ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


国家総力戦


ヨミ: コッカソウリョクセン
掲示板をミル!
4カキコ!

国家総力戦とは、戦争遂行のために有する全てを充てる戦闘形態。国家総動員とも。


概要


とは軍事のみならず、経済や技術政治から思想・文化までを含め、これを全て国家戦争遂行のために充てることを言う。このための手段としての動員(国家が人材・資民間私財を徴用すること)を国家総動員と呼び、体制を総力戦体制と呼ぶ。

第一次世界大戦中のドイツ軍参謀次長エーリヒルーデンドルフによる著書「国家総力戦」から。ただし、日本においては時からの戦争計画である総動員とルーデンドルフによる第一次世界大戦ドイツ戦争経済ヒントに、1921年から永田山が造として使用していた。そもそも、日本以外ではあまり使われない言葉であるため、永田とその影下にあった統制軍人による戦争導そのものをすこともある。


国家総力戦の様々


徴兵

一般に動員と言えば徴兵またはその実行(召集)をし、総動員と言えば国家による戦争計画をすことも多い。ヨーロッパでは通常はここまでをし、前述のように兵士の他にも全てを戦争に費やす国家総動員と言う認識は薄いようである。とは言え、日本に限らず当然ながら全面戦争における根幹をなす制度と言える。

第一次世界大戦前には列強と呼ばれる々では当然の制度となっており、訓練率(成年男子が軍の召集に即応出来る率)の向上と動員の量や速さにしのぎを削った。抑止ともなるはずだが、動員制度の欠陥が第一次世界大戦への引き金となった。

成年男子が徴兵を受けると各産業における働き手は消えて行き、人手不足となって悪影を与える事例が各において見られた。

また、訓練されているとはいえ、職業軍人による常備軍に太刀打ち出来ない事例も第一次世界大戦から散見される。高度に訓練を受けた士気の高い職業軍人による短期決戦で人的損を減らす思想がここから芽生え、ドイツによる電撃戦と言う形で昇されたが、非対称の戦争はより凄惨な戦争を生むきっかけともなった。

産業

産業革命による発達により、既存の兵器弾薬が尽きれば和と言う戦争形態は19世紀前半には消滅し、作っては消費し作ってはまた消費する消耗戦が当然の前提となった。各の工業がそのままとみなされるようになり、19世紀中には帝国義と呼ばれる資市場を巡る植民地争いが本格化した。建艦までに時間がかかる軍は較的、消耗戦思想からは免れていたが、太平洋戦争によりそれも過去のものとなった。

多くの場合、計画経済が取り入れられ、企業経営の自由や資の使用、生産物は統制を受ける。時における社会主義(統制経済義)とは相性がよく、実際に日本で戦時統制を導した企画院には共産主義の影下にあった者も少なからずいたとされる。誤解されているが、1938年の国家総動員法経済・産業面での統制法であった。

農業含めて戦時増産と前述の徴兵による人手不足により、多くのでは女性労働活用された。戦後男子人口の減少もあって、婦人参政権など女性人権向上に一役買ったとされる評論も多い。また、日本においては農業から工業への産業シフトを決定的に加速させた出来事となった。

科学

物質不足や輸入途絶により、代用科学の発展が促された。代用石油(石炭液化)や人造ゴムなどは現在でも盛んに研究され、一部は実用にも供されている。

また、船舶の大量生産のために溶接技術が発展し、破壊力学への理解が進んだ。これらの技術は戦後に応用され造船業界に革新を起こした(リバティ船戦時標準船)。

総力戦のみの結果とは言い難いが、第二次世界大戦における核やエレクトロニクスの発展は、戦後の礎の一つとなった。

財政

軍事費の増大により財政は否応なく拡大する。一部ではこれを歓迎する財界人もおり、現在でもアメリカの恐慌からの脱却はニューディールではなく第二次世界大戦める論調は根強く、中には陰謀論につながるものもある。ただし、これは戦争に勝ったの話であり、日本においては末期1944年度予算が戦前の三十倍規模にまで達し、債と借入の割合が78.6にもなった。続く1945年度は民所得すら上回り、1946年度予算は既に考えられないと揶揄される異常事態となった。

当然に中に出回る紙幣が増えればインフレが発生し、物不足がそれに拍をかける。インフレと個人消費を抑制するために貯蓄と債の購入が奨励され、特に債は多くのでは盛んに宣伝が行われた。ドイツではタンネンベルク戦の英雄祭り上げられたヒンデンブルクの像が駆り出され、アメリカではチャップリン債購入を呼びかける映画製作している。また、第二次世界大戦ドイツでは戦後に納入すると言う約束のもと、フォルクスワーゲン購入の積立預が流行し、これは敗戦にも関わらずのちに実行されモータリゼーションの普及に一役買った。日本における有名標「欲しがりません勝つまでは」もこのインフレ対策のことをす。

