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坂本龍馬


ヨミ: サカモトリョウマ
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215カキコ!

何?坂本龍馬のことが聞きたい?

ずつと昔ブン屋に話したやうな事の繰り返しになるかも知れんが、よいかノー

概要

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坂本龍馬は保六年(1835年)十一月十五日に生まれた。諱を直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)と変えておる。

の生は郷士坂本。才谷屋と言ふ商から分して、わざわざ薄給の郷士身分になつた変はり者の一族だ。

長男の権とは年が二十一も離れており、このとの間に千鶴、栄、乙女といふ三人の姉妹がおつた。

十二歳の頃母親の幸が亡くなり、その後はの後妻である与に育てられた。

幼少期は何やら冴えない感じで、尿の癖のある洟垂れ小僧だつたらしく、この継三女乙女には特に厳しく躾けられた。

乙女は身の丈5尺8寸(176cm)、体重30貫(113kg)といふ堂々たる体格で、「坂本のお仁王様」と呼ばれる女傑だつた。

が亡くなる前後に、一度下町の塾に入門したが、上士の子と喧したのが原因でやめてしまつたため、それ以後は乙女から学問や剣術を習つた。

嘉永元年(1848年)、十四歳の頃に近所の小栗日根野場に通い始めてからは、人が変はつたかの如く稽古に励み、周りの者たちの見るも変はつていつた。

場へ来ては心機一変、おねしょうも、泣きも一ぺんに飛んでしもうた。
はまっ先に、夕べは最後まで、飯を食わんでも剣道の稽古一筋。愉快でたまらん、おもしろうてたまらん。
そんな気持ちでなんぼでもやる。
坂本もうよかろう』というと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる」
(詰延寿『坂本龍馬の師匠』)

嘉永六年(1853年)、十九歳の時に日根野場にて「小栗流和兵法事録」を授けられると、更なる剣術修行めて江戸へ行く事になつた。

さて、嘉永六年といふと何の年か分かるかね?まあその辺は追々、といつてもすぐ話す事になるだらうヨ。

注 誕生日11月15日と断定しているが確定ではないことに注意。

黒船来航

日根野場で録を得た後、は土佐庁から十五ヶ修行期間を認められて、剣術修行の為江戸に赴いた。着いたのは四月もしくは五月と言はれておる。

江戸では北流の千葉場に通つていたが、六月亜米利加の艦隊が江戸湾にやつて来て世情が騒々しくなつてきた。この時は土佐の警備隊として出動していて、船が去つた後、九月十三日付で実家手紙を書いている。

一筆啓上仕り
気次第に相増し処、々御機嫌(よく)御座成らせらる可く、出度千万存じ奉り
次に私儀異に相暮申し 御休心成下らる可く
御許にアメリカ沙汰申し上げに付、御覧成らせらる可く
先ずは急用御座候に付、書乱書御推覧成らせらる可く
船御手宛の儀は先ず免ぜられが、来は又人数に加わり申す可く在じ奉り

  恐惶謹言
  
 九月廿三日

 尊様御
御状下せられ、有難き次第に在じ奉り
金子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候
船処々に来りへば、軍も近き内と在じ奉り
其節は異の首を打取り、帰仕る可く かしく
(『嘉永六年九月十三坂本直足宛 坂本龍馬書状』)

「異人の首を打ち取る」など随分勇ましい事を書いておるノー。後年のからは一寸想像が付かないが、あのご時世ぢやこのぐらいの気概はあつて然るべきだらうヨ。実際にやるかだうかは別だがノー

この後十二月に西洋砲術を学ぶ為、佐久間山の塾に入門しておる。この佐久間と言ふのは奇妙な顔つきをしたちよこちよこした男でノー。学識に任せて相手を脅しつけるやうなところがあるから、もこの男に習ひ事をするのは苦労したんぢやないかネ。

高知にて

嘉永七年(1854年)六月は一旦修行を終えて土佐に戻つた。戻るとすぐに高知下有数の知識人と評判だつた河田と言ふ変はり者と面会し、時勢をり合つている。好奇心が強かつたのだらう。

「時態の事にて君の意見必ずあるべし、聞きたし」

が問ふと河田

「如何ともして、一艘の外船を買いめ、同志の者を募り之に附乗せしめ、東西往来の客官私の荷物等を運搬し、以って通便を要するを商用として船中の入費を賄い、上に練習すれば、航の一端も心得べき小口も立べきや」

