ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


司馬乂


ヨミ: シバガイ
掲示板をミル!
3カキコ!

司馬乂277年~304年)とは三国志の後に起きた晋王朝の内乱である八王の乱の王の一人である。字は士度。


概要



幼少期


277年に晋王朝の初代皇帝司馬炎の6男として生まれる。には二代皇帝となる恵帝司馬楚王司馬瑋には成都司馬穎、三代皇帝の懐司馬などがいる。

当時のの方針から、もわずか数えで13歳という若さで長沙王に封王される。しかし、291年に司馬瑋南王司馬亮を討った際にこれに参加し、乱後にが罪人として裁かれると、実であるもこれに連座して常山王へと降格された上で、任地である常山へと赴任させられて中央から遠ざけられた。


表舞台へ復帰


301年に司馬倫恵帝衷から位を簒奪した事で斉王司馬冏成都司馬穎河間王司馬顒らが決起(三王起義)すると、も常山の兵をまとめてこれに参加。

まずはの本拠であるへと向かい、抵抗する臣の県を陥落させてそれを討ち取り、返す営の後詰めに駆けつけ、敵に寝返ろうとしていた者がいる事を察知して先んじて討ち取るなど活躍し、陽に凱旋した。これらの功績でもっては驃騎将軍などを与えられた上で長沙王へと復位が許され、中央の政界に返り咲いた。

しかし、中央の政界を握したが悪政を敷くと、の専横を憎むようになる。ある時、と連れ立ってである炎の墓参りへ行ったが、それでに「この下は先(炎)の築いたものだ。お前はこれを護らねばならない。と言い含めた。この発言を世人は次なる流血沙汰は近いと恐れたという。


冏誅殺


302年、と不仲となっていたの討伐を考えるようになるが、その前に近臣と謀って陽にいるを動かし、が敗死したら討伐軍を動かし、陽へ総攻撃をかける作戦を立てた。日頃よりの態度が許せなくなってきていたはこの計画にまんまと乗り、死を期待されているとは露知らず引き受けた…が、しかし行動の期待のか上を行った

中で100人の兵を調達して宮中へ殴り込み、初手で素恵帝衷の身柄を確保し、更に宮中であることなどお構いなしに門や建物に火を放ち、容赦なくを射掛けて「逆賊を討つ!邪魔するものは五族に渡って滅ぼす!」と官を恫した。3日3晩に渡るの苛な攻めに恐れおののいた官はに反撃するどころではなく、ついにはたまらず逆にを取り押さえてへと引き渡して降伏した。

こうして三強の一であったはずの斉王の率いるわずかな兵の前に本拠から応援を呼ぶ間もなく討たれたのである。まさに電光石火であった


二王との対立


討伐後、は一躍宮中の実者に躍り出る。は波を立てぬよう恵帝衷へと忠を誓い、さらにとよく協議して事を行うよう心掛けたが、思惑を外されてしまったとすぐさま権を得たいの両人にとってやはり障りであり、微妙な立場に立たされていく。はそれぞれ宮中に刺客を送り込んでを暗殺しようとしたが、いずれも露見して殺された。

3038月、ついには実行使に打って出て、両名結託して討伐の兵を挙げる。は連名しての専横を糾弾する文章を提出し、遠巻きに武をちらつかせながら恵帝衷をこれに従わせようとしたが、衷はしくは独断で大軍を動かして陽に攻め込もうとしている。朕が自ら出して逆賊を誅殺する。」と宣言して太尉・大都督・中外諸軍事という軍権のトップへと任命した。ここに至って朝廷連合の決裂は決定的になったのである。

しかし、連合の率いる兵は20万にも達する一方での動かせる兵は本拠の長沙の兵を加味しても限られており、情勢は絶望的であった。


洛陽防衛戦


かくして303年の、ついに方と臣の陸機(陸遜の孫)・石・牽秀らが二手から大軍を率いて陽をし、進撃を開始する。

は緒戦においては方を止めようと臣の皇甫商を派遣したが突破され、一方で恵帝も牽秀をくべく出していたが、その隙をついて方の軍が陽へと侵入して略奪を働き、くも陽周りに籠もって戦う以外の選択肢くす。しかし、が本領を発揮するのはここからであった

