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坂の上の雲


ヨミ: サカノウエノクモ
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第三部では、騎兵第一団長として陸軍第二軍に従属。ロシア軍との陽会戦に備えた。その後、部下である斥からの情報で、総司令官クロパトキン率いるロシア陸軍の満州軍が大軍を集結させていると聞く。それを聞いた第二軍部は好古に割り振れるだけの兵員と武器を与えた。これによって騎兵第一団の騎兵に、更に多くの歩兵砲兵工兵が付け加えられ、秋山率いる部隊は混成部隊である「秋山支隊」となった。そして秋山支隊には、第二軍右翼方面を守るように命じられる。弾薬の少ない中、西部戦線が崩壊寸前になりかけたが、東部戦線の死守などもあり、クロパトキンは全軍に陽から撤退を命じた。この後、斥により秋山支隊(戦線左翼)めがけて大軍勢が襲撃することを理解し総部に援軍を要請するも、「季にロシア軍が大作戦を起こすわけがない」という理由で黙殺される。そして敵の大軍勢の襲撃により苦戦し、左翼部は大勢の死傷者を出しつつ、最終的には辛くも死守。その際、自分の進言を視し、憶測だけで黙殺した総部に対して憤りを感じた。その後の奉会戦において、秋山支隊は総部の命により、苦戦中の第三軍支援に回る。ロシア軍の退却後、奉に入。いずれ起こり得る連合艦隊バルチック艦隊の戦闘に関しては、「軍はたとえ、泳いででもロシア軍艦に辿り着くじゃろう。俺らはただ、それだけを期待しちょればよい」と評した。

その後、満州息子・信好の電報によりの病死を知る。その後は地元松山の私立北与中学校(現・愛媛県松山高校)の校長になる。

1930年11月4日心筋梗塞により病没。享年71。最期には、苦しい息の中「引け!奉へ」など奉会戦のうわ言を言っていたが、妻が手を握り「あなた、から落ちてはいけませんよ」と言うと、穏やかな表情で永眠した。主人公三人の中で一番長命であった好古の死をもって、坂の上の雲は完結した。

子規まさおか しき 1867-1902) 演:香川照之

主人公の一人。之の幼馴染。本名は常規まさおかつねのり)。幼名は(のぼる)であり、知り合いからは「ノボさん」と呼ばれる。六歳で父親を亡くし、正となる。少年期は大変、臆病な性格であった。中学生時代は愛媛自由民権運動の本場・高知に近いということもあり、自由民権運動運動を度々行っていた。後に叔父の外交官・加藤恒忠の支援の下、之よりもくに上する。之ともども、共立学校を経て、東大予備門に入学する。その後、俳句短歌といった、日本文学を極め、かつ新たなを開拓する夢を得る。しかしその矢先、吐血。不治の病とも言われた結核にかかった。号の子規とは、血を吐く姿が、口の中がい、ホトトギス(子規)に似ていることに由来し、自らをつけた。之との別離を経て、帝国大学入学するも、退学。新聞「日本」の記者となり、日清戦争の従軍記者として取材したりするものの、病気は少しずつ悪化。結核から来るカリウスという外傷も併発し、しい背中部の苦痛の中、病床で創作活動を続けていた。

第二部において病状はさらに悪化。しい痛みで一歩も動けぬ寝たきりの身となるが、新聞「日本」から給与をもらっている以上、創作活動は続けている。だがそのしい痛みにより、たびたび泣き叫び、のた打ち回るという凄まじい状態となった。子規は、死を恐れてないが、苦痛は恐く、耐え難かった、という。しかし必死で生きようとする姿勢や、自らにをつくことのなく感情を表す俳諧などの姿勢は一生涯変わらなかった。生前、最後に見舞いに来た之に「このままでは死に切れんのじゃ。ええ句が浮かんで来よるんじゃ。」と、自らの心情をすべて伝えた。しかし病状はなおも悪化した。1902年9月19日深夜、苦しみ叫ぶことなく穏やかにこの世を去った。発病してから約7年、自らの思いを伝えようと懸命に生きた、35歳の生涯であった。その葬儀は数人ばかりでやるように言い残した、子規の意に反し約300名が詰め寄せた。日本俳句を開拓した、一人の若き文筆の死は日本中から惜しまれた。

