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平沢進


ヨミ: ヒラサワススム
掲示板をミル!
1552カキコ!

肖像@お絵カキコ 平沢進(ひらさわすすむ サトワン88394月2日~)は、ステルスメジャーでありTwitter / Susumu Hirasawa: 44,751人もフォロアーが居て「マイナー」表明に同意されないのなら、私は「ステルス・メジャー」を標榜する。[外部]音楽家であり、音楽プロデューサーであり、CGアーティストであり、なで肩でもある年齢不詳のTwitter / Susumu Hirasawa: あのな、だいぶ前から「年齢不詳」ということでコントロールしてるんだからな。[外部]65歳である。

 称は「師匠」「ヒラサワ」「おっさん」など。有限会社ケイオスユニオン所属。


概要


 1954年東京にて出現が確認される。小学4年生の頃からギターを始め、翌年には「年上の人達とバンドを組んでいた」などの話もある。

 高校卒業し、専門学校へ進学後の1970年代前半からは、プログレッシブ・ロックバンドマンドレイク」のボーカルギターとして活動していたが、どんどんと硬直化するプログレというジャンルに嫌気が差し、テクノポップに路線を変更。1979年にはマンドレイクを発展解消して「P-MODEL」を結成、メジャーデビューを果たす。直後にはプラスチックスヒカシューらとともに、70年代後半から80年代社会とまでなったテクノポップブームを巻き起こした。彼らはテクノ御三家/三大テクノと呼ばれ、数多くのテレビ出演も果たした。

 しかし、人気の高まりの中にあったこの当時の平沢が最も生活的に困窮していたが、当時の平沢は既に「有名人」で顔も割れていたため、表立ったアルバイトを行うことすら出来なかった。結果的に面下で働くことが可シンセサイザー講師の職業に就き、この時に出来たコネがきっかけでCM音楽制作などを始めるようになったが凝集する過去 還弦主義8760時間 introduction 平沢ソロのできるまで[外部]、このCM音楽制作において「多種多様な音楽を作る」経験をする。これが後のソロ活動に繋がるとは本人もよもや思わなかったであろう。

 1988年凍結」という形でP-MODELは活動を一旦休止し、その翌年には初のソロ作品『時』を発売。P-MODEL音楽とは全く違う、いわば「テクノからの脱却」を見せた。その後2作のアルバムを発表した後、1991年からはP-MODELの活動が「解凍」。2000年に「培養」宣言を出すまで並行して活動を続けて、一時期はソロP-MODELで年2枚のアルバム制作P-MODELツアーと自身のソロライブを行うというフル活動を行っていた。


インタラクティブ・ライブ


 1994年からは、自身のライブ演において「インタラティブ・ライブ(INTERACTIVE LIVE)」を開始。に新作アルバムライブはこの形式で行われる。

 これは客席にいるオーディエンスの反応(歓、拍手など)や、インターネットからの「在宅オーディエンス」の参加(1998年に開始)によって、ストーリー仕立てになっているライブの結末が変わるというもので、正しい方向へ導かれないとバッドエンドゲームオーバーが待っていることも。

 なお、2000年開催の「INTERACTIVE LIVE SHOW 2000賢者プロペラ』」は、「デジタルコンテンツグランプリ2001」において経済産業大臣賞とエンターテイメント部門最優秀賞を獲得している。


音楽の著作権・権利


 日本音楽著作権協会(JASRAC)やレコード会社、それに付随する出版会社の「権利管理」「版権関係におけるトラブル処理への(JASRACの)未介入」などに疑問を持ち、“自分の好きな出版会社と自由契約したい”と一回ゴネた経験を持つ「補償金もDRMも必要ない」――音楽家 平沢進氏の提言[外部]。なお、平沢P-MODEL時代の曲において、音楽出版会社とのトラブルから100曲ほどの著作権料が支払われなくなるというトラブルも抱えているMP3音楽配信を開始した「P-MODEL」の平沢進氏に聞く[外部]

 1999年にはMP3という圧縮の出現によって、プロミュージシャンとして初のインターネットでの音楽配信を始めた。現在ファンに向けて既存曲の別アレンジ版を有料配信したり、アルバムリードトラック無料配信するなど、配信を活用しているとも言えよう。


Talboと平沢進


 東海楽器製造が生産・販売を行うオールアルミギターTalbo(タルボ)」の最初期からのユーザーとして知られる。その未来的な貌と「売れないかもしれない」という思考から使い出したという、まさにツンデレひねくれ者平沢らしいエピソードもある。

 平沢所有の初代Talbo90年代半ばまで使われたが、老朽化及びTalboの生産打ち切り(Talbo平沢の予測通り売れ行きが芳しくないギターであったにも関わらず、東海楽器Talboに固執しすぎて経営危機やらかしたことから)のため徐々にフェードアウト。同時期からフェルナンデスに作ってもらった「PHOTON」というTalboモデルの木製ギターを使用している(現在サブギターとして)。

