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大正浪漫とは、日本(当時は大日本帝国)の大正時代における、その時代の雰囲気を彷彿させる思潮や文化事象をさす言葉である。当時の文化風俗、特に「華族」が醸す雰囲気の描写に用いられることがある。また、1930年代の昭和モダンと合わせて捉えられることもある。
明治維新以後、西洋文化が流れ込んできたのに加え、日清戦争・日露戦争の戦勝による高揚感もあって、都市部の人々の間では思想の自由化、または経済的成功を達成する新時代への夢を抱くようになった。一方で大正時代後半は、第一次世界大戦後の恐慌や関東大震災による経済的打撃があり、社会不安と新時代への野望との間に葛藤が生じた。社会主義・共産主義に影響を受けた「プロレタリア文学」などがそれである。
これらの社会的背景が文芸、芸術面において顕著に表れ、大正浪漫を形作った。印刷や映像・運輸通信技術の発達によって、庶民も文化芸術に触れる機会が爆発的に増え、文明文化を構成するのは一部の知識人と上層階級の者たちだけでは無くなっていったのである。
ほか、堀口大學・斎藤茂吉(アララギ派)・尾崎放哉・山田耕筰・室生犀星・長谷川如是閑・大杉栄(プロレタリア文学)・野口雨情・鈴木三重吉(児童文学・『赤い鳥』を創刊)・高畠華宵(画家)・岸田劉生(洋画家)・上村松園(日本画家)・
児島喜久雄(画家・白樺派)など。
大正時代の文化事象として特筆されるべきは『宝塚歌劇団』の登場(大正2年、宝塚唱歌隊。大正8年、宝塚少女歌劇団・宝塚音楽歌劇学校)であろう。大正7年の帝劇公演以降またたく間に人気をあげ、大正13年には当時としては破格の3000人収容を誇る宝塚大劇場が完成した。また『吉本興業』が創業したのもこの時代(明治45年/大正元年。「吉本興行部」は大正2年)である。大正11年に「新橋演舞場」、大正13年には「築地小劇場」が完成した。
映像文化の面では、大正元年に民間の4映画会社が合併して『日活』(日本活動冩眞株式會社)が創業。東京では新派劇(現代劇)、京都では旧劇(時代劇)を制作した。第一次世界大戦後、欧米映画の進出に対抗するかのように『国活』(國際活映)『大活』(大正活映)などの会社が生まれ、大正10年には現在の松竹の前身となる『松竹キネマ』が設立された。大正13年には「日活太秦撮影所」が建設された。日本最初のカラー映画(無声)とアニメ映画とされる作品を制作した『天活』(天然色活動写真)が存在したのもこの時代(大正3年~8年)である。また大正7年ごろから、既存演劇や欧米作品の模倣でない日本映画をめざす「純映画劇運動」が展開された。
明治末年に起きた「大逆事件」や、ソ連の登場による社会主義・共産主義運動の活発化の影響で、国家当局による出版・言論・文化活動への監視の目はそれなりにあったものの、この時代には実に様々な雑誌が創刊された。なかには現在も発刊され続けているものもある。代表的なものとして娯楽雑誌『キング』(大正14年~昭和32年)、児童文学雑誌の『赤い鳥』(大正7年~昭和11年)があり、『婦人公論』(大正5年)、『主婦の友』(大正6年)、『キネマ旬報』(大正8年)、『小学五年生』『小学六年生』(大正11年)、『小学四年生』(大正13年)、『セウガク(小学)一年生』『セウガク二年生』『セウガク三年生』(大正14年)、『週刊朝日』と『サンデー毎日』(大正11年)、そして『文藝春秋』(大正12年)などがあげられる。また、改造社が「1冊1円」の通称『円本』の発売を始めたのは大正15年11月である。
歌謡の面では、藝術座の新劇女優・松井須磨子が唄う「カチューシャかわいや わかれのつらさ」の歌詞で知られる、『カチューシャの唄』(大正2年)が大流行した。大正5年には『ゴンドラの唄』、大正11年には『船頭小唄』がヒット。第一次世界大戦後から関東大震災までの間、東京では「浅草オペラ」がブームとなった。
報道メディアに関しては、明治時代のような新聞の発行と弾圧の繰り返しがほぼ終息を迎え、『東京日日新聞』(→毎日新聞)『東京朝日新聞』『報知新聞』『時事新報』『國民新聞』が、東京五大新聞として並立するといったような状態となった。正力松太郎が弱小紙『読売新聞』を買収し、のちの大新聞へ成長させていくことになるのは大正13年である。
ラジオ放送の最初は大正14年3月22日。当時の社団法人東京放送局(JOAK)によるものである。初音声は「J O A K 、 J O A K 、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します」。