死去する前に最後に書き残した辞世の句は、「糸瓜咲て 痰のつまりし かな」、「痰一斗 糸瓜も 間にあはず」。

第三部では、最終回回想ナレーションで登場。之が墓参りするシーンでは墓標に自らが遺した言葉が紹介された。

ちなみに病床の子規を演じた香川照之は役作りのために17kgの減量をした。


秋山家・正岡家


秋山久敬(あきやま ひさたか 1822-1890) 演:伊東四朗

秋山兄弟。通称は五郎。晩年は八十九(やそく)と号し、これを名乗った。もともとは十石取りの徒士(下級武士)の柄であったが、松山戊辰戦争敗北し、土佐から十五万両という大な賠償を支払わなければならなくなったことで、士の尚のこと経済状況は悪化した。戊辰戦争敗北後に生まれた五男・五郎之)の養育費に困り、寺に養子に出そうとしたところを、三男・信三郎(好古)に説得され思いとどまる。(その後、次男・寛二郎と四男・善四郎を他に養子に出した。長男鹿太郎(則久)はに障があり隠居。三の好古が督を継ぎ、面倒を見た。)置県後は、愛媛県庁学事課に務めた。養育に対しては食うだけは食わせるが、あとは自分でやれという自由放任かつ独特の考え方を持っている。1890年、之が練習している間に病死。習志野にある好古のには遺影が飾られていた。第三部では回想シーンに登場。

秋山(あきやま さだ 1827-1905) 演:竹下

秋山兄弟。優しい性格であるが、五郎之)が御法度の花火を行い警察沙汰になったときは、短を突き出し自害を迫るなど厳しい面もある。夫・久敬死後は上し、好古夫婦と暮らす。その後、日露戦争出征前には病で寝たきりになる。第十二話においては、好古一家と義の季子と住んでいる。最終回では病床の中、日本海戦で勝利之が生きていることを知ると大喜びし、「が帰ってくるまでは死ねない。それが親の務め」と言っていたが、之の帰還前に病死した。遺体に対面した之は、生きているうちに帰れなかったことを謝り、そして「あしは世の中のお役に立てたんじゃろうか?」と亡きに投げかけた。

秋山多美(あきやま たみ 1871-1950) 演:たか子

旧幕臣の旗本・佐久間。「お(ひい)さま」と呼ばれている。自宅の離れに住んでいる秋山兄弟を当初は、「陪臣(大名来の蔑称)」、「けもの」と呼び蔑んでいた。しかし後に、フランスからの留学帰りの好古と結婚。夫の日清戦争出征中に長女・輿志子(よしこ)を生んだ。その後も次女・健子と、長男・信好(のぶよし)を授かる。夫が清国に滞在している期間、義理のである之の面倒を見ており、之からはお節介がられている。第三部第十二話においては之のである東京青山に義義妹とともに住む。之帰宅の際には、之に「勝つわよね?」と尋ね、「勝ちます。」と答えを受けた。

秋山季子(あきやま すえこ 1882-1968) 演:石原さとみ

宮内庁御用掛である稲生履の三女族女学校の出身。この当時の最先端であった自転車を乗りこなすなどお転婆な性格のようだが、ドジョウを捌くのが苦手といったか弱い一面も見せる。之とは舞踏会で出会い、後に入院先などでも再開し、見合い結婚した。之の出征中は、夫のいないを守っている。第三部では出征中の夫のを離れ、一時的に、義・好古一家と暮らした。その後、義・義とともに東京青山に住む。