とは言え、物質の不足はいかんともしがたく、敗戦国を中心に戦後経済対策は復よりもインフレ対策を意味するほどの惨状であった。

国民

前述のインフレにより経済は悪化の一途をたどる。市場紙幣が出回るため好気と誤認した者もいたが、物質不足と物価高に収入の増加率が追い付くことはなかった。配給制度のみでは生活も出来ず、一度制度が敷かれれば闇は例外なく現れ、政府が定めた価格の何倍もの値段で取引がなされた。

また、個人消費抑制への民間の間でも厳しく、日本においては節操な消費はもちろん不満をもらすだけで非国民と言う言葉を容赦なく投げかけられた。アメリカですらガソリン統制は厳しく、自の使用自粛などを呼びかけるポスターが何枚も作られ、現在ではそれをコレクションしている人さえいる。

農業人口の減少は耕作放棄へと容易につながり、第一次世界大戦第二次世界大戦ともに多くの民が飢えに苦しんだ。第一次世界大戦中の1916年の不順による不作が引き起こした飢餓は深刻であり、食料の不足はロシア革命へとつながった。末期にはスペイン風邪とよばれるインフルエンザパンデミックが起こり、栄養不足による抵抗の低下や衛生状態の悪化もあり全世界で一億人もの人が命を落とした。

第一次世界大戦まではまだ限定的であった戦略爆撃も、第二次世界大戦において本格化。総力戦を支える民も攻撃の対とされ、日本ドイツでは都市ごと焼き払われた。飢餓と共に悲惨な記憶として現代にまでり継がれている。

総力戦と言う物的な言葉に惑わされやすいが、実際は民の精的支持が勝敗のみならず政に大きな影を与えた。革命により崩壊したロシア帝国ドイツ帝国、諸民族への抑圧が原因となり第一次世界大戦を引き起こし崩壊したオーストリアハンガリー帝国戦争導者層に共産革命への恐怖が渦巻き降伏にいたった大日本帝国、二度の大戦をはさんで疲弊し崩壊した大英帝国など、20世紀中に帝国と呼ばれる前近代国家が総力戦の結果倒れたのは偶然ではない。20世紀後半の世界はこれらの国家形態とは袂を分かった二つのイデオロギー国家アメリカソ連により担われることになる。


前史


言うまでもないが、国家は一度戦争が起きれば出来る限りの軍事につぎ込んで当たることになる。戦争国家の存亡そのものであることは孫子の言葉「兵はの大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」をひくまでもなく、古今東西変わることはない。

しかし、フランス革命までは、戦争の惨禍が関係な民間人に降りかかることはあっても、国家の存亡が自らの生命・財産・アイデンティティに影を与えると言う認識は人民間には希薄であった。そもそも、民と言う概念すら存在せず、王の所有物である「臣民」が存在しているならまだ良い方で、農民は地方である貴族や地に、商人や職工はギルドなどの際的な都市中間団体にそれぞれ帰属しており、人心はさらに際的な教会が握っていた。国家が人民の中に占める重要性は現代から見れば相当に限られていたのであり、たとえが滅んだところで私財と信仰さえ保障されていれば関心を持つ者は少なかった。

フランス革命と干渉戦争、次いでナポレオン戦争において民意識を持った国家フランスで誕生すると、これら中間団体は排除され、国王に忠を誓う傭兵的な常備軍を有する各は、徴兵制によって立つ国家主義ナショナリズム)的民軍を持つフランスの前に敗れて行く。最終的にフランスは敗れこそしたが、19世紀中盤までにはヨーロッパにおいて民と国家主義の必要性に疑問を呈する政治家は、憎しみの対になっていた当の王や貴族含めて少数となった。

一方、かねてより始まっていた産業革命により、火の大量生産も軌に乗り始める。科学技術の発展はやがて蒸気機関鉄道技術に結びつき、通信技術とこれらを最大限に利用したプロイセンが普墺戦争、普戦争に圧勝。

また等意識や人権意識、産業の高度化は識字率の向上や初等教育の普及につながり、国家主義思想の伝播と質の高い兵卒の育成(民皆兵)にもつながった。

共に動員の量と質と速さ勝利につながることを確信し、ここに国家主義民皆兵・大量生産・大量動員と言う20世紀前半における総力戦のキーワードが出そろうことになる。


各国の戦時体制


ドイツ

戦争による勝利によってもフランスへの恐怖心が消えることはなく、宰相ビスマルクは外交的手段によりフランス封じ込め策を取った(三同盟ついで独露再保障条約)。しかし、東欧バルカン半島における独露間の不信は高まり、ビスマルク引退後は独露再保障条約は更新されず、1894年の露同盟を招いてしまう。

