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島津義弘


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島津義弘@武将風雲録

島津義弘(しまづ・よしひろ 1535 ~ 1619)とは、戦国時代実在した最強戦闘集団「薩摩隼人」の中でも、

と「マジ!?」と言いたくなる事実の数々に定評のある戦国最強完璧超人。通称「鬼島」「石曼子」。 

※この記事は薩摩島津17島津義弘について記述しています。越前の島津義弘はこちら[外部]参照。

概要


薩摩を統一した島津貴久の次男として生まれる。で16代当義久、同歳久、末久と戦国一の仲の良さと総合の高さに定評のある島津四兄弟」を構成し、島津氏中の祖である祖島津忠良からは、 

雄武英略をもって他に傑出する

と評されている。(出した後は祖にならって惟新斎と名のる。※維新じゃないよ。)

1554年、に従った岩攻めで初陣を飾り、の死後督を継いだ義久を補佐し、九州狭間と呼ばれる木崎原の戦いにて島津のお芸「釣り野伏せ」を用いて、寡兵で日向伊東氏の軍勢を打ち破ったり、肥後氏を降伏させ、大友宗麟龍造寺隆信らを破る等、本を守るの代わりに総大将を務める等して島津九州での版図拡大に前線で尽した。

豊臣秀吉九州征伐でも最後まで抵抗をしたが、義久の決断によりが降伏。義豊臣政権下に入り、播磨に領地を得て(江戸時代作の島津氏の文献によると)に代わって17代当となった。

※播磨の領地にて、検地等に協した井上茂一に、お礼として島津姓と丸に十字の家紋を与えた。
 この井上茂一の子孫が後に島津製作所を立ち上げる島津蔵である。

朝鮮の役にも64歳と言う現在ですら高齢の域で参加し、特に自らをとって大暴れしたの戦いでは明の大軍を7000で打ち破る等数々の武功を上げたとされ、李氏朝鮮の記録によると蔚山、順天城に続いて敗戦を重ねた明・朝鮮連合軍の心胆を寒からしめたという。ただし、20万の軍勢と戦い4万人近くを討ち取ったとされているのは流石に大きく誇されているというのが通説である。

この戦いをきっかけに、義は「鬼島」「石曼子」と明・朝鮮に恐れられたと言われているが、その記録があるのは日本側のみであり、明・朝鮮側の現存する記録にはない。「石曼子」の表現について朝鮮通信使の一人だった元重挙は『和誌』で日本側の記録を訳しながら「何を意味するのか分からないが日本の名のようだ」と記録 している。因みに日本において「」とは、強さを徴し、ある種の畏敬の念を込められた褒め言葉として使われることもあるが、中国朝鮮における「」 は恐ろしい亡霊、口にするのも憚られる忌むべき存在という意味がある言葉である。その為「石曼子」が事実であるならば日本語ニュアンスとは多少の誤差が生じるかもしれない。

露梁戦では隊の一斉射撃で李舜臣を討ち取ったという話があるが、李舜臣に当たって戦死したという事実はあるものの、島津勢が狙って行ったことなのか、そもそも島津勢がやったことなのかは不明である(島津勢をとした諸大名の連合軍であるため)。露梁戦は日本側の総大将たる豊臣秀吉の死去を知った明・朝鮮連合軍が、和議成立後にも関わらずこれを一方的に覆し、小西行長勢の撤退を阻んだため、既に撤退の準備を終えていた義らが急遽引き返して発生した戦いである。戦術的には、夜襲を受けた日本側は島津勢をはじめ各部隊がいずれも大きな損を受け、明・朝鮮側は夜襲を掛けたものの将官級の首を挙げることができず、李舜臣を失ったため、双方痛み分けとなった。戦略的には日本側は小西勢の撤退という標を達成し、明・朝鮮側は捕虜を多数獲得することに失敗した

