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安見宗房 / 遊佐宗房(?~?)とは、戦国時代の武将である。
遊佐長教の死後、政長流畠山氏で権勢を誇った、畠山氏の最末期の家臣とされる。その実態は天文年間にようやく河内守護代遊佐氏の家臣になったと思われる新参者であり、遊佐氏同名、さらには奉公衆にまでのし上がった人物である。
しかし、何分戦国期畠山氏はよくわかっていないことも多く、いまだに研究成果が他の分野の研究者からも認知されていない節があるので、極めて知名度は低い人物である。
▲一般的には安見氏は河内国交野郡私部城主だったと言われる。しかし、かつて今谷明が、『戦国三好一族』で興福寺の僧侶・賢忍房良尊の記した『天文間日次記』において大和越智氏の中間の出身だという記載があったと主張している。この、『天文間日次記』のことだと思われる『興福寺大般若経奥書』の298巻にある天文21年(1552年)2月15日の箇所によると、「安見ト申物ハ、ヲチカタ殿ト云人ノ中間ニテアリケルガ」とのみあり、後年弓倉弘年も「確かにそのような記載がある」、とあまり断定的ではない反応をしている。さらに『羽曳野市史』で川岡勉も特に注記はなくこれを素直に読んで彼方氏としているため、やっぱり越智氏かは結構怪しい。まあそれはそれとして、安見宗房以前の安見氏は本当に何一つ史料どころか編纂物にすら出てこず、後述の通り越智氏と敵対する筒井氏と手を結んでいるあたり、この『興福寺大般若経奥書』が本当かどうかすらも微妙である。結局のところ、いまいち出自も定かではない存在でしかないようだ。
また軍記の『足利季世記』によると、中村円賀の子が安見氏の養子になったとするが、事実かは不明である。
さらに『寛政重修諸家譜』によると、佐久間信盛の娘を妻としたとあるが、こちらはちゃんと調べた結果、そもそも原典には安見右近としかなく、某家臣団事典等後述する一族の安見右近と混同された状態で孫引きが続いている。というか、モノによっては安見右近直政とかいうもはや誰だよみたいな書かれ方もしている。なお、安見右近と婚姻したことは事実を反映したものとされている。
さらに言えば、名前に至っても、元号が平成になるころにようやく安見宗房だと分かった存在である。まず、名字は結構な頻度で「あみ」と間違われるが、『言継卿記』のうち天文21年(1552年)11月30日の箇所で間違えて「八隅」と書かれていたことから「やすみ」と分かった。さらに言えば、かつて通説とされた安見直政という名前は『姓氏家系大辞典』所収の「安見家譜」くらいにしか出てこず(というかこれの引用元である『保見氏系図譜』は、10年代後半に偽文書としてあまりにも有名になりすぎてしまった『椿井文書』の一つである)、『足利季世記』といった軍記や『両畠山系図』といった系図にすら出てこない。こうして『石清水文書』や『蜷川家文書』を調べていった結果、一貫して安見宗房であったことが分かったのであった。もっと言えば、『上杉家文書』等上杉氏関係の史料で安上宗房と間違って伝わった上、江戸時代に六角義賢の家臣と勘違いされてしまい、本当に長らく謎の存在だったのである。
前置きはさておき、安見宗房は政長流畠山氏の家臣ということである。この戦国期畠山氏も、90年代くらいから研究者がちゃんと調べ始めたら軍記の『細川両家記』、『足利季世記』とだいぶ違う動向が明らかになってきたため、信頼性が高そうに見えても軍記ばかりに頼っちゃダメと釘を刺す論考まで出てきたにもかかわらず、10年代後半になってもほぼほぼ『細川両家記』だけをソースに足利義昭の研究者や六角氏の研究者が論文集や一般書を出してるため、割と情報が錯綜気味になっている存在である。
▲まあそれはそれとして、極めて小さな領主であった安見宗房を畠山氏と結びつけたのは、大和国添下郡鷹山荘を本拠とする興福寺の官符衆徒・鷹山弘頼である。鷹山氏は応仁の乱頃から越智氏の麾下にあったが、次第に木沢長政に着く。ところが天文10年(1541年)10月の木沢長政の乱の際、細川晴元方となり、鷹山弘頼は新たに山城国上三郡の権力者になろうとする。天文11年(1542年)7月25日の書状で、畠山稙長の麾下となっていたことが分かり、遊佐長教の麾下かどうかはさておき、天文13年(1544年)7月には河内の軍勢を率いて大和を攻略していった。後の動向を踏まえると、この時点で安見宗房が鷹山弘頼の配下にいたと考えるのが自然である。
