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埼玉西武ライオンズ


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埼玉西武ライオンズとは、埼玉県所沢市にあるメットライフドーム西武ドーム)を本拠地とするプロ野球チームである。単に西武、西武ライオンズ、ライオンズとも。二軍チーム名は同じ。二軍本拠地は西武ドームと同じ敷地内にある西武第二球場

現在監督辻発彦2017年~)。

概要

パシフィック・リーグ
埼玉西武ライオンズ
基本情報
創設 1950年
本拠地 メットライフドーム
一般略称 西武
アルファベット L
優勝回数
リーグ優勝 22
日本一 13回
セ・パ交流戦 0回
アジアチャンピオン 1回
永久欠番
・24:稲尾和久
経歴
球団組織
運営 西武鉄道
オーナー 後藤高志
プロ野球球団テンプレート

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1950年の2リーグ制発足時に誕生した西鉄クリッパールーツである。シーズン終了後に同じ福岡県を本拠地とする西日本パイレーツと合併し、翌1951年シーズンより西鉄ライオンズとなった(親会社の西日本鉄道戦前西鉄軍を経営していたが、解散・消滅扱いとなっているためルーツには含まれない)。

三原監督揮の下、1954年1958年の5シーズンで4度の優勝(2位一回)を果たす「西鉄黄金期」を築き、「野武士軍団」は人気を博した。しかし、1969年の「黒い霧事件」発覚でチーム全にボロボロになり、1972年シーズンをもって西鉄ライオンズは終焉を迎えた。

太平洋クラブライオンズクラウンライターライオンズについては別記したためここでは省略

1978年シーズン終了後に、土計画との間で球団譲渡の契約がまとまった。条件に「埼玉県所沢市への移転」が含まれており、これを了承したためライオンズ福岡撤退が決定した(西武ライオンズ誕生)。こうして、福岡を本拠地とするライオンズ歴史に終止符が打たれた。

1979年は、阪神タイガースから田淵幸一ロッテオリオンズから山崎裕之野村克也というビッグネームを獲得し、ドラフト会議森繁和沼博久・兄弟を獲得するなど大補強で望んだシーズンであったが、田淵獲得のために真弓明信1978年ベストナイン)ら選手の多くを放出せねばならず、選手層の薄さに苦しめられることとなる。開幕から12連敗(2引き分けを挟む)を喫するという最悪の船出となり、シーズンも最下位で終えた(前期6位・後期5位)。

1980年も前期6位に低迷するが、スティーブオンティベロスを獲得した後期は貯5を作り4位に躍進、通年でも4位となった。

1981年テリー・ウィットフィールドを獲得、さらにドラフト会議石毛宏典杉本正を獲得し、選手層は厚みを増した。石毛が新人王にき、勝率5割の4位(前期2位・後期5位)でシーズンを終えると、クラウンライター時代から4年間揮をとってきた根本陸夫は「育成の時代は終わった。あとは勝つ野球をやるだけだ」という名文句を残し、広達朗にチームを託して監督を辞した(この後、フロント入りして辣腕を振るうこととなる)。

監督1年1982年底した管理野球で選手とは不和になるが、勝つことがそれを乗り越えさせた。球団創設4年にして初の前期優勝を果たし、後期は3位に終わったもののプレーオフでは江夏豊を打ち崩して日本ハムファイターズを破り、ついに初のパリーグ優勝(ライオンズとしては19年ぶり)を成し遂げた。日本シリーズでも中日ドラゴンズを破り、初の日本一ライオンズとしては24年ぶり)にいた。

前期後期制が止された1983年は独走でパ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは巨人を下して2年連続の日本一いた。しかし、翌1984年ベテランの衰えで3位に終わり、シーズン終了後に田淵山崎引退を表明した。

1982年に広監督の下で初優勝して以降、1994年森祇晶監督退任までの13年間で11回の優勝(8回の日本一)を果たして黄金時代を築き、2006年まで25年連続でAクラス入りするなど強球団として名を馳せた。しかし、2007年に5位に沈んでついに1981年以来のBクラスに転落した。

2008年シーズンより、チーム名を埼玉西武ライオンズに変更した。ただ「埼玉」とつけただけでなく、県営大宮球場での試合開催、ファン市民が選手と一緒に参加できるイベントを開くなど、これまで以上に地域密着を図るようになった。ちなみに二軍の名称も基本的には一軍と同じだが、命名権売却により20052006年インボイス2007年グッドウィル二軍とは異なる名称が付いていた(ともに「ライオンズ」は付かない)。

催試合での観客動員数1万人割れイメージが強いが、2009年は1試合のみ。ファンサービスが功を奏したとはいえ、ライトスタンドを除いた席をライオンズファンで満たすにはまだ時間がかかる模様。地域密着活性化によって多くのライオンズファンを獲得できるかどうかはこれからが勝負である。

