たち使者団は進物を抱えて先ず徳領内へ入り、親交のある徳臣たちの案内で上した。
してから数日待たされた後に秀吉への拝謁を許された。
この時、秀吉公家衆、織田信雄徳川家康毛利輝元といった大大名の他、先に秀吉九州征伐で軍門に降った島津義弘も同席させた。
秀吉公家衆や諸大名を従えて北条氏規を引見した時点で、秀吉は北条従を認めたことになり、その事実は世間にも認知された。
さらに豊臣秀長秀吉)が催して、北条氏規の歓迎会を行った。

を果たした使者団は事に帰し、上的(=豊臣軍との戦争回避)が達成されたと知った北条の人々は戦の不安を忘れて大喜びした。

この後、秀吉は北条真田の土地争い(上野沼田吾妻)で北条に有利な裁定を下し、側近の富田一白津田関東派遣した。
両名は真田から北条への領地との明け渡しを見届けた。


小田原の役


しかし火種は消えていなかった。
真田は領地を割譲する羽になり不満を抱き、明け渡し時に妨領民の強制移住を行なった他、吾妻では北条方の権現山を脅かし続けた。
また下野ではすでに多くの領地を北条に奪われていた宇都宮国綱が挽回を図り、秀吉側近の石田三成が肩入れして北条を出し抜こうと策動した。
そして秀吉自身も九州定(後の一鎮圧)の後始末を済ませた頃から、北条が知らないところで動き出した。

北条氏規上の翌1589年に秀吉は、

常陸佐竹義重に東出兵を示唆。
・取次役(北条担当)の富田一白津田を突如糾弾して罷免。さらに身柄を拘束し、北条領に隣接する駿閉。豊臣政権は取次役罷免を北条に通達せず、後任を選ぶこともしなかった。この大事件は何故か北条に伝わらなかった。
・越後上杉景勝に出の準備を示。
豊臣政権の奉行衆である長束正家に、兵糧他合戦に必要な物資の調達を示。

そこへ真田から秀吉へ「北条軍が真田の名胡桃を奪取した」という訴えがあった。
秀吉速北条を糾弾し、名胡桃事件が始まった。

驚いた北条は、豊臣政権による正な調の実施を(すでに罷免されている)取次役の両名に要望。
北条氏規は情報を集めようと旧知の酒井忠次(徳重臣。京都在住)に依頼した。
しかし豊臣政権は、北条が送り出した重臣の石巻康敬を問題用で追い返したばかりか帰路で捕縛させて富田津田と同様に駿河で閉させた。
関東出兵の準備を着々と進めていた秀吉は、北条宣戦布告状を送り付けた。

北条氏規の前年の働きはこうして台しにされた。

豊臣軍襲来が確定であることを秀吉からの書状で知らされた情弱北条が慌てて迎撃の準備を始める中、北条氏規は玉砕の覚悟を固めて伊豆で籠の準備を進めた。

修の突貫工事では、小田原城北条氏政がくどいほど細かい図を出した。は心配性、胆な兄弟だったのかもしれない。

翌1590年豊臣秀吉が号20万人の大軍を率いて関東へ襲来。
伊豆北部にある山中の将兵は果敢に戦ったが、は一日で陥落。
豊臣箱根を越えて小田原城へ向かい、守備軍4千人のにも徳川家康織田信雄福島正則らが率いる4万の大軍が押し寄せた。

の守備軍は北条氏規とその臣団、伊豆衆、相模衆、制権を失い上陸した軍衆、北条氏政と氏直が派遣した側近たちの軍勢で構成された。
を囲む豊臣軍を撃退してくれる外部からの援軍は望めず敗北必至の戦いだったが、の守備軍は善戦して豊臣軍の攻撃を退け続けた。

孤立援の状況で豊臣の大軍から四ヶを守り続けた北条氏規は徳川家康の使者から説得を受けて開した。
江戸時代の史料では、徳の使者は北条氏政、氏直から氏規へ宛てた手紙を携えて北条氏規を説得した。
その半月前から、豊臣軍の強襲を撃退し続けていた小田原城でも、甥の太田氏房が開交渉を始めていた。
北条氏規は秀吉に降伏して北条存続を訴えるを選んだ。

交渉の末、小田原城も開。そして北条氏政、氏照は切腹した。
北条氏規はたちの介錯を務めて小田原北条の栄に幕を下ろした。

氏規は介錯の後に自害しようとしたが、徳に止められたという。

北条は大名としては滅亡し、北条氏直紀伊高野山へ移住した。
北条氏規の努は最後まで報われなかった。


戦後


後に秀吉北条氏直高野山から呼び寄せ、河内で領地と大名待遇を与えた。
河内秀吉の御膝元であり、の届く土地だった。
北条氏直の死後、その領地は北条氏規が継承した。

1600年、北条氏規は死去。関ヶ原の戦いが起こる前の事だった。


補足


<里見の脅威>


次へ»
最終更新日: 18/06/16 16:27
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