まさおか りつ 1870-1941) 演:菅野美穂

子規の之たちからは「リーさん」と呼ばれている。幼少期は、気弱な之たちと助けていた。お転婆な性格。後に軍人のぐも離縁、中学校教師と再婚をするも、の看病をするために実家に戻り、離縁された。その後はと上し、子規の子らとともに看病をする。病床から侭なことをいい、時に看病などの手際の悪い自分のことを叱するや、そのを嫌う自分自身を嫌悪している(之にった「うちはいかんなんじゃ。」の台詞など)部分があった。子規自身も楽になりたかったが、自分自身も看病する生活から解き放たれ楽になりたいという心情を抱いていた。それでも毎日食欲を劣らせることなく懸命に生きようとするの姿を見、そしての死をの当たりにし、涙に咽んだ。その後は、の死を悲しみながらも自らの重みが取れたことを実感し、子規から生前助言を受けた、女子であろうと学問を身に着けるということを成すために女学校に入った。第三部においても登場し、日露戦争の戦死者の遺を抱えた葬列を見て、自分の思う気持ちを句にした。また夏目漱石が「には見えない大和魂」を揶揄した(夏目本人にその気はく、小説家も軍人に守られねばならないことへの、自らの感をあらわした)ことを、之を馬鹿にしているようだと非難した。

原作ドラマ双方とも描写はないが、は子規の死後20歳離れた従弟を養子にして正を存続させた。司馬遼太郎はこの養子=正三郎主人公とした小説『ひとびとの音』を書いている。


日本海軍・日本陸軍


東郷平八郎(とうごう へいはちろう 1848-1934) 演:渡哲也

日清戦争前後は、巡洋艦「浪速」の艦長として登場。国際法についての見識が深い。1894年7月25日朝鮮西豊島マストに英国旗を掲げたイギリス商船(高陞号)を見つけ、清国兵を満載していることを確認した。この商船に対し随行命を出すも、高陞号は従わず、「浪速」の乗船員が説得するも拒否され、最終的に英国人の乗船員にのみ「浪速」の乗船を許可するが清国兵は直後に英国船長を人質に取り、英国船長が出航地への帰還許可めた。しかし東郷はこれを拒否し、清国兵に対して船の放棄を命ずる。しかし、これも拒否され、浪速は旗(戦闘の意)を掲げ、これにより両船は戦闘準備を開始。浪速が先手を打って撃し、高陞号を撃沈させた(非戦闘員である英国人乗組員と50名ばかりの清国兵を助けるも、1100名の清国兵は溺死した)。この行動に対しては、最終的に国際法上合法(宣戦布告による戦闘行為)であることが認められた。後に之に対して、亡くなった部下のためにも指揮官のあり方を深く考えるように説いた。

第二部においては舞鶴鎮守府長官という中央から外れた地方職についていたが、軍大臣・山本兵衛により呼び戻され、連合艦隊長官となるに至る。そして開戦直後、佐世保より連合艦隊を率いて満州へ出征する。

第三部においては、陸軍将校と会談する。その後、大将に昇格。1904年7月日本陸軍の動きに察知したロシア艦隊が順港から湾外に出ようとすると、これを追撃し攻撃をする。結果としてはロシア艦隊は大したダメージのないまま順港に戻り、再び順から支援を受けて戦艦の損傷も復活する形となり失敗する。之が第二回順総攻撃を失敗したことで、陸軍との会談を望んでいるときに、「一番苦しんでいるのは木さん」と諭した。奉会戦終結後に、対馬峡周辺にバルチック艦隊が現れないことに業を煮やした之から、艦隊の移動を提言されるも、東郷と参謀長の島村対馬に来ると思い、万が一津軽峡を通過した場合はできる限り急行するということで対馬峡周囲に連合艦隊の配置を継続させた。そしてその翌日、東シナ北上したバルチック艦隊は対馬に出現して、戦の戦場に赴く。その後、各戦艦に向けて「皇 この一戦にあり。 各員一層奮励努せよ」という意味をあい持たせたZ旗を揚げさせる。そして部下が止めるのも聞かず、之らとともに甲の上で戦闘の様子を確認することとなった。

広瀬武夫(ひろせ たけお 1868-1904) 演:藤本

之にとって軍兵学校の一個上の先輩にあたる。大尉、のち少佐ロシアについての脅威を感じた後は、独学でロシア語ロシア文化を学び、後に軍本部の命ロシアに6年間、留学することとなった。その後、イギリスに行く。

