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司馬穎


ヨミ: シバエイ

司馬穎279年~30610月)とは三国志の後に起きた晋王朝の内乱である八王の乱の王の一人である。字は章度。


概要



幼少期


279年、晋王朝(西)の初代皇帝である武帝司馬炎の十六男として生まれる。には二代皇帝となる司馬衷(恵帝楚王司馬瑋長沙王司馬乂には三代皇帝司馬熾(懐などがいる。

289年にはくも成都王に任命され食十万を領する大身となり、その後も若くして散騎常将軍などに叙任されていく。

しかし、299年に皇太子司馬遹(恵帝衷の子)と賈謐(賈充の孫)が囲碁を打っていて口論となった際に、遹に対する賈謐の礼な物言いに昂し、「皇太子の世継ぎであるのにお前の態度は何様なのだ!」と賈謐を面罵したが、これによって強大な軍事を有していた穎は賈謐に危険視されてしまい、将軍を与えられて鄴への駐屯を命じられ、宮中から追い出された。


三王起義


転機となったのは301年に司馬倫賈南風や賈謐ら賈一族を粛清した事件であった。穎の軍事を警したは懐柔を図り、穎を昇進させた。

しかし、斉王司馬冏誅殺を掲げて決起して諸王にも協を呼び掛けた際には、穎はすぐさまこれに呼応して挙兵し、さらに情勢を見て最初はに着こうとしていた河間王司馬顒も寝返って討伐の兵を起こした。(三王起義

穎の軍勢は一度はの軍勢に敗退し、穎は一度鄴へ撤退して立て直す事を考えたが、部下が反対したので考え直して再度攻め立てると、の軍勢は連携の不備から総崩れとなってこれを打ち破ることができた。穎の軍勢は一旦は陽に入ったが、まだ配下の泓を相手に苦戦していたので、配下の兵を送ってに加勢してこれも打ち破った。

一連の戦いでの穎の軍勢の働きは非常に大きく、以後は更に晋王朝の中で重要な立場となっていく。


斉王冏と対立


戦後に穎は大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事に任じられたうえで鉞、九錫を与えられた。

これはすなわち、穎が独断専行で軍を動かしても咎められない権利と皇位を継いでも不思議のない立場にまで至った事を意味するが、一方でも大司馬と九錫を与えられており、このまま九錫を受ければ九錫を賜ったものが同時に二人存在するという異例の状態となる事になった(九錫というのは「譲を受ける下準備」とも評されるほどの権威の徴であり、本来大盤振る舞いするようなものではない)。

ここで穎の側近である志は「九錫を受けずに、君の病を口実にあえて鄴へと戻り、政の重責を全てに委ね、人心を得ることに努めましょう」と献策してきたので、穎はこれに乗ってに中央を任せて鄴へと帰還した。すると、が贅沢に溺れて悪政を敷く一方で、あえて権を譲って地元の地盤を固める事にし、謙虚な態度を崩さなかった穎の威信はむしろ高まっていく事となる。

そして、302年に恵帝衷の直系の世継ぎが途絶えると、衷の実である穎が皇位継承者の最有補へと浮上したのだが、は穎を次期皇帝に据えることを嫌い、わずか8歳の司馬覃の擁立を決定する。これにより、と穎の決裂は決定的となる。

一方で河間王顒の討伐を計画しており、穎へと極秘で協を呼び掛けてくると、この企みには志らの反対を振り切って乗り、と結託して数十万の討伐軍を結成し、陽へと崩れ込む準備を整えた。

…が、この企みの鉄砲玉として使い捨てられる予定であった長沙王がなんと数人程度でを討ち取ってしまい、討伐軍は何もせず解散する運びとなり、中央にはが残るという想定外の事態が発生する事になる。


皇太弟となる


一躍、政を取り仕切ることになったではあるが、巷で人気の高い穎の存在を蔑ろにはせず、逐一鄴に駐屯している穎へと政務の細を報告し、協して朝廷を行うよう努していたが、穎の方はといえばが中央に居座っていること自体が不満であり、次第に溝は深まっていく。