と答えた。この答えには手を打つて喜び、は船の購入を、河田は有志となる人材の確保をお互いに約束した。実際河田子である近藤長次郎長岡謙吉新宮馬之助など、後に援隊の同志となる人材がの下に集まつていく事になる。

しかし、この時分から既に蒸気船を利用した貿易をす志を持つていたなら、やはり夫ではあるマイよ。

再び江戸へ

安政三年(1856年)七月、二十二歳になつたは再び江戸に向かい、以前通つていた千葉場で再度剣術修行に励んでいる。安政五年(1858年)の正月には『北流長兵法録』を授かつた。もなかなかのものだつたやうだ。

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千葉周作、定吉、重太郎に混じつて女性の名前のあるのが分かるだらう。これはたつての願いといふ事で師である定吉が書き加えたものだ。定吉も満更でもなかつたやうで、名前の載つている佐那の言によると、自分との縁組のため実家手紙を書いたりしていたさうだ。

…何?が授かつたのはではなく薙刀録ではないか?

確かにその通り。だが、前述の佐那の言として「さんを塾頭に任じ、北録を授けました」といふのもあるからノー。単に現存していないだけ、といふことも有り得る。マアそんな詮索は福沢みたいな学者に任せておけばイイサ。

安政五年(1858年)九月に帰郷してからしばらくの間はこれといつて立つ活動はない。土佐に来た水戸過激派に呼び出されて応対したことくらいしか記録に残つていないやうだ。

の活動についての記録が再び確認できるのは文久元年(1861年)、土佐勤王党の結成まで待つ必要がある。

注 平成27年(2015年)、薙刀以外に『北流兵法皆伝』を取得していたことを示す文書が見つかったと報道された。リンク[外部]参照。

土佐勤王党

この一年前、即ち安政七年(1860年)の三月三日、江戸で大事変が起きた。いはゆる桜田門外の変だ。井掃部守が登中に水戸薩摩の浪士に暗殺され内騒然、各地の血気盛んな浪士達も触発されて鬨のを上げ始めた。

おれはこの頃亜米利加に渡つていたんだが、帰して賀に上陸した途端いきなり幕吏が現れて「水戸の者はいるか」などと聞くから「亜米利加には水戸人は一人も居ないから直ぐ帰れ」と冷やかしてやつたよ。しかし、桜田の変について聞いた時分には幕府はとても駄だと思つたサ。

武市半平太

さてだが、この年土佐ではその後の政局に関はる出来事が起こつている。土佐勤王党の発足だ。首領は武市瑞山、通称武市半平太といふ男だ。この者は江戸場で剣術師範を勤めたほどの達人で、土佐でも剣術場を宰しており、土佐郷士達から多いに人望を集めていた。またの友人でもありお互いに「武市アゴ」「のアザ」と呼び合うくらい仲がよかつたといふことだ。

その武市が郷士達を糾合して文久元年(1861年)の八月に結成したのが土佐勤王党だ。総勢190名以上が血判し、土佐内の一大勢を形成した。はこの血盟書の九番に署名している。

勤王党に加盟した十月十一日に讃岐の丸剣術修行に出向いている。土佐郷士・樋口慎吉の日記『遣倦録』にある「坂飛騰」といふやつだ。その後、長州久坂玄瑞と面会するため萩に向かつた。讃岐に赴いたのは表向きの理由は剣術修行だつたが、的は各地の情勢視察と武市の書状を久坂に届けることだつたやうだ。萩に着いたのが翌年の正月十四日と久坂の日記『江日乗』にある。

度、坂本君御出浮在らせられく御談合仕り頃、委曲御聞取り願い奉り。竟に諸恃むに足らず、卿恃むに足らず、莽志士糾合義挙の外には迚も策之き事と私共同志中申し合い居り事に御座候。失敬乍ら、尊も弊も滅亡しても大義なれば苦しからず」

(久坂玄瑞『江日乗』)

越な尊攘論者で知られる久坂と話し合い、何か思ふところがあつたのかも知らん。この後は土佐に戻り脱することになる。

脱藩

文久二年(1862年)二月末、高知に帰還した。その頃地元では武市が参政・吉田東洋に対して盛んに勤王論を建していたが、吉田は書生論として取り合はなかつた。そこで吉田を暗殺しやうといふ動きが勤王党で持ち上がつてきた。そして三月廿四日、は土佐を離れ、脱浪人と相成つた。

