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宮沢賢治(1896年8月27日 - 1933年9月21日)とは、日本の詩人・童話作家・教育家である。仏教徒、菜食主義者、エスペランティストでも知られる。
作家として、童話「注文の多い料理店」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「セロ弾きのゴーシュ」、詩集「春と修羅」などが知られる。ただしそれらが世間に知られたのは、彼の死後である。
ニコニコ動画には、宮沢賢治作品の朗読、詩に音楽を付けた作品がアップロードされている。
▲岩手県稗貫郡里川口村(現花巻市)出身。
実家は質屋と古着商を営んでいたが、誕生直前に襲った地震による被害がまだ残る中で、困窮する人々が金を借りに訪れる様を見たことで、彼の人格が形成されたと言われる。
中学校に進学すると、本格的に短歌の創作に没頭するようになる。
また、実家は浄土真宗の檀家であったが、中学校卒業後に読んだ書籍の影響で法華経への信仰が高まっていった。
1915年に盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)へ進学、家業とは異なる農業への道を歩み始める。また、同人誌で短歌などを発表するようになっていた。
1918年に卒業し、研究生として引き続き在学。このときより童話の創作を始めるも、肋膜炎を患ってしまう。 この原因が結核によるものと思われ、後に肺炎を幾度も患うなど、賢治の寿命を短くする要因となった。
1920年に研究生を卒業。その後日蓮主義を唱えるタカ派の宗教法人、国柱会に入信、本格的に日蓮の教えに傾倒するようになり、父と口論が続くようになった。
1921年に稗貫農学校(現:花巻農業高等学校)の教師に就任する。その前に、よき理解者で最愛の妹、トシが病に伏してしまう。
1922年にトシが亡くなる。2年後にはその心象を綴った詩集「春と修羅」が刊行された。生前に出版されたのはこの詩集と童話「注文の多い料理店」のみである。
1926年に教師を退職し、別宅で本格的な農家、そして農業や芸術を伝える講師としての生活を始める。農業にいそしむ傍ら、近隣の農家を集めて農業の技術のほか、科学やエスペラント、さらには音楽や文学を教えていた。
楽団結成をもくろんで、賢治自らチェロやオルガンを購入して勉強、演奏する場もあった。
1928年に夏場での農業指導で奔走した疲れも伴って急性肺炎を発症して入院、2年間療養する。
1930年に回復し、肥料や農閑期に作られる製品の販売で東京などに出向くも、またしても病に倒れて帰郷する。このとき、「雨ニモ負ケズ」を手帳に書き記していた。
その後は文芸雑誌に詩や児童文学を投稿していたが、1933年に急性肺炎のために亡くなる。享年37。
死後、親交の深かった草野心平によって単行本として作品が次々と刊行され、彼は高い評価を得ることとなった。
▲中学校時代に恋愛のエピソードは残っているものの22歳で肋膜炎を患って、あと15年ほどしか生きられないと覚悟を決めていたせいか、その後の恋愛に関しても相手の気持ちを思ってか進展しなかったと思われる。
最終的に独身を貫くこととなった。
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