第二部第六話は彼の恋愛・「第二の故郷」とまで言ったロシアとの対決も辞さない覚悟などが鮮明と現れている。ロシア駐留の外国人武官の中では一番の人気ものであった。日露開戦後福井丸の長となる。船にはロシア語で堂々と、自分が広瀬武夫であること、正々堂々戦うことなどを書いた。生還の見込みが少ないといわれていた、間の順港閉塞作戦に参加する。第一回の閉塞作戦ではり傷を負うなど失敗し、第二回の閉塞作戦ではしい撃に遭いながらも自沈させようとした。退艦の際に部下の杉野孫七上等兵曹が見つからず、撃を受ける船内を自ら駆け回り探したものの、杉野は見つからず、やむなく救難ボートに避難し自沈させた。そして救難ボートでの帰還中、撃を受けて戦死した。最期まで後輩之らを優しく導し、あるいは信頼し、そして第二の故郷とまで呼んだロシアと正々堂々と戦った生涯であった。死後、その遺体はロシア軍が発見し、ロシア正教により、ボリスはじめロシア軍将校により丁重に葬られた。

木希典(のぎ まれすけ 1849-1912) 演:柄本明

日露戦争における日本陸軍・第三軍官。原作小説においては、後半は彼の登場シーンおよび彼の経歴と戦略の説明が、之たちを上回るため、(原作の)第四の主人公といって良い。ドラマ版でも第十回と第十一回は彼が実質の役である。もともとは維新の志士(通称は三)でもあり、第二次長州征伐にも従軍した。陸軍少佐になる。28歳のときに、連隊長心得(=連隊長代理)となり西南戦争に出征。(以上、原作の「坂の上の雲」「殉死」などより。ドラマ版は説明のみ。)

ドラマ版には第一部(第四話)で初出演。日清戦争時(この時の階級は少将終戦間近に中将に昇格)には、第二軍官・大山大将揮下の第一団長として出征した。彼自身は性急過ぎる性格であり、台攻撃を上である師団長許可なしに攻撃して陥落させている。作戦会議において、大山が配置について自案を述べている最中に、突如起立し、大山に「が第一団を、右翼攻撃にお命じ頂きたい。」というと、「気概は良し。」と褒められるも「まあ、おいの作戦をちっとは聞いてくれても良かじゃろう」と諌められる。その後、「半年はかかる」と言われていた順要塞を攻撃し、一日で占領した。この時は戦死者に哀悼の意を示し、自ら作ったげた。

日清戦争終結後の第二部においては、軍務からも政務からも離れ、那須野(現・栃木県那須塩原市)に隠棲し農業をしていた。その後、日露関係が悪化し、内務大臣・児玉源太郎那須野まで駆けつけて日露情勢を説明し、軍務に戻るように説得。その後、参謀次長の田村怡与造が急死すると、児玉が内務大臣を辞して格下の参謀次長になるに至った。そして木も陸軍復帰を決意する。

戦後は、宮中へ参内する際に児玉に「日本はこれからどうなる?」と聞かれ「どうにもならんよ。」と落ち着いた表情で答えるところで出番を終えた。

<第三部(順攻囲戦)以降における第三軍の様子>

陸軍大将として日露戦争に出征。第一軍・第二軍の兵を分けて創設された順占領のための「第三軍」の官に任じられる。そして1904年8月19日順要塞に対して第一回の総攻撃をかけた。しかし要塞はベトンで固められた上、幾重にもわたる有刺線だらけの条網・電線・地雷原がり巡らされていた。また要塞で守られたロシア兵の途切れることのない機関銃の掃射や、爆弾手榴弾投下などの威も陸軍首部の予想をはるかに上回るほどすさまじく、一時間で一個連隊が壊滅的になったことを聞き、木と参謀たちは然となった。

結果としては、6日間で1万6000人の死傷者を出したが、要塞自体はほとんど手付かずあった。このことで軍の連絡将校である岩村団次郎は、軍将校や軍の作戦、自分をさんざん嘲笑しながら、軍の要を実現できなかった木ら陸軍将校に対して激怒した。


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最終更新日: 16/02/23 18:11
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