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島津斉彬


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島津斉彬1809~1858)とは、江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩の第11代島津氏第28代当である。


ここまでのあらすじ


源頼朝から薩摩大隅日向の守護職が島津忠久に与えられて以来、島津氏は代々南九州を治め、豊臣秀吉九州征伐で日向南部のみになるものの、所領の維持に成功し、関ヶ原の戦いでの敗戦もほとんど影することはなかった。さらに江戸時代初期には琉球事実上支配下におき、外様大名の中でもかなりの勢となったのである。

そして島津氏はかつての君・近衛氏と縁戚関係となり、将軍である徳氏とも密接な関係を結んだ。その最大のものが島津の代に、彼の・茂が徳斉と婚姻したことである。二人の婚約は斉がまだ一にいたころに行われていたため、前例のない外様大名のとの婚姻は、斉が将軍・徳治の養子になった際反対があったものの、5代将軍徳綱吉の養女で島津継豊の妻・の遺言でまとまったのである。

こうして将軍の岳となった島津は権勢を誇り、次々と他の大名たちがこぞって縁戚になろうとした。こうして南部丹羽佐竹、戸沢戸田、桑名柳沢松山黒田といった血縁グループが出来上がったのである。また島津斉彬の方も鳥取池田・弥で、姉妹毛利鍋島牧野秋月、にぎ、斉彬とともに合体を推進する阿部伊達とも縁戚にあった。また斉彬の正室は一・英でそのいとこは嶽であった。

と、ここまで将軍縁戚島津々しい躍進を見てきたのだが、島津将軍としての地位と、開化政策には支出を伴った。の財政は極めて悪化し、重息子島津斉宣は樺山税、秩父太郎を登用して革を行おうとした。ところが重の路線を否定した彼らの革は、重激怒させ、樺山らは切腹、斉宣も隠居させられたのである。

こうして後を継いだのが、斉彬の島津である。息子を隠居させたとはいえ、重自身も財政悪化は認識しており、斉を補佐して財政再建をもくろんだが、行き詰ってしまう。そんなさなか登場したのが調所広郷であり、斉と広郷の清濁交えた財政再建策は成功。広郷は家老に就任したのであった。そしてそんなさなか、1809年に斉彬は生まれたのである。


島津斉彬の誕生と藩主就任


1809年に生まれた島津斉彬は、伊達にも連なる、池田・弥に直接育てられ、和の学問に通じていたの英才教育を受けた。そのため文武両の斉彬は、「二つ頭」と呼ばれるほど、世間の評判となったのである。

しかし島津調所広郷が財政再建を行っている間、西欧日本周辺への進出が進んでいた。斉、広郷ともにこの危険性を認識し、洋式砲術の採用や、中村所の設立など、近代化・工業化を進め始めたのである。しかし斉彬はこれをより推進させようとし、財政を第一に掲げているたちとは相いれない存在となっていた。また従三位への昇進をもくろむは、ただでさえ意見の相違がある斉彬に督委譲をためらうようになったのである。

そんなさなか老中・阿部は斉彬をにするために暗躍する。彼は広郷が行っていた琉球の抜け荷を材料に、斉をおろそうとしたのである。斉彬がこれをためらううちに、広郷が詰めを切り、斉責任を逃れ、広郷に近い島津将曹らが登用されたままであった。

そして1847年、島津は斉彬の異島津を名代にし、翌年には久揮を執るようになる。このことは斉彬擁立には久・お遊羅の方に操られた斉が、斉彬ではなく久を擁立しようと映ったのである。さらに斉琉球に来航した外国人たちを呪詛しようとしたことは、お遊羅の方が斉彬一門を呪殺しようとしたという噂を広めることとなった。

そのことは斉彬の息子・寛之助、篤之助が相次いで病死したことで、斉彬近藤隆左衛門の暴走を招く。結果、近藤高崎五郎右衛門らが切腹に追い込まれ、島津壱岐をはじめとした斉彬が処分される。嘉永党事件、つまりお遊羅騒動である。

この結果斉彬井上経徳、木村仲之らは内で事態を打破できないと判断。福岡黒田斉溥に助けをめる。斉溥は阿部伊達に状況を報告し、阿部南部信順らが斉に隠居を勧める。これに渋った斉だが、徳慶の「朱衣肩衝」の贈与でついに観念し、島津斉彬がとなったのである。