まず建門に軍の陸機が迫ると、恵帝衷と共に出してこれに当たり、に戟を括り付けて突撃させて混乱した敵を散々に破り、将軍16人を討つという大勝を挙げた。この戦いでは陸機の軍の死体で河が塞き止められるほどに山積みになったといい、あまりの大敗に陸機は「司馬乂と通じてわざと大敗した」と讒言されてにより三族滅を言い渡された。続いて軍の方も恵帝衷と共に出して痛打を与えて陽周りから叩き出した。

の軍勢の強を畏れた方は、正攻法での勝利は難しいと考えて陽の堰を破壊しての手を断つという手段に打って出て、陽は深刻な不足となる。陽内では13歳以上の男子は全て官軍に徴兵され、一石は一万銭にまで急騰するなど大混乱が起きた。…が、それでもの軍勢は士気旺盛で軍を寄せ付けなかった。


最期


年明けて304年、未だの軍勢はに勝てず、死者は6~7万にも達する甚大な被害を被っていた。一方、陽での物資枯渇は深刻な状態であったが、は連勝によって兵達の一種のカリスマ的な存在となって、将兵は皆死ぬ物狂いで戦い続けて異様な士気を保っており、方は陽の攻略理なのではないか?と思い、長安への撤退を考え始めていた。

しかし、陽にいた東海王越はそんな事は露知らず、内の窮状から限界は近いと判断し、を密かに捕縛して降伏しようと謀り、ある中に捕縛されたは全ての官を解かれて監禁され、官軍は方に降伏した。しかし、開した官軍は方軍が撤退も考え始めているほど士気が低いかった事を知って即座にこれを後悔し、を奪還すればまだ戦えるのではないかという雰囲気が漂いだす。

この不穏な空気を察したは、もはやを生かしてはおけぬと思い、方に密かに連絡して監禁先に兵を出させ、引き釣り出された方の中で生きたまま焼き殺された。享年28。死後に贈られた諡号は厲王(殺戮・暴虐などを行ったものへの悪諡)。八王の乱5番の犠牲者であった。

死後5年経った309年に息子司馬碩が長沙王を継ぐことを赦されているが、311年の陽陥落の際に死亡して系は途絶えた。


人物


明朗にして果断、才は他の人を寄せ付けず、更には下の者にも謙虚で人望が厚い人物であったと史書において高く評価されている。また、事を裁断する立場へと成り上がってもつけ上がる事はなく、恵帝衷に礼な態度を取ることはかった。それは意志薄弱で常に言われるがままであった恵帝衷がしく自分の意見を述べての味方をし、戦に出する決意まで固めた事からも伺える。

身内の情に厚い人物での炎が亡くなった時は長い時間泣き崩れたまま動けず、冤罪によって逮捕された時もまたを流している様子が伝わる。一方で怒る時もストレートであり、の専横が許せぬ時はに発言を出してしまったり、逮捕した後に恵帝衷に助命を期待しているのを察するとこれまた大怒したりしている。

八王の乱においては当初は脇役の一人に過ぎない存在であったが、ダークホース的な存在としてを討ち果たして急台頭し、更に残った王の中でも二強であったの軍勢に大打撃を与え、以降この二人の動員明らかに衰えており、乱の台風となった。

兵を率いては三の乱世を経験していないにも関わらず、戦場においてその果断即決ぶり存分に発揮して連戦連勝し、兵糧・が欠乏する官軍でも人望によってその士気を保ち続けるなど、常人離れした英雄の気質を有していた事は見て取れる。

量が発揮されたのがこのような下らない内乱ではなく乱世の時代ならば将軍として名を挙げる事もあったのかもしれないが…生まれる時代を間違えてしまったのかもしれない。


逸話


によってが失脚した後のこと、恵帝衷に上奏文を送った。

陛下は温厚で慎み深いお方であり、私に政を託して下さいました。私は細心に忠節を尽くし、陛下と共に明を知ることが出来ました。ですが諸王は陛下を惑わし、兵を率いて陛下を攻め、臣は誤りを正すこともなく保身に走り、陛下閉しました。

私は命など惜しくはありませぬが、ただ大が衰微する事を憂いています。宗室の枝葉は切り取られ、陛下は孤立していくでしょう。私が死ねばひとまず国家は安定し、益にはなるでしょうが、ただ恐れているのは、人が陛下益な事を囁く事です。

自身が討たれるであろう事は承知していたが、それでも恵帝衷に送った文は己の命の保身ではなく、恵帝衷の身の上と乱で衰微する国家の行く末を憂いたものであった。


関連商品


■az4897481120


関連項目



最終更新日: 20/01/04 11:25
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