関ヶ原の戦いに際しては、当初は朝鮮の役後の加増の件や、中の争いの調停を取り仕切ってくれた縁、そして家康より守備を依頼させていた事から徳方として参戦する為伏見に入しようとするも、守備を任されていた鳥居元忠空気を読めずにを拒否した上追い払うかの如く発した為、背中の面が浮かんでしまったであろう義の猛攻によって伏見は陥落してしまい、義石田三成の西軍につくこととなった。

※西につかせるように仕向けて島津を取り潰す家康の策謀だったとも言われている。

しかし、実質的に政を取り仕切っていた義久より援軍が得られず(名門の島津豊臣と徳と言うどこの馬の骨か判らぬ連中の為に軍を派遣するのはプライドが許さなかったとも)、手持ちの兵と「惟新さぁが難儀しいちょいやっど」と義危機を知って遠く薩摩よりマジで駆けて来た薩摩隼人達を合わせた10001500騎程のみだった為西軍中で重要視されず、攻めで旗下の島津豊久隊を置き去りにされたり、地での戦いが得意な家康に対して軍勢がまとまる前に夜襲を献策し、宇喜多秀家の賛同を得るもつぶされるといった西軍負けフラグの数々を順調に立てていった石田三成らが、決戦時に義を後詰に置くと言う負け確定フラグ立ててしまい、始まる前から戦闘終了のお知らせ状態にだった為か戦場では動かず、「采配のゆくえ」で萌えキャラ化した小早川秀秋の裏切りで趨勢が決まると、取られた西側よりも、まだ混乱している正面の敵へ向けて突撃するのが一番突破しやすいと考えて「島津の退き口(別名「島津の前退」「島津中突破」「島津の背進」)」を発動し、福島正則島津隊に手を出せず、島津豊久(捨て奸にて戦死)を失いながらも戦史上前例のい脱出に成功し、薩摩に帰還した。

※突破の際にボッコボコにしてやった上に死点咒↓↙←↓↙←+P)まで食らわせて重傷を負わせた井伊直政にその後の家康へのとりなしを頼み、直政名に応えて尽している。まさに”良い笑顔死ねる”戦いの本質を知る武士同士の心温まる逸話である。

の義久によって薩摩隼人達の戦う覚悟は了済となっていた事や、義に某半島で救われた東軍大名のとりなし、「もうこれ以上はヤバい」とこれまでの軍功ですりこみまくっていたおかげで、西軍参加大名で一の所領安堵&もお咎めしと言う毛利からすれば不にも程がある結果となった後、子の忠恒(島津四兄弟ではないほうの久)に督をゆずって隠居。85歳で畳の上で大往生を遂げた。

-島津義弘辞世の句

 紅葉もとどまらず
         人もしき関路なりけり

共に戦場を駆けていたら「花の慶次」の捨丸や岩兵衛のごとくワクワクして戦さの怖さも忘れるような存在だったであろう鬼島戦国時代を生きた薩摩隼人達は、後に、篤姫西郷隆盛東郷平八郎らを生み出している。 

また、直系の子孫に今上天皇・明仁陛下がいる。

ゴメン調子に乗りすぎた反省している。
 もっと正確性あふれる詳細についてはWikipediaの該当記事[外部]を参照してください。


薩摩隼人達


以下、島津義弘と共に戦国時代を駆けた薩摩隼人達である。いずれも曲者いである。 

      

中馬重方
(ちゅうまん・しげかた)
島津義弘が一番可がったポケモン木強者(ぼっけもん)な愛すべき馬鹿
後先考えない逸話にあふれる人物だが、関ヶ原を一言でった伝説を持つ。
柏木
(かしわぎ・もとひさ)
薩摩エリートスナイパー蔵とも。
関ヶ原の前進退却時、井伊直政に致命傷となる傷を負わせた男。貧乏体質。