また、討伐の功績第一を掻っ攫われた河間王顒も現状に強い不満を抱いており、徐々に穎とは「の排除」という共通の利益の為に結託するようになる。まず、両名は刺客を送り込んでを暗殺しようとしたが、刺客がやけにソワソワした態度の不審者であったり尋常ではないつきしていた為に、全てに見抜かれてしまい、ことごとく失敗した

事ここに至ってと穎は「政を思うままにする奸臣」として告訴する訴状を恵帝衷に送り、討伐の兵を挙げたが、恵帝衷は逆に「朕自ら逆賊を成敗する」とと穎の討伐を宣言し、反乱軍を討つように命した。思惑が外れ、逆賊認定を受けることとなったと穎ではあったが、20万もの大軍を擁しており、直轄の兵と禁軍しか動かせない官軍に対して圧倒的に優勢であった。

…が、勝てない。緒戦こそ小競り合いには勝利したが、の勇猛果敢な揮の前にどうしても勝てない。穎は陸機(陸遜の孫)を大将に起用して決戦に送り込んだが、それでもを覆いたくなるような大敗を喫し、いせに陸機が謀反を企んでいたとして三族滅にしても勝てないものは勝てなかった。もはや押しでは勝てそうもないので、配下の方が堰を破壊して陽内部を不足にしてもなお、軍団は異様な士気を保っていて勝つことが出来なかった。

一時は撤退も考えられる情勢ではあったが、陽の兵糧が持たないと判断した東海王越が、を捕らえて先に降伏を選択した事でこの戦いに辛うじて勝利し、朝廷からを排除することに成功する。そして、戦後に穎は皇太丞相、都督中外諸軍事となり権威を欲しいままとする立場にまで成り上がる。


穎討伐軍


こうして政を弼する立場へと至った穎ではあったが、権勢を得るやいなや謙虚さを忘れて遊三昧で、更には皇帝のみが乗ることを許される輿やを鄴へと運び込ませるなど、くも自分が皇帝になったような振る舞いをしたので人心はすぐに離れていった。

穎の有り様に呆れた東海王越は穎を排除するべきであると決断し、穎が鄴に引き籠ったままあまり動こうとしない隙を突いて陽でクーデターを敢行。恵帝衷の身柄を抑えた皇太子に覃を戻して穎の討伐を宣言すると、穎に失望した諸将も続々とこれに合流し、10万人をえる大軍となる。

穎は官軍の威容に恐れをなして、一旦は逃亡を考えたのだが、配下が術を用いた占い「動かぬほうが良いです、相手は必ず負けます」と告げると一転して強気になって応戦を選択し、石に5万の軍勢を任せた。官軍は恵帝衷も直々に出しての討伐軍であり、穎が既に人心を失っていると慢心していたが、官軍の備えの甘さを見越した石は官軍を膚なきまでに叩き恵帝衷を生け捕りにするという大功を挙げた。

こうして敗北した陽を配下に任せて本拠地である東海へと敗走し、勝利した穎は鄴の町へと恵帝衷の身柄を移して元を行い、鄴へと晋王朝の政務の機を移転させた。


没落


ひとまず前の脅威を返り討ちにした穎であったが、まだ一件落着とはいかなかった。

北の州に割拠する王浚がこれまでの戦争に加わらず、軍備をひそかに増強しつつ不気味な沈黙を保っていたからである。穎は先手必勝とばかりに王浚の暗殺を狙ったが、またもや暗殺に失敗したどころか、全て計画が漏れた為に、王浚は激怒して東海王越と同盟を組んで穎討伐の兵を挙げる。

王浚は異民族である鮮卑段部や桓と同盟を組んでいたので、穎はこれに対抗するべく、南匈奴の左賢王劉淵に五部に分割されていた匈奴を兵を結集して王浚との戦いに加わるよう命して決戦に臨んだが、王浚配下の揮する胡入り混じった騎隊に致命的な大敗を喫して、穎軍団は崩壊。本拠の鄴まで落とされ、陽へと落ち延びる羽となる。

また、劉淵は王浚との戦いに加わらないばかりか、離石の町で王を自称して「」(のち前)を建して独立を宣言するという事態に至る。更に悪いことは重なるもので、部下に統治を丸投げしていた任成都までも族のによって陥落させられ、こちらも「大成」(のち成)を建して独立を宣言した。