本拠地

福岡時代の西鉄クリッパーズ、西鉄ライオンズ太平洋クラブライオンズクラウンライターライオンズ時代は平和台球場が本拠地。平和台球場現在は解体されて存在しない。

所沢に移転した後の(埼玉)西武ライオンズ時代は西武ライオンズ球場1998年からはドーム化に伴い名称が西武ドームに変更(実際にドームになったのは1999年から)。2017年からはメットライフドームに変更される。
二軍の名称と同じく命名権売却により、2005年2006年インボイスSEIBUドーム2007年グッドウィルドーム2016年西武プリンスドームという名称だった。2017年からはメットライフドームとなる。

ユニフォーム

西鉄時代
マイナーチェンジを経て、1954年から黒色帽子ラインレターを基調したデザインが登場。胸ロゴドイツ文字と呼ばれた書体で「Lions」、帽子マーク西鉄のNとライオンズのLを重ねたマークとなり、西鉄黄金期を添えた。2008年に行われたライオンズクラシックの復刻ユニフォームとして一部の試合で着用された。
西武時代
チームカラーライトブルーとなり、ユニフォームもそれに合わせた。帽子には手塚治虫デザインレオマークがついた。ライオンズクラシックの評判が良かった事や、西鉄時代の歴史融合という意味も兼ねて、2009年からユニフォームからへ大幅リニューアルした。

ライオンズの西武身売りの経緯

西鉄ライオンズは当時まだ20代中西太を兼任監督に抜監督の給料をケチるため)したり、給料の高くなった選手を毎年のように放出していた。そのような経緯でチームは年々弱体化を続け、黒い霧事件発覚による池永正明投手選手の永久追放もあり、西日本鉄道は球団経営の意欲を全に失った。

一時はペプシコーラへの身売りが内定するも、同時期に東映フライヤーズの日拓ホームへの身売りが発覚し、ペプシはこの話を破談にする。事態に窮した当時ロッテオリオンズオーナーであった中村長芳は「個人」でライオンズを引き受けることを決意し、オーナーを辞してライオンズを買収した(福岡野球設立)。

しかし、球場からの収入だけで経営を成り立たせる必要があるにも関わらず

  1. 中村平和台球場弁当契約白紙に戻す
  2. 弁当販売の利権を持つ会議員の働きかけで平和台球場が使用不可に(中村が他所者なのも理由らしい)
  3. 何とか使用可にはなるものの、使用料が西鉄時代とべて12倍強に

といった経緯もあって経営は火のであった。そこで太平洋クラブ(1973~76年)、クラウンライターガス77・78年)とネーミングライツ契約を結んだものの焼け石にで、負債は雪だるま式に膨らむ一方であった。中村はつてを頼って土計画の義明に接触し、ライオンズ埼玉県所沢市への移転を条件に譲渡に成功した。こうして1978年シーズンをもって、福岡市を本拠地とするライオンズ歴史は終わった。

たまにあるのが、西武福岡からライオンズを奪ったという意見である。それどころか、当時は「中村ライオンズ倒産させてたちのライオンズを作ろう」とする者も居るなど、実質的には福岡が追い出したようなものであった。

余談ではあるが、福岡市民が元々大阪の球団であったホークスを受け入れたのは、ライオンズを失ったことへの後悔と反があってのことだと言われている。

優勝見届け人

どういうわけか他球団の優勝決定をの前で見届けされられるという運命にある。また見届けない年も優勝をアシストさせられてたりする。2008年に優勝して以降、

2009年 日本ハムサヨナラ負けし、胴上げ見届け
2010年 日本ハムサヨナラ負けで、ソフトバンクの優勝決定
2011年 ソフトバンクに敗れ、西武ドームで胴上げ見届け
2012年 ロッテに敗れ、日本ハムの優勝決定
2013年 楽天に敗れ西武ドームで優勝見届け。田中の8球も参照
2015年 ソフトバンクに敗れ、胴上げ見届け
2016年 日本ハムに敗れ、西武プリンスドームで胴上げ見届け
2017年 ソフトバンクに敗れ、メットライフドームで胴上げ見届け

赤字は本拠地での見届け

と、2018年に再び優勝するまでの9年間でなんと6回。2015年から2017年まで3年連続で相手チームの優勝による胴上げを見届けている。うち本拠地西武ドームでは4度見届けている。

コラボレーション

2010年を皮切りに、西武に地元埼玉舞台TVアニメとのコラボレーションを年1回をベースに開催している。オリックス・バファローズ戦で組まれることが多い。


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最終更新日: 19/07/22 18:03
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