 なお、この初代Talboであるが、2011年にリペアを受けて「TALBO-ASTRO」として生まれ変わった(参考リンク:Twitpic / hirasawa[外部])。ボディはそれまでのシルバーからゴールドへ生まれ変わったほか、各所に変更が施されている。

 2004年開催の「核P-MODEL 1st LIVE 『トーキョー・ビストロン』」から、現在に至るまで使っている3代Talboには「ICE-9」という名前が付けられ、同名のアルバムリリースされた。なお、ICE-9は池部楽器店が導する「TALBO Secret FACTORY[外部]」によって作られ、平沢の意向で仕様オープンになっているため、ICE-9と同スペックTalboをオーダーすることも可である。

 ちなみに、現在Talboユーザーといえば代表に挙がるのはHISASHI(GLAY)だろうが、彼は平沢に影を受けてTalboを使い始めたギタリスト・Hackai、また平沢とも親交があったボーカル・ケラらを擁する有頂天に影を受けTalboユーザーになったんだ。だからHISASHI平沢おや、誰か来たようだ


今敏と平沢進


 アニメ監督今敏平沢ファンとして有名であり、自身の作品『千年女優』(2002年)、『妄想代理人』(2003年WOWOW)、『パプリカ』(2006年)の題歌や劇伴制作の際に平沢を起用している。その熱狂ぶりは頻繁に平沢ライブへ足を運ぶほどのもので、度々ファンからの情報が出ることもあった。

 ファンになったきっかけは、今をこの業界に誘い入れた北久保之からP-MODELアルバムSCUBA』を聞かされたことであるTwitter / 佐倉 大 (北久保弘之): @hirasawa. 初めまして、平沢さん。北久保弘之と言います。今 敏さんをアニメ業界に引っ張りこんだのも、P-MODELのスクーバを聴かせたのも北久保です。俺もアニメの監督を演っててしかも今さんと俺は同い年でした。平沢さんの心中、お察しします。又一人貴重な人材が旅立ちました。[外部]。その後、今の高校時代からの友人で音楽ライター/雑誌編集者高橋かしこから平沢を紹介され、知り合う。後に別ルートから仕事で共演し、以降は私共に親しい関係であった。

 2010年8月24日に今が逝去した際には、出時の音楽として平沢の楽曲「ロタティオン (Lotus-2)」が使用されているTwitter / Susumu Hirasawa: 本日も告別式ではずっとヒラサワ曲が流れ、出棺は「ロタティオン」だったそうだ。偉大な今さんの人生のフィナーレに私ごときの音楽が役に立てて光栄の極みである。正座。合掌。今さん、恐縮です。[外部]


タイと平沢進


 タイ王国との関わりが非常に強いことで知られる。元々1994年頃にプーケットへ「ファンクラブ旅行の下見」で訪れた程度であったが、文化やタイ民の人間性に強い興味を持ち(現在は「タイショック」などと呼ばれている)、その後の作にも大きく影を与えた。現在外逃亡と称して度々タイを訪れている他、楽曲の制作も行っている。タイ語も使える。

 また、タイの性別適合手術を行った男性(性同一性障害のため。いわゆるニューハーフ)に興味を示し、私的に交流を行っている。当初平沢は“彼女”らを表す際、“彼女”らが自らをすため使っていた「カトゥーイ(kathoey)」と呼称していたが、タイでは侮蔑の意味も含む単となることを知って以降、“第二の女性”を意味する「サオプラッペーッソーン(saopraphetson)」を平沢なりに略した「SP-2」を用いるようになったNO ROOM - Phantom Notes 「カトゥーイ」禁止令[外部]2008年にはSP-2と平沢の交流記や平沢が撮影したSP-2の写真めた書籍も出版されている。


核P-MODEL


 2004年から平沢が行っているプロジェクト(不定期)。P-MODELとは全く異なるものと定義され、公式サイトの説明[外部](リンク切れ)には

不可思議な物質(あるいは生物?)「アシオン」にまつわる 大規模な人体実験として活動を続けたP-MODELは、その20年にも及ぶ実験レポートを既出太陽系種音」の中に開し、静かに「培養期」へと突入した。

2004年のある日、P-MODELの再編成を待たずして異変は起こった。

同じく「生物説」に基づき培養器の中で観察されていた「アシオン」の、核とも呼べる中心部に突如生じた動的活動パターン。執拗に繰り返されるパターンに「意志」を見たヒラサワは、 その活動そのものを「核P-MODEL」と命名し、一人パターン翻訳に没頭した。

かくしてここに、核P-MODEL翻訳アーカイブVISTORON」は誕生した。

とあるが、要するに平沢が一人でP-MODELをやりたかっただけ……ではなく、P-MODELとしての活動を予定していたものの、メンバーの招聘に失敗したことで平沢が個人で行うことになった、というのが正しい。

 現在までにアルバム3枚(うち平沢との共作名義1枚)、シングル2枚、DVDを発売したほか、2004年には東京・全労済ホール スペースゼロで、2014年にはサポートPEVOからPEVO1号を迎え赤坂BLITZと、平沢とのジョイント名義でエプソン品川アクアスタジアムでライブを行っている。


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最終更新日: 19/08/07 17:34
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