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志村けん


ヨミ: シムラケン
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志村けんとは、東村山が生んだ日本を代表するコメディアンである。

本名は「志村康徳(しむらやすのり)」


概要


ドリフターズメンバーであり、正式なメンバーの中では一番若い(2019年現在、69歳。最高齢は高木ブーの86歳)

ドリフターズのボーヤ(今で言うところの付き人)を経て「8時だョ!全員集合」「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」などに出演、民的人気を得る。自身の出世作ギャグ東村山音頭」のおかげで「東村山=庭先には多摩」とインプットされた日本人は少なくない。

現在じゃんけんにおいて一般的な掛けである「最初はグー」を世に浸透させた人物でもある。
また、視聴者投稿による面VTRというテレビ番組のジャンルを発案し、日本のみならず全世界にこのジャンルを広めるきっかけを作ったのでも知られている。 

出演番組は中国台湾インドタイイランなどでも放送されているため、海外でも知名度は高い。

あだ名は「ケンちゃん」、「ケン坊」、「しむけん」など。


コントにおけるスタイルなど


全員集合」や「ドリフ大爆笑」における彼の立ち位置は他のメンバーべても明らかにねじが一本抜けているような役柄が多かった。(母ちゃんコントなど)また、加藤茶と二人してボケをしていかりやにそろって突っ込まれる事が多かった。ドリフターズの中では一番年下なので他のメンバー的な位置で演ずる事も多かった。加藤の付き人であった事もあり、ゲストが出るコントでは加藤相方である事が多い。これがその後に「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」につながるとされる。

一方で「志村けんのだいじょうぶだぁ」など自身が冠を務める番組内においては共演者に突っ込みを入れたり、そうかと思えば酔っ払い婆さん役などのボケ役を恰も本物の如く演ずる事に定評があった。ここ数年はダチョウ倶楽部暴走に対して、強に突っ込みを入れるなど、師匠であるいかりやのような立ち位置になってきている。

彼がコントにするテーマは「全員集合」以来、一貫して日常を大きく逸脱しない範囲での事上にすることが多く、非現実的なテーマを取り上げることはほとんどない。この辺りは他のドリフメンバーにも大なり小なり言えることであるが、彼の場合はそのこだわりを維持するため、ネタとするにはあまりに難解かつ非日常の描写が多い漫画の部分を飛ばす、もしくは破り取るほどである。その一方で床が抜ける程に集めた映画をもとにコントの研究する事が多く、これらの成果をもとにコントを練っていったともいわれる。

そして喜劇人としての演技の高さに加えて、割合にシンプルな言い回し・身振り手振りで容易に意味を解する事が出来るコントが多いため、海外の人からの人気も高い。これをたどると、師であるいかりや長介の実体験に行きつく。いかりやが駆け出しのバンドマン時代、言葉のがある兵相手にコミックバンドをやっていた経験より、ドリフにおいてもそのノウハウをスライドさせていた。このため、志村の番組がほとんど放映されていないアメリカにおいても彼の人気があるといわれている。

さらに原点をさかのぼると、志村が大きく影を受けた俳優としてアメリカの喜劇俳優の「ジェリールイス」にいきつく。ジェリーの「底抜けシリーズ」などが多感な時期の志村の感性を刺し、今に続くスタイルの原となった。また実家父親が非常に厳格な人物であり、庭内の雰囲気も重いものであったが、落語などのお笑い番組を見ている時だけは父親も笑いをこらえていたり、雰囲気も明るくなったのでその経験がお笑いすきっかけとなった。

このようにお笑いに対する姿勢は非常にストイックであり、志村を尊敬、あるいは芸で影された芸人は多い。


海外における志村けん人気


海外においても志村けん人気は高く、日本に赴任している米軍関係者より高評価を得るほどとなっている。アメリカでは志村の番組が本放送されてはいないので、この評価は注される点である。なお「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の「おもしろビデオコーナー」はある意味youtube流の一つとも言われている。

台湾ではドリフ関連の番組は志村爆笑とひとくくりにされるほどに志村けん人気が高い。ウィキペディアも各種言で記事が作られている所にも人気の高さがうかがえる。


志村と音楽


ドリフターズが元々はコミックバンドという音楽出身である為、彼もまた音楽に対する造詣が深い。後述するが、ビートルズの影所ジョージの親戚とバンドをやっていた経験もあり、映像ではあまりおにかかる事が少ないが、ギターを担当してる場面が存在する。これがあってか近年のライフワークの一つである津軽三味線に繋がっている。以前より三味線コントの中で披露する事も多かったが、若手実上妻宏光から導を受けて本格的に舞台などで披露している。上妻が思ってた以上に上達がく、志村センスの高さがうかがえる。なお、弦楽器全般に通じているようでコントの中でを弾く場面も存在する。この際、ギターテクニックの一つであるチョーキングを用いている。