(きわき・すけひで)
薩摩隼人で同じく大中馬重方と薩摩ツインタワーを構成する。
得意の医術で助けられた事等から島津義弘に心酔し、の死に際し殉死した。
服部宗重
(はっとり・むねしげ)
臣で、「霧島煙草国分」と現在に伝わる
国分煙草栽培に成功した煙草奉行。姓が服部なので忍者説がある。
瀬戸口重治
(せとぐち・しげはる)
島津ボンバーマンの戦いで、「」の食料庫爆破の任を受ける。
事たどり着くも脱出不可能と判断し、爆薬に直接火をつけて任務達成&爆死した。
実は、東郷重位の実
寺山久兼
(てらやま・ひさかね)
朝鮮の役や庄内の乱の際に活躍した猛将。
の戦いでは明軍の背後に回って敵を撹乱する活躍で勝利を演出した。
久虎
(えい・ひさとら)
宿を領有する島津義弘臣。
九州を転戦し、義から「九州統一の第一の功労者」と評されたが死した。
山田有栄
やまだ・ありなが)
関ヶ原に参加して義とともに帰する際に、箔で飾った自慢の
この時の為にとばかりに売って路にした事から、薩摩で蓄財が流行った。
島津久保
(しまづ・ひさやす)
島津義弘の長男。「くぼ」じゃないよ「ひさやす」だよ。
島津義久にし、後継者として期待されていたが某半島で病死。
島津忠恒
(しまづ・ただつね)
島津義弘の三男。
後に「久」と名するが、同名の人物に島津四兄弟最強の戦術がいる為、
初名の忠恒で呼ばれる事が多い。かなりのDQN敵は伊集院忠棟
島津豊久
(しまづ・とよひさ)
島津四兄弟の方の島津家久の嫡男。幼少時にを亡くした為、
以後は島津義弘に息子の様に育てられる。戦国無双ではモブなのに人気キャラ
どうやら異世界にいって妖怪「首おいてけ」になったらしい。
多盛
(あた・もりあつ)
別名:長寿院盛。愉快な連中をとりまとめる事務方な家老
関ヶ原の退却時に義の身代わりとなって羽織を着用、戦死した。
忠詮
(かつら・ただのり)
九州征伐に最後まで抵抗しわずかな兵で佐麓を守り抜いた。
この時の武勇が讃えられ後に秀吉から宝寿の短を下賜した。

ニコニコ動画での島津義弘


コーエーの「信長の野望」等の歴史SLGや、同じくコーエーアクションゲーム戦国無双」、カプコンアクションゲーム戦国BASARA」に登場している。

60を過ぎてからも某半島や関ヶ原で活躍した、と言うか関ヶ原の件が有名すぎるせいか、「戦国無双」や「戦国BASARA」では、老人キャラとして登場する。

ともに「老いて益々盛ん」な老将として描かれており、巨大なハンマーを振りまわしたり、巨大なを振り回して並み居る武将たちと闘を繰り広げている。(※戦国無双でのCV江川央生戦国BASARAでは緒方賢一

歴史SLGでは、ほとんどの場合において九州最強の武将としてを設定されている。

※「信長の野望 武将風雲録」では、西逆チートで弱めだが、以降のシリーズでは上杉謙信に続く戦闘キャラと化している。肝付伊東・相良をする様はと書いてオーガと読むと言わざるをえない。

上杉謙信が精性での強さの事例となっているのに対して、島津義弘はがフィーチャーされる事が多い為、「軍」系の特技よりも「」系の特技を高いレベルで所有する事が多い。まぁ軍まであったら大友龍造寺涙目だし、仕方ないね

兄弟及び一族に優秀な人間っている事と、地理的な面から架空戦記ではどちらかといえば中ボスラスボスを務めるパターンが多い。(きっと毛利一族の呪いに違いない) 


戦国大戦


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大将の重さ、とくと味わいな!」

CV:杉田智和コスト3.5、武11は戦国大戦でも2位である(軍は0.5コスト上がって武12)。統率も7と均以上あって、更に特技は武と相まってしぶとさを増す気合、士気を助ける魅、そして島津隊標準装備の撃と3つ。3.5コストとしても破格のと言える。流石鬼島


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最終更新日: 19/03/08 08:01
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