そして天文15年(1546年)の、第二次細川氏綱の乱すら始まっていた頃、遊佐長教と細川晴元は対立していき、遊佐長教は細川氏綱方に寝返る。一方、この時期の河内では守護代主導の支配体制がようやく整備され、遊佐氏も萱振氏、走井氏といった従来の被官に加えて、菱木氏、草部氏といった畠山氏有力内衆をも家臣化していった。この流れで、鷹山弘頼と安見宗房も遊佐長教の家臣となったとされる。これは同時期に摂津で三好長慶が家臣団整備をしていたこととも連動していたとも。
そして、第二次細川氏綱の乱で、天文15年(1546年)9月13日に細川国慶が京都を制圧した。そしてようやく天文15年(1546年)9月頃から、安見宗房の名前が史料に登場する。『興福寺文書』によると10月4日に安見宗房と鷹山弘頼は、共に「城州上三郡四分一郡職」を望み、10月6日にそれよりさらに広範囲に権益を持つ「城州上三郡守護代」が認められた書状も残されている。一通目の書状によると、このころ既に南山城の諸侍が彼らを守護代として認識しており、それを背景としてエスカレートした要求すら認められてしまったようだ。が、天文16年(1547年)7月の摂津舎利寺の戦いで遊佐長教らは三好長慶・畠山在氏軍に敗走。その上10月には京都を制圧していた細川国慶が戦死し、細川氏綱方が敗北したことで、両名の野望は潰え去った。
天文17年(1548年)4月に遊佐長教は細川晴元方と和睦するも、遊佐長教は三好長慶を細川氏綱方に引き入れ、天文18年(1549年)の摂津江口の戦いでの勝利で細川晴元政権が崩壊する、といったように情勢はめまぐるしく入れ替わる。この結果起きたのが、義就流畠山氏の畠山在氏・畠山尚誠の没落である。しかし政長流畠山氏も、遊佐長教に付き従っていた惣領名代・畠山政国が、足利義輝の逃亡など想定を超えた事態に不満を抱き、紀伊に隠居してしまう。かくして、この時期の河内は、事実上遊佐長教の支配下にあったのである。
さて、安見宗房であるが、河内下郡代として飯森城にあり、先輩である鷹山弘頼を差し置いて、北河内の支配者となっていた。こうして、遊佐長教の体制において、徐々に後の伏線が張られていったのである。
▲天文20年(1551年)5月、遊佐長教が暗殺される。この結果起きたのが、遊佐氏系家臣団内の対立である。天文21年(1552年)2月になると、安見宗房は河内上郡代の萱振賢継の一族をはじめ、田河氏、野尻氏、中小路氏らを粛正する。一方、5月以降にこれを好機として義就流畠山氏の畠山尚誠が大和宇智郡から河内に出陣しようとして、安見宗房らが阻止する。安見宗房がこれを乗り切れたのは、走井氏、丹下盛知らの協力もあったとされる。一方、粛清した野尻氏に自分の養子を送り込むなど、安見氏の勢力拡大にも勤しんだ。
かくして天文21年(1552年)9月に畠山高政が家督を継ぐ一方、遊佐長教の跡目には遊佐太藤がつく。さらに、天文22年(1553年)5月には畠山高政・鷹山弘頼と遊佐太藤・安見宗房の対立の影響で、鷹山弘頼が高屋城で自刃。もう一つこの背景には、天文21年(1552年)11月の細川晴元の挙兵に伴い三好長慶と安見宗房が共同であたり、天文22年(1553年)3月というほぼ同時期に三好実休が阿波守護・細川持隆を殺害しているため、細川晴元陣営との対立と連動した一連の事件があったのかもしれない。
なにはともあれ、鷹山弘頼の粛清で交野郡も蚕食し、安見宗房は遊佐氏家中の最大の実力者となった。『天文日記』には天文21年(1552年)にそれまでの与兵衛から美作守に官途名乗りを変えていたことがわかり(当然自称だが)、畠山高政の擁立が一つのターニングポイントとなったのである。
天文22年(1553年)の三好長慶と足利義輝・細川晴元の戦いで、安見宗房は丹下盛知とともに畠山氏の軍勢を率いていった。丹下盛知は畠山高政の直属であり、安見宗房はあくまでも遊佐氏内衆として走井盛秀と同等の守護代家の有力内衆であった(俗説では守護代に勝手にされるが)。弘治2年(1556年)7月には畠山尚誠・鷹山氏らと大和で戦っている。この流れを受け弘治3年(1557年)には筒井藤勝と遊佐氏の娘の婚礼を取り持ち、大和との関係を確立した。
