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土蜘蛛


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土蜘蛛
妖怪・土蜘蛛
作画77さん)

土蜘蛛とは、

  1. 大和王権に恭順しなかった古代族の総称・蔑称
  2. 日本妖怪
  3. の演の一。

である。

古代豪族としての土蜘蛛

土蜘蛛に関する記述は、神話の時代から大和朝廷の拡大期までに見ることができる。その多くは大和朝廷の勢界付近に住む族で、大和朝廷の支配を拒み、天皇天皇の差し向けた軍によって討伐された。水田耕作より狩猟にしたとも伝えられる。岩窟に住み背が低く手足が長いという記述も多く見られるが、これらは蔑視からくる多少の誇を含んでいる可性がある。

土蜘蛛の名が見られる最も古い文献は『古事記』で、神武天皇東征のおり、坂(現・奈良県桜井阪)にて倉に住む尾の生えた種族「土」を討ったとの記述がある。

古事記』と同時期に成立したとされる『日本書紀』には土蜘蛛に関する記述が散見される。「神武紀」には新城戸畔(にいきとべ)、居勢祝(こせのはふり)、祝(いのはふり)という三者が登場し、それぞれ大和の各所を本拠地としていたが、神武天皇に従わなかったために退治された。同じく大和高尾という場所にも土蜘蛛がいたとされ、次のように書かれている。

其の人となり、身短くして手足長し。侏儒と相類へり。皇軍の網を結ひて掩襲ひ殺す。因りて号をめ其の葛城(かづらき)とふ。
その姿は背が低く手足が長い。侏儒(=ひきひと、背が普通より低い人達)によく似ている。天皇の軍は彼らを蔓の網で襲って殺した。これにちなんで、この村の名を葛城(かづらき)とめた。

このほか、「行紀」では景行天皇九州巡幸の際に討った九州各地の土蜘蛛の記述が見られる。彼らはが強く大勢の部下を持ち、やはり天皇への貢を拒んだため退治された。

各地の土記にも土蜘蛛について沢山の記述が見られ、特に『肥前土記』『豊後土記』には様々な土蜘蛛が登場する。その多くは天皇派遣した軍隊によって滅ぼされているが、中には佐嘉(現・佐賀県佐賀市)の大山田女(おおやまだめ)・狭山田女(さやまだめ)のように、その土地の荒ぶるを鎮める方法を進言し、賛辞を送られているしい例もある。『肥前土記』にはこの二人の賢さを称えて「賢し女(さかしめ)をもっての名にする」ともあり、これが転じて「佐嘉(さかのこおり)」となり、「佐賀」という地名の元となったとされる。

また彼女らをはじめ、賀周の里(現・佐賀県唐津市見借)の海松橿媛(みるかしひめ)、嬢子山(現・佐賀県多久)の八十女人(やそおみな)、浮の郷の浮媛(うきあなあわひめ)、速来の村(現・長崎県佐世保市岐)の速来(はやきつひめ)など、『肥前土記』には女性を首長とする土蜘蛛が多く見られるのも特徴である。

常陸土記』には、「樔(くず)」あるいは土地の言葉で「土蜘蛛」「八握脛(やつかはぎ、脚の長い者の意)」と呼ばれる種族のことが書かれている。かれらは「山の佐伯」「野の佐伯」(佐伯とは命を遮る者の意)といい、人里から離れた場所に岩窟を掘ってそこに住み、人が来れば岩窟に入って隠れるという、のような性質とのような情をもった集団だったという。彼らを倒すために出征してきた坂命は茨で砦をつくってこれを攻略し、これによりこの地を「茨城」と呼ぶようになったとされている。

このほか、陸奥・越後摂津・肥後日向の各土記逸文、および『丹後土記残欠』にも土蜘蛛の名が登場し、大和の王権に逆らう辺民の総称・蔑称として使われていたことが伺える。


妖怪としての土蜘蛛


時代が下ると、「土蜘蛛」は巨大な蜘蛛妖怪の名として登場するようになる。

江戸時代中期の百科事典『和三才図会』巻五十二の「螲(つちぐも)」の項には、蜘蛛に似て土中に巣を作り、網をって下からなどを捕らえるとある。

妖怪としての土蜘蛛においてよく知られるのは源頼光による土蜘蛛退治譚だが、これには大きく二つのパターンが存在する。この話が見える最古の文献が『屋代本物語』の「巻」で、そこでは次のような話になっている。