二正面作戦を強いられる可性が高まったドイツは1905年にシュリーフェン・プランを策定。具体的にはインフラ不足で動員スピードが遅いとされたロシア方面では防戦し、西部戦線に全を注いでベルギーを侵犯したのちフランスを短期決戦で撃破。返すロシアに備えると言う作戦であった。遠大だが、動員のスピードを確保するためにロシアの宣戦はもちろん、動員でも容赦なくベルギーに飛び込む必要があるとされ、軍事を外交や政治に優先するものであった。

また、時より成年男子の訓練率は底して維持されており、成年人口の六割は動員をかけ制服を着ればすぐに兵士(開戦時の動員可数は550万)となることが出来た。鉄道時より戦時を想定したダイヤであったため、召集に応じ郷土の集結地に参集した兵士を素く前線へと送った。

総じて、良く言えば効率的、悪く言えば硬直化したドイツの動員体制だったが、実際の1914年8月の侵攻では悪い面が噴出。ロシアの動員の遅れは期待が外れ、予定より三週間ほどく東プロイセンを侵攻されてしまう。また、ベルギーではベルギー軍の予想外の抵抗に遭遇し、両者対策に合わせて四個軍団を引きはがされ、これが9月パリ前面でのマルヌでの敗戦につながった。

以降、西部戦線は四年に渡る凄惨な塹壕戦へと発展。参謀次長職についたエーリヒルーデンドルフのもと、軍部独裁と揶揄される総力戦体制が敷かれた。この期間、徴兵による農業人口の減少と前線への供出、さらに不順により食料が慢性的に不足。1915年には配給制が本格化し闇盛。抵抗を失った影で病死者が50万人増と言う悲劇を生み、のちの革命に続く機運はくも熟成が始まっていた。

総力戦体制ではさらに劣っていたロシアを1918年に下したが、もはや戦争を続ける体はなく、同年の季攻勢(カイザー戦)に敗れると西部戦線は崩壊。民の戦争政に対する不支持は決定的となり、キール軍港での兵の反乱を機に革命が発生し、ドイツ帝国は滅亡し戦争は終結した。

戦後ヴェルサイユ条約での参謀本部の解体と徴兵制の否定(10万人の常備軍のみ存続)により、ドイツは一時的に動員体制を喪失したが、実際は参謀本部は秘密に存置され、10万人の兵卒に将校や下士官教育を施すことで100万人規模の軍隊を即座に編成できるように細工を施していた。

政権握したヒトラーはこの遺産を継ぎ1933年再軍備を宣言。しかし、塹壕戦経験者であったヒトラー自身は第一次世界大戦の徴兵による戦争に見切りをつけ、機械化による近代化を進めた。正面装備を更新するためや道路建設(アウトバーン)のための費用を補うために割引手形(メフォ手形)が発行され、これがドイツにおける第二次世界大戦での戦時体制へとつながって行く。

第二次世界大戦序盤はこの専門的な部隊による電撃戦が行われ、練度の低い兵士たちが活躍する余地はなかった。第一次世界大戦規模の動員が本格化するのは、防御に回った1944年から始まった擲弾兵の編成からである。

経済については対勝利後はフランス占領地およびヴィシー政府からの物資の買い上げ(大幅なフラン安に設定されたため、事実上の略奪)、独ソ戦開始後はソ連領からの苛な略奪により維持したが、戦線が後退するにつれてかねてからの物資不足が本格化。民生活は極度に貧窮化した。

また、強制収容所を通じたユダヤ人や捕虜、外国人徴用者による強制労働が行われ、こちらも収奪行為と合わせてのちのちまで禍根を残すことになる。


フランス


戦争の敗戦によって成立した第三共和政下でも対独を意識した防がめられることはなかった。引き続きドイツと同様に高い訓練率を維持したが、人口において単独でドイツ勝利する(人口4000万、開戦時動員数は450万)はないため、露同盟により正面戦を分散させることで補った。

第一次世界大戦ではドイツ軍の侵攻作戦、シュリーフェン・プランの矢面に立ち、境線での不用意な攻勢もあいまって序盤で十万人もの損を出し現役兵は消散してしまう。パリの命運をかけたマルヌ会戦では民間トラックはおろか軽便鉄道からパリタクシーまでをも動員し兵士たちを運んだ。最終的に防衛に成功するも、土の五分の一をドイツに占領された。


次へ»
最終更新日: 19/10/28 00:23
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