ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


大久保忠世


ヨミ: オオクボタダヨ

「大久保忠世」(おおくぼ・ただよ 1532~1594)とは、戦国時代の武将である。徳川家康に仕えた。江戸時代には徳十六将の一人に数えられた功臣。


概要


)に代々仕えた大久保の出身。大久保忠員の子。に徳十六将の大久保忠佐や有名な大久保彦左衛門忠教たちがいる。
大久保忠世は徳川家康が幼い頃から家康に仕えた武将で、多くの合戦に参加して手柄を立てた。
武勇に優れた三河武士であり、地方の軍政を担った優秀な指揮官小田原では善政を敷いた名君でもあった。


三河時代~旗本先手役


大久保忠世が生まれ育った頃の三河は群雄割拠の状況で、大久保が仕えたは勢を拡大する度に分裂して一門同士で争っていた。
大久保が仕えていた安祥(後の徳)は駿今川に後ろめて竹千代家康)を人質に送り、大久保忠世も竹千代のお供として駿河へ行った。

桶狭間の戦い1560年)の後に家康岡崎に入ると、大久保忠世もたちと共に従った。
家康今川から離反して尾織田信長と同盟し、三河定をした。
しかし当時は狭間の敗戦から立ち直った今川軍が三河へ侵攻し、家康に味方した人衆を追い落すなど徳圧迫した。
そこへ1562年、隣遠江で起きた反乱鎮圧のために今川軍が遠江へ転戦した。
今川軍の脅威から一時的に解放された家康は、勢拡大の為に大きな賭けに出た。
河西部の人々の信仰を集める本願寺教団寺院の権益を侵し、追い詰めたのである。

この暴挙とも言える徳の行いに反発する人・地が挙兵。徳に従属を強いられた名門吉良と手を結んで徳に対抗し、徳軍と三河一との戦いが始まった(1563年)。
『三河物語』等によると、徳に従っていた武でもを二つに割って徳と一それぞれに味方したが、大久保は一丸となって家康を支持し、宗までして忠を誓った。
抗争は決着がつかず徳と一は和したが、家康は一導者たちを逃亡に追い込み、彼らに従っていた地を取り込んで家康直属の軍団=旗本先手役を組織した。

大久保忠世は旗本先手役の武将の一人に選ばれた。すぐ下の大久保忠佐も、忠世とは別先手役の武将となった。
先手役結成時に大久保忠世に付けられた与(部下)は人をえた。先手役の将としては最大規模の部隊を率いた。
以後、大久保忠世は家康に付き従い各地を転戦した。
また息子大久保忠隣家康の小姓を務めた。
一方、本家筋の叔父従兄弟たちは三河に留まり、後に武田軍と戦って三河を守った。本家が地元=親族の帰る故郷を守り、分が外に栄達をめるのは、武ではよくあることだった。


武田家との抗争~遠江北部の旗頭


大久保忠世は家康に従い遠江各地を転戦、定に尽した。
甲斐武田信玄との抗争が始まると、旗本先手役は武田軍の侵攻を食い止めるとなって多くの死傷者を出した。
三方ヶ原の戦い(1573年の戦い)に大久保忠世も参戦して奮闘したが、戦そのものは徳軍の惨敗に終わった。

武田軍が引き揚げると、家康は直ちに失地回復をし、遠江では北部の有人だった天野景貫の領地へ侵攻した。
天野は徳が遠江を制圧した際に従ったが、武田に寝返って三河へ侵攻し、徳武田関係を逆転させた因縁の宿敵だった。

武田は救援軍を送れない状況だったが、天野勢は各地の砦で頑強に戦い続けた上に天野景貫が籠るも堅固だった。
さらに悪が続いたため徳軍は撤退したが、その途中での守備軍に奇襲されて敗北した。
この時、殿軍にいた大久保忠世と榊原康政の部隊が奮戦して徳軍が混乱に陥るのを防いだ。
しかし徳軍は帰路も武田方のや現地民から襲撃を受け、方通綱(攻めの案内役)の逃げ込んで難を逃れた。

つまり奇襲を受けた徳軍は大損を受けていた可性があり、大久保忠世たちは「味方の混乱を防いだ」だけでなく、「軍を壊滅の危機から救った」大活躍をしたのかもしれない。

ちなみには徳軍が遠江を制圧した際に、大久保忠世たち旗本先手役が攻撃して、徳に従わせただった。一時期武田に寝返ったが、大久保忠世たちが進軍して威圧を掛けることで徳に再び従わせた。を味方に付けた点でも大久保忠世たちの功績は大きかった。


その後の徳は苦が続いたが、長篠合戦(1575年)で武田軍を撃破した。
この戦いで大久保忠世はまたも活躍して、織田信長から称賛を受けた。忠佐も讃えられた。
勝利の後、家康は直ちに領土奪還を図り、遠江中部の二俣を狙った。
二俣家康の本拠地である浜松の北に位置し、徳に睨みを利かせていた。必ず取り戻さなければならないだった。
この二俣の戦いにおいて、攻略軍の総揮を執ったのは大久保忠世だった可性がある。

軍は二俣と北のの中間に位置するを攻め落とし、二俣周辺の他の砦も攻略。さらに砦群を築いて先手役の武将たちが守り、二俣を孤立させた。
半年に及ぶ包囲戦の末に二俣は開将の一人だった依田信蕃徹底抗戦したが、武田勝頼手紙で説得されて開に応じた。
この時徳軍は、武田軍の善戦を讃えて食糧を贈ったという。

二俣をはじめこの戦いで徳軍が奪取・築した砦は大久保忠世が預かることになった。
軍は北上してを包囲し、も開
家康も大久保忠世に預けて、遠江北部の征事業に専念させた。
軍の侵攻により天野の親族の多くは徳に従ったが、抗戦を続ける人々も少なくなかった。