何故が脱といふ思い切つた行動に出たのかについては諸説あるが、おれは勤王党の過な路線に違和感を感じたんぢやないかと思ふヨ。古今暗殺で大業を成す者はおらんからネー。

因みにこの時の有名な逸話で、の権が猛反対してを隠し、次女のお栄がを授けたといふのがある。だがお栄は化年間(1844年から1847 年)、つまり脱の十五年以上も前に亡くなつていることが分かつている。おそらく後世に誤つた伝承が伝えられたのだらう。

話を戻す。その後の経路だが先に脱していた沢村惣之丞といふ男がを迎えに来て瀬戸内を渡り、廿九日に下関に到着。商・白石正一郎の屋敷に泊まつてから九州に向かい、薩摩に入ろうとしたが入できなかつたため、断念して大坂に向つたと伝はる。「伝はる」といふのは、この時期のの足取りには確かな拠がなく、伝聞に基づく説に頼らざるをえないのだ。

確実なの動静が確認されるのは七月樋口慎吉の日記に「と会つて一両を贈つた」とある記述がそうだ。

樋口はこの時分大坂に居たから大坂に居たのだらう。

続いて九月、土佐郷士の間崎滄浪江戸滞在中に書いた書状の中に登場する。七月から九月までの間に江戸に移動していたやうだ。この後また京都江戸を行き来している。

十一月、今度は久坂玄瑞日記に現れる。日付は十一月十二日で、久坂の他高杉晋作武市瑞山居合はせてを飲んだとある。中々愉快な面子ぢやないか。

十二月五日、今度は大胆にも越前の元を訪れている。これには間崎滄浪近藤長次郎も同行していたやうだ。この時大坂防策について意見を述べた後、おれへの紹介状を書いてくれと頼んだ。そして十二月廿九日、文久二年の大晦日はおれの元を訪れたワケだ。

注 坂本龍馬脱の理由をっているが、これはあくまでも仮説の1つと見た方がいい。

勝麟太郎

この時千葉場の若先生こと千葉太郎を伴つてやつて来た。らはおれをりに来たんだが、おれは笑つて受けながら鎖国の非と開の是なる事、軍の必要性と詳細な軍創設計画を聞かせて説き伏せた。するとは、もしおれの説いかんによつてはおれを刺そうと思つたが、その説を聞いて自らの固陋を恥じ、これよりおれの門下生になりたいと言つたのサ。

…何やら不さうだが。何か聞きたいことでもあるかエ?

…ヘー。には初めから殺意などく、おれに子入りするために面会しに来た、と言ふ説があるのか。更に初対面は廿九日ではなく九日だつたのではないか、と。

なるほど確かに文久二年十二月のおれの日記にはかうある。

、有志両三輩来訪、形勢の議論有り」(十二月九日)

(勝舟『日記』)

この有志両三輩の内の一人がではないかと言ふことか。さう言えば廿九日に会つた場所は兵庫だつたかも知れんノー。忘れてしまつたワイ碌しとるからノー。往時茫々夢のごとくだ。

だが確かに憶えている事はある。あいつは落ち着いて、何となく冒しがたい威権があつて、よい男だつたよ。

勝に弟子入り

さてもさても、人間の一世はがてんの行かぬは元よりのこと、運の悪いものは風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。それとべては私などは運が強く、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず、自分で死のうと思うてもまた生きねばならんことになり、今にては日本第一の人物勝憐太郎殿という人の子になり、日々思いつくところを精といたしおり。其故に私四十歳になる頃まではウチには帰らんように致し申つもりにて、兄さんにも相談致し所、この頃は大いにご機嫌よろしくなり、そのお許しがいでのため下のためを尽くしおりもうし。どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ

三月廿

御つきあいの人にも極御心安き人には内々見せ かしこ

(『文久三年三月廿日 坂本乙女宛 坂本龍馬書状』)

おれのところに来てから四ヶほど後に乙女宛てに書いた手紙だ。実に生き生きして楽し気だ。「日本第一の人物」だつてサ、アハゝゝ。


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最終更新日: 16/05/16 17:56
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