『天文日記』によると、天文22年(1553年)に遊佐太藤は御供衆にまでなっているのだが、永禄年間に名前が見えなくなる。ここから、遊佐信教の成長まで、遊佐氏は安見宗房が盛り立てていくことになる。
永禄元年(1558年)11月に足利義輝が三好長慶と和平した頃、三好方に河内勢はいなかった。弘治3年(1557年)以降に畠山高政が安見宗房と対立し、永禄元年(1558年)11月30日に紀伊に出奔したためである。三好長慶はこの事態に畠山高政を支援し、永禄2年(1559年)に高屋城に畠山高政が復帰する。この流れで起きたのが、松永久秀の大和制圧である。
▲しかし、足利義輝と三好長慶のもと、河内支配を任された畠山高政の経営はあっけなく行き詰まり、永禄2年(1559年)11月21日に足利義輝は御料所の年貢未納分の納入を三好長慶に依頼する。一方、畠山高政のもとからいったんは排除された安見宗房も、永禄3年(1560年)に河内富田林の寺内特権承認などを行い、依然その権勢は衰えていなかった。
かくして永禄3年(1560年)に利害関係が一致した畠山高政と安見宗房は和睦し、これを口実に三好長慶が出兵する。情勢はあっけなく三好長慶優勢に傾き、永禄5年(1562年)5月の河内教興寺の戦いでの敗戦で、畠山高政・安見宗房らは紀伊に在国することとなった。
『金剛地文書』、『観心寺文書』などによると、永禄6年(1563年)にようやく成長した遊佐信教(当時はまだ遊佐教)が文書を発給し始める。いわゆる守護クラスの代替わり安堵であるが、前代の遊佐太藤が御供衆までランクアップしていたことが根拠と思われる。
そして、永禄8年(1565年)5月に永禄の変で足利義輝が殺害され、畠山高政の弟・畠山政頼(後の畠山秋高)が、反三好の兵の挙兵を呼びかける。この呼びかけを越後上杉氏に伝えたのが、安見宗房であった。なお、この頃すでに遊佐氏の名を得て、遊佐宗房となっており、彼は遊佐信教の麾下の遊佐氏家中の一員となっていたのである。一方、宗房との関係が不明な一族の安見右近が、10月には大和で軍事行動を興していた。
こうして松永久秀と三好三人衆の戦いが行われている間、結局畠山氏は河内を回復できず、永禄11年(1568年)9月の織田信長の上洛をもって、ようやくそれを実現する。『言継卿記』の永禄13年(1570年)5月3日によると、遊佐宗房は奉公衆の一員となっていた。この後彼がどうなったかを知る術はない。
『宗及茶湯日記自会記、同他会記』の天正5年(1577年)12月25日の項によると、安見宗房の持っていた「万里鷹山の絵」が薬師院の茶会で披露されており、それまでに亡くなっていると思われる。
▲安見氏の名跡は、前述した安見右近という人物が継承し、河内交野の私部城主として、三好方としばしば戦った。この安見右近こそ、安見流砲術の祖とされる人物である。安見右近の初見は浄土真宗の僧・実従の記した『私心記』の永禄2年(1559年)12月10日の項で、安見右近が神尾と安見与助を牧方寺内に検断に向かわせている。この頃は私部ではなく星田に拠点があったようで、安見氏が私部の城主だったのは俗説といえる一つの傍証である。
なお、安見右近は畠山高政や安見宗房が没落している間にも同地にいたので、これらを離反して三好方についた可能性が高い。ところが永禄の変の時に恐らく筒井藤勝らと大和で蜂起し、遊佐信教がこれを拾い松永久秀との同盟の際に貸し与えたようである。
また、加えて安見宗房が子供を送り込んだ野尻氏も、草部氏と並び依然遊佐信教の有力家臣であり、安見右近らと元亀年間になっても三好・松永方と戦っている。
この安見右近は『信長公記』に「高屋に畠山殿、若江に三好左京大夫、交野には安見右近」と並び称されたように、畠山秋高、三好義継の河内両守護に並ぶ存在であった。そしてこの記述によって私部の交野城をようやく領したことがわかる。しかし、元亀2年(1571年)5月10日に松永久秀と畠山秋高の対立の末に松永久秀が三好三人衆と結び、安見右近は松永久秀に切腹させられている。なお、『言継卿記』によると多聞山城、『二条宴乗日記』によると西新屋と、微妙に切腹した場所も錯綜している。後年、天正8年(1580年)1月11日の『兼見卿記』によると、安見右近の後家が吉田兼和に祈祷を依頼している。