大久保忠世は以降2年に渡り現地で戦い、遠江北部を制圧した。
その後は同地の将兵を率いて遠江東部や駿河侵攻作戦に参加し、引き揚げ時に殿軍を務めたりと活躍を続けた。

先手役の武将から地方軍政の指揮官への転身は、本多忠勝榊原康政を除く他の武将も踏襲した。
家康は勢を拡大する度に、征した地域の重要な先手役の武将を任じて地域を統括させた。


大久保忠世と信康事件


1579年、家康長男岡崎を務めた松平信康徳川信康)が、家康の命により身柄を拘束されて二俣切腹した。徳を震撼させた信康事件である。

当時、二俣は大久保忠世の持ちだった。

『三河物語』など江戸時代の史料によると、家康息子の命を助けたいと思い、大久保忠世が信康を逃がしてくれることを期待して信康の身柄を二俣に預けた。
ところが大久保忠世は頑固で実直な三河武士だったので家康の命をそのまま受け取り、信康を死なせてしまった。
随分後になってその件で家康から恨み言を言われたという逸話がある。

ところで大久保忠世は長い間、先手役の将として家康に従ってきた。息子大久保忠隣家康の小姓から側近になった。
どちらも君の意図を察することができなくて務まる役だったのか。
家康にしても大久保忠世は長年の臣であり、忠世の気質を知らなかったはない。

さらに、

・事件当時の二俣は、徳の版図拡大の結果、逃亡先の補となる武田領に近いではなく、徳川信康をそこから逃がすには不適当だった。
・『日記』には、家康が(旗本を引き連れて)岡崎へ乗り込んだことが記されている。
家康は自ら岡崎へ乗り込み、信康を追い出して他のへ移したすぐ後に、旗本先手役の榊原康政岡崎を守備させた記述があることから、旗本を率いていたことが分かる。
徳川信康の介錯人として服部半蔵と共に二俣派遣された方通綱は、大久保忠世の与を務めた。

家康は大久保忠世なら信康を逃がしてくれると期待したのではなく、
に忠実な大久保忠世のに信康の身柄を預ければ、他の臣のように信康を逃がしたりするのではと心配しなくて済む」
と考えて徳川信康の身柄を二俣に移し、の大久保忠世は家康の願い通りに監視を行ったのかもしれない。

その一方で大久保忠世は後に、徳川信康の小姓だった植村家次を助けた可性がある。
大久保彦左衛門は著書『三河物語』の中で徳川信康を名将として描写し、信康付きの重臣だった天野が大久保忠世と組んで活躍した話も記した。


天正壬午の乱~小田原の役


1582年に武田が滅亡、同年本能寺の変織田信長が横死すると、大久保忠世は酒井忠次(三河東部担当)、奥平信昌(三河北部担当)と共に信濃南部へ侵攻して同地方握し北上
関東から北条の大軍が接近していると知ると、甲斐へ向かい家康が率いると合流した。
『三河物語』などでは、北条軍に追跡された徳軍の武将たちは最も危険な殿軍を進んで引き受けようとして喧したという。

と北条が和すると、大久保忠世は信濃東部の要地である小諸に入り、信濃佐久を統括した。
助けて功績のあった依田信蕃が戦死すると、大久保忠世は依田信蕃息子たちの後見人を務めた。

1584年、東海道徳川家康羽柴秀吉豊臣秀吉)が対決。その翌年、信濃甲斐の徳軍は秀吉に味方する真田昌幸を攻撃した。
大久保忠世は徳軍を率いて上田城を攻撃したが、真田軍に撃退された。
この戦いで徳軍は数千人が死傷する大敗を喫した――のは誇だが、敗北して信濃秀吉方の勢を残してしまう結果となった。

ただし上田城は堅固なだったこと、真田に従う人地への調略は十分な成果が出ていなかったこと、真田の背後には上杉が控えていたなど、徳軍にとって悪条件が重なっていた。
秀吉方の真田軍、上杉軍を信濃に釘付けにしたことで、同盟者である北条を援護した形になったことは成果だった。

1585年に岡崎で徳の重臣だった石川数正が出奔する大事件が起きた。
家康信濃から大久保忠世を呼び戻して東海道危機に備えた。
戦において大久保忠世が前と変わらず家康から頼りにされていたことががえる。

色々あって家康秀吉に従い、小田原の役(1590年)に参戦すると、大久保忠世は本多忠勝榊原康政たちと共に徳軍を率いて北条領を攻略した。
大久保忠世の軍勢が占領した伊豆相模には、徳の代官が送り込まれた。これらの地域を徳が領有することは先に決まっていたとみられる。
一方で徳の人々(後輩井伊直政たち)は盟友だった北条存続の為の活動もした。
しかし北条は滅亡。ちなみに息子大久保忠隣は徳―北条の同盟交渉に従事した経歴がある。

戦後、大久保忠世は北条の本拠地だった小田原城に任じられて西の守りを担った。
大久保忠世は北条時代の優れた統治の仕組みを暗に変えたりはせず、そのまま引き継いだ。また地元の職工・商人の活動を支援した。
既存の寺社を厚遇し、新たな寺社の建立にも熱心だった。当時の寺社は冠婚葬祭に加えて戸籍管理や教育など様々な役割を担うことがあり、明治維新を迎えるまで日本の発展に大きく貢献した。
小田原が今でも職人の町であり、多くの寺社が存続しているのは、大久保忠世が施した善政のおかげもあるかもしれない。


関連項目



最終更新日: 17/09/24 15:39
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