あるとき頼は熱病に冒され、一ヶ以上床に伏せっていた。その頼の元に突然身の丈7尺もある法師が現れ、頼を縄でふんじばろうとした。頼がすかさず元にあった名・膝丸で切りつけると、法師は逃げ去っていった。

翌日、頼四天王を率いて法師の残した血を辿っていくと、北野満宮の裏手にある大きな塚に行きあたった。そこを掘り返してみると全長4尺の「山蜘蛛」が現れたので頼らはこれを退治し、に刺して河原した。土蜘蛛が原因であったらしい頼の熱病も回復し、このときから膝丸は「蜘蛛切」とよばれるようになった。

もうひとつのパターンは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて成立したとされる絵巻物『土蜘蛛』(原本・東京国立博物館蔵)に見られる話である。この絵巻では、の顔に虎の胴体、蜘蛛の脚を持った巨大な化物が描かれている。

源頼光と頼四天王のひとり渡辺綱が都の北山にある台野に出かけたとき、飛ぶ髑髏を見つけた。怪しく思ってそれを追いかけていくと、神楽現在吉田山/京都市区)にある屋にたどり着いた。

綱を外に待たせて頼に入ると、荒れ果てたの中には290歳にもなるという老婆がいた。老婆は、ここにはの塚があって人跡もすっかり絶えてしまった、最どうしようもないので殺してくれと頼に頼むが、頼はそれを視しての探索を続ける。

日が暮れるにつれてしくなり、あたりを異形の者がうろつきはじめる。そこへ現れたのは身長3尺、うち2尺が頭という異形の尼。頼が睨みつけるとにこにこと笑っていたが、やがてのごとく消え去った。

やがて明け方になると、今度は美しい女が現れた。訪問を喜んで出てきただろうかと頼が思っていると、女は頼めがけてのようなを10個ほど投げつけ、頼はたちまちが見えなくなった。すぐに太刀りつけたところ女はいなくなり、代わりに綱が駆けつけてきた。太刀敷きを貫いて折れており、い血がついていた。

化物の残したい血を追って、頼が綱とともに化物の行方を探していると、老婆の住まいに戻ってきた。しかし老婆の姿はなく、代わりにい血が流れているだけだった。「老婆は既に化物に喰われてしまったのだろう」と思いつつ更に探していくと、西山洞窟の中に、い血が細い谷川のごとく流れていた。頼と綱は、用心のために、で作った人形帽子と衣を着せて、前に立てて進むことにした。

洞窟には寂れた一軒の建物があり、錦をかぶったような巨大な化物がいた。化物が「体が重くて苦しい」と叫ぶと、途端に折れた太刀の先が飛んできて人形に刺さった。化物が何も言わなくなったので、頼と綱はを合わせて化物を引きずり出す。化物もはじめは抵抗の素振りを見せたが、やがて観念して仰向けに倒れたので、頼を抜き首を刎ねた。

化物の正体は巨大な山蜘蛛で、女に化けていたときにられたの傷から、1990もの生首が転がり出た。更にを切り裂いてみると、7~8歳ほどの人間子供くらいの大きさの小蜘蛛が数えきれぬほど沸いて出た。頼と綱は首をに埋め、化物の棲み処に火をつけて焼き払った。この功はに入り、頼と綱は恩賞を受けた。

これら源頼光による退治譚は古くから広く知られるところであったらしく、江戸時代浮世絵師・鳥山の『今昔画図続』では「源頼光土蜘蛛を退治したまひし事 児女のしる処也」と紹介されている。


能の演目「土蜘蛛」


物語』にある源頼光の土蜘蛛退治譚に出典をとった妖怪退治物。五流現行曲で、流・宝生流では「土蜘」。歌舞伎浄瑠璃にもバリエーションを生んだ。

基本的なストーリーは『屋代本物語』のものと同じだが、ひとつ大きく違う点が、土蜘蛛の住み処が奈良葛城山になっていることである。土蜘蛛は倒しにきた武者に「お前は知らぬだろうが、こそは古より葛城山で年を経た土蜘蛛の精魂である。の治世に災いをもたらそうと頼に近づいたが、逆に命を絶とうというか」とる。これは古代族としての土蜘蛛、特に『日本書紀』に見られる大和高尾の土蜘蛛の存在を下敷きにしていると考えられる。


創作作品における土蜘蛛



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最終更新日: 19/07/30 22:56
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