斉彬本人は、お遊羅騒動の鎮静化を図り、島津も重用したが、西郷隆盛ら一般の士には両者が対立しており、お遊羅の方や久に良い印を抱けない、という禍根を残してしまう結果となったのである。


薩摩藩藩主・島津斉彬


こうして1851年に島津斉彬は薩摩に帰した。としての多忙の傍ら、市来四郎らにったように、軍備の近代化・強化を図ったのである。その際たるものが、集成館事業である。維新後の富強兵を思わせる、軍備・文化面の革はほぼ独で行われ、カッテンディーケをはじめとするオランダ人たちを驚かせるものであった。

しかし斉彬がを安定させつつある一方、1853年にペリーが来航した。斉彬は阿部らのルートから、あらかじめ察知していたようである。老中・阿部はあらかじめ対策を練ろうとするも、実現できず、外交問題に対して挙一致体制を築こうとしたことで、外様大名が幕政に関与するようになった。斉彬は攘夷は謀だと考えており、まず準備を整えたうえで、諸外と交わっていこうとしたのである。こうして阿部嶽、徳斉昭らとともに合体路線を推進しようとしたのだ。

しかし、ここで将軍継嗣問題が生じる。斉彬らは血筋が近くても幼い徳慶福(徳茂)ではなく、賢明な徳川慶喜将軍位につけようとし、井伊直弼松平忠固を中心とした譜代大名と対立したのである。しかし現在では将軍・徳定と斉彬の養女・篤姫との婚礼そのものは、たまたま6年越しの計画がこの時期に実を結んだというだけで、将軍継嗣問題とは関係だと考えられている。

一方老中首座が阿部から堀田に変わり、まもなく正は亡くなってしまう。このことは一にとっては大打撃であり、斉彬は西郷隆盛らを使って、他の同志たちと連絡を密にしていった。盛はに帰った斉彬に代わり、橋本左内、幾らと、篤姫を通して大工作を行っていったが実を結ばなかった。

一方一と南紀の争いは、に移り朝廷工作を行うものになっていった。島津斉彬や橋本左内は院宮(久邇宮親王)、近衛忠煕、三条実万らに、南紀長野義言は九条尚忠、鷹司政通に働きかけ、朝廷は通商条約締結を認めない結論を下したのだ。

そして、このことで孤立した関白九条尚忠は継嗣問題に関しては、独断で徳川慶喜を後継者にする三条件を削除した内勅にし、一朝廷工作失敗したのである。この間、堀田留守のうち、松平忠固らは井伊直弼を大老にし、直弼は勅許なしで条約の調印、徳茂の将軍就任を行う。この結果、幕府と朝廷の関係が悪化した一方で、一敗北したのであった。

島津斉彬はこうした内乱を危惧していった。そこで西郷隆盛に密命を下す。この内容は不明だが、斉彬自身が兵を率いて上するものであるとみなされている。これは安政の大などで不安定な情勢の中、内乱状態を防ごうとしたものとされているようだ。

しかし、この計画は失敗に終わった。嶽らが処分された4日後の1858年7月9日に斉彬はしい腹痛に襲われ、16日には息を引き取ったのである。これは釣ったを食べたことによるコレラ、または腸炎ビブリオの感染だとみなされている。ともあれ、事前島津に、嫡男・哲丸がまだ幼いため、島津本人かその息子島津忠義のどちらかを島津と相談のうえで後継にしてほしい、という遺言を残していった。この結果島津忠義が島津が後見役となる新体制が築かれたのである。

しかしカリスマ性で事業を進めるワンマンだった斉彬の路線は、その死後行き詰まり、政は混乱し、集成館事業などは縮小されていったのである。西郷隆盛照を連れてで匿おうとしたが、の対応に失望し、二人は鹿児島湾に身を投げた。

だが、島津の死後、島津島津忠義の後見となり、「順院様御深志」である島津斉彬路線の継続そうとした。こうして久合体路線を進めていき、時代は幕末に突入する。


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最終更新日: 18/07/01 11:18
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