なお、日本におけるテレビジョンの最初の映像として有名な「イ」の文字が映し出されたのは、奇しくも大正15年にして昭和元年の12月26日、大正天皇崩御と昭和天皇即位その日であった。
このほか、食文化の面では森永ミルクキャラメル(大正3年)やカルピス(大正8年)、江崎グリコキャラメル(大正11年)の販売が始まった。現在の「日展」(日本美術展覧会)にあたる「帝展」(帝国美術展覧会)が始まったのは大正8年(帝国美術院→現:日本藝術院の設立)。有名な「帝国ホテル旧館」と「丸ビル」が完成したのは大正12年。「通天閣」の完成は明治45年/大正元年である。
大正4年、のちの全国高等学校野球選手権大会にあたる「全国中等学校優勝野球大会」が開催された。阪神甲子園球場の完成は大正13年である(明治神宮球場は大正15年、後楽園球場は昭和12年完成)。大正14年には「東京六大学野球連盟」と「大日本相撲協会」が設立。第1回の「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)が大正9年に開催された。日本がオリンピックに初参加したのは明治45年/大正元年のストックホルム五輪であり、日本スポーツ界の萌芽となった時代でもある。
大正3年、丸の内に「東京駅」が完成。既に明治45年/大正元年にはJTB(任意団体「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」)が設立され、東海道・山陽線には展望車両が登場。有楽町には初めてタクシーが現れ、日本の鉄道・自動車による運輸・観光業が大きく進歩していった。
しかしながら、これらの華やかな文化事業に大打撃を与えたのは、やはり「関東大震災」であった。純映画劇運動や浅草オペラなど、この震災によって雲散霧消してしまったものも少なくない。また、第一次世界大戦中の戦争景気が過ぎ去って戦後恐慌となり、それに昭和金融恐慌が追い打ちをかける格好になると、『女工哀史』(大正14年)に描かれるように、それまでも文化的・経済的恩恵にあずかれなかった地方・農村の立ち遅れと困窮は深刻なものとなっていった。
イトーヨーカ堂 (「羊華堂洋品店」 大正9年) [画像を見る]オタフクソース (酒・醤油卸業「佐々木商店」 大正11年)
[画像を見る]オリンパス (「高千穂製作所」 大正8年) [画像を見る]黄桜 (「松本酒造」の分家として 大正14年)
[画像を見る]キッコーマン (「野田醤油」 大正6年) [画像を見る]杏林製薬 (「東洋新薬社」 大正12年)
[画像を見る]神戸屋 (大正7年) [画像を見る]敷島製パン (大正9年) [画像を見る]シヤチハタ (「舟橋商会」 大正14年)
[画像を見る]象印マホービン (「市川兄弟商会」 大正7年) [画像を見る]タイガー魔法瓶 (「菊池製作所」 大正12年)
[画像を見る]大正製薬 (「大正製薬所」 大正元年) [画像を見る]ダイソー (「大阪曹達」 大正4年) [画像を見る]チョーヤ梅酒 (大正3年)
[画像を見る]タカラトミー (「富山玩具製作所」 大正13年) [画像を見る]TOTO (「東洋陶器」 大正6年)
[画像を見る]帝人 (「帝国人造絹絲」 大正7年) [画像を見る]東レ (「東洋レーヨン」 大正15年) [画像を見る]江崎グリコ (大正11年)
[画像を見る]トンボ鉛筆 (「小川春之助商店」 大正2年) [画像を見る]日本碍子 (大正8年) [画像を見る]ハウス食品 (「浦上商店」 大正2年)
[画像を見る]ニコン (「日本光学工業」 大正6年) [画像を見る]パナソニック (「松下電気器具製作所」 大正7年)
[画像を見る]富士急行 (「富士山麓電気鉄道」 大正15年) [画像を見る]フジ矢 (大正12年)
[画像を見る]三井造船 (「三井物産造船部」 大正6年) [画像を見る]スズキ (「鈴木式織機」 大正9年)
[画像を見る]マツダ (「東洋コルク工業」 大正9年) [画像を見る]日立製作所 (大正9年) [画像を見る]三菱電機 (大正10年)
[画像を見る]明治製菓 (「東京菓子」及び「大正製菓」 大正5年) [画像を見る]明治乳業 (「極東練乳」 大正6年)
[画像を見る]桃屋 (「桃屋商店」 大正9年) [画像を見る]森永乳業 (「日本練乳」 大正6年) [画像を見る]養命酒製造 (大正12年)
[画像を見る]リンナイ (「林内商会」 大正9年) [画像を見る]産経新聞 (「夕刊大阪新聞」 大正12年)
[画像を見る]岩波書店 (大正2年) [画像を見る]小学館 (大正11年) [画像を見る]集英社 (大正14年)
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