西晋王朝はこれ以後に自や大成を討伐することはできず、これによって三時代を定した晋王朝中華統一はたった24年で終わりを告げるのである。



穎が全な落ちとなった後、朝廷握したのは河間王顒であった。は穎を皇太から位し、長安への遷都を行って、恵帝衷の身柄を長安へと移送するついでに穎も長安へと同行させられ、そこで謹慎させられた。

しかし、・王浚連合との対立を納めることが出来ず、穎の旧臣であったが河北で起して数万を集める勢となると、これを利用するために穎を復権させて鄴の町へと戻ることを許可した。しかし、の軍勢も・王浚連合軍叩き潰され、穎は范陽王司馬に捕縛された。

虓は河北で未だに人望が残っている穎を安易に手を出す事をい、しばらく閉したまま扱っていたが、30610月に虓が急死すると、虓の臣は逆に穎を生かしておいたほうが危険であると判断し、詔を偽造して穎に死を命じた。穎は観念してを解くと、守衛に首を絞めさせて果てた。享年28

八王の乱6人の犠牲者であった。


死後


八王の中で穎だけの特別な特徴として、死んだ後も出番があるという点がある。

穎の遺体は重臣の志によってに入れて埋葬されたのだが、穎の河北での人望にを付けたという男がを掘り返し、穎のを奉じて復讐の戦いを宣言したのである。桑は穎の旧臣を取り込んで勢を拡大し、何か起きるごとに穎の遺体の入ったに言上するという形式をとって盗まがいの略奪を繰り返した。

これに頭を痛めた朝廷は戦上手である苟晞に討伐を命じ、数度の戦いの末に苟晞は桑の勢を滅ぼした。この際に穎のその辺の井戸に放り込まれ、捨てられてしまったが、志が穎のを探し出し、これを引き揚げて再度埋葬したことでようやく眠りに就くことが出来た。ちなみにこの桑の部下として名を挙げた者の中に後の後皇帝石勒がいた。


人物


幼少より容姿端麗で人々にされる人望を持ち合わせていた人物であったが、高な生まれにも拘らず生涯学を修めず文盲であったという。11歳の時点で与えられた「食十万」という古代の大宰相として権を欲しいままとした呂不と同じである。

八王の乱で表舞台に上がった当初は志などの知恵者の意見をよく聞き、謙虚な振る舞いで他の皇族とは違った賢明さを取り繕って支持を得ていたが、皇太となった辺りから徐々に増長して傲慢な振る舞いが立ち始め、結局は他の八王と大して変わらぬ様で破滅する事になった。

ただ、人望が有ったというのは本当であったようで、長らく駐屯していた鄴周辺での支持基盤は強く、の挙兵に数万が従ったことや、死後にも桑が挙兵の大義名分の徴として穎のを担いだ事はその事を裏付けている。


後世への影響


正直悪い意味で大きい。

まず、自分が軍事的に危地に立たされた時に、異民族一致団結を防ぐためにわざわざ古来より5つに解体されていた南匈奴に時の丞相という立場から武装・集合自由を与えてしまったことで、陽の北に集結した劉淵率いる匈奴数万は朝廷認の治安維持部隊となってしまったので、も初動で効果的にける者が居なくなってしまい、易々と町を占拠して現地の住民からの支援すら受けることが可な立場であり、異民族による塞内での国家建設の立ち上がりをまんまとアシストするという大失態を犯している。

また、中央の争乱に掛かり切りで任成都の周りに異民族の流民がたむろし始めていた事にも関心が薄く、西将軍羅尚や将軍であった司馬顒に対応を丸投げしているうちに一族の台頭を抑えることが出来なくなり、のちのち成都がとっくに異民族に占拠されているのに成都という実に惨めな遇に置かれることにもなった。

いずれ西が異民族の台頭を抑えきれくなっていた可性は非常に高いが、穎が明確に重大な崩壊へのトリガーをいくらか引いてしまったという感は否めない。


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最終更新日: 20/02/11 22:19
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