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ビートルズソウルミュージックの大ファンとしても知られ、「ドリフ早口言葉」「東村山音頭1丁」「ヒゲダンス」などにその影を見ることができる。特にヒゲダンスは、志村の提案でテディペンダーグラスというソウルミュージシャンの楽曲「Do Me」のイントロからのフレーズ引用されている。ちなみに志村ビートルズ来日の際にコンサートを見に来ており、写真撮影が禁止されている中で隠し取りを決行、その日の映像は収録されていなかった為、結果的にその写真は非常に歴史的価値の高いものとなった。なお、志村がいた日には担当していなかったが、ビートルズ日本演において前座を務めたのが後に自身が所属する事になるザ・ドリフターズである。いずれにしても、志村の冠番組でビートルズの楽曲が流れるというように彼がビートルズから強い影を受けているのは明である。

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経歴


本名の「志村康徳(しむらやすのり)」は、徳川家康のような大物になるよう父親から命名された。芸名の「けん」は父親の名前「」に由来している。

父親は軍人上がりの教育者であり、非常に厳格な人物であった。母親は芸事をたしなみ、志村自身は母親似と言っている。母親は後に「志村けんのバカ殿様」など息子の番組に何度か出演している。3人兄弟の末っ子であり、らは公務員であり、以外は二つな姿が話題となった。

庭の方針で都立久留米高校(当時)に入学。この高校サッカーの強校で非常に有名であり、志村自身もゴールキーパーをしていた。また、当時は大卒者を多く輩出することでも知られ、難関校として知られた。なお、志村が合格することはないだろうといわれてたのが、いざ蓋を開けてみると合格者は志村のみであり、自頭の良さが垣間見える。

これと前後して父親交通事故に遭遇、その後遺症により認識障となり、物事の判断がつかない状況となった。後にじいさんコントで見られる「めしゃ、まだか?」「婆さんの姿が見えねぇんだけどな」の繰り返しの問答父親のその時の姿をモデルとしたと言われる。

1968年ドリフターズリーダーであったいかりや長介の自宅に押しかけ付き人となる。その後脱走したり、付き人仲間お笑いコンビを組んだりと紆余曲折を経る(なお、芸デビューは前述の付き人コンビを結成し初舞台を踏んだ1972年とされており、芸歴はビートたけし笑福亭鶴瓶同期扱いとなっている)。この際、出席日数が足らず高校卒業が危ぶまれたが事に卒業しており、この際に大学に行かなかったのは志村だけといわれている。その後志村はかなり時代を下った後に放送大学卒業している。

脱走劇ののち、付き人をしていた加藤の口添えによってメンバーに復帰する。なお加藤の付き人をとしてなると運転手もやるのだが、志村運転免許を持っておらず(2019年現在も所持していない)、運転は加藤が行うというものであった。

 1974年荒井注ドリフを脱退したのと入れ替わりで正式メンバーとして加入。当初はいかりやは自分と同世代の人間を迎えようとしたのだが、加藤茶が自分と歳の近い志村の加入を強く推したため採用された。なお、当初は名前が「志村ケン」とカタカナ表記になったり、「志村健」と漢字表記になったりしていた。

しかし、ドリフメンバーとなってからすぐに人気者になったわけではなく、1976年の「東村山音頭」のヒットまで泣かず飛ばずの苦難の時代を経験する。世間からは荒井注べられ、準メンバー扱いの付き人・すわしんじの方が良かったのではないかという意見も強かった。だが、「東村山音頭」をヒットさせると状況が一変。立て続けに「カラスの勝手でしょ」「ディスコ婆ちゃん」「ヒゲダンス」「バカ殿様」とヒットギャグキャラを連発させ、加藤茶をもドリフ最大の人気者にまで上り詰めた。金田一コントでは背後に気が回らない金田一耕助役を演じ、観客の子供から志村ー!うしろ!うしろ!」とツッコまれる定番ネタも生まれた。

1981年競馬のノミ賭博容疑で書類送検をされ、仲本工事とともに約1ヵ活動を自粛志村は賭けが少額であったため、起訴猶予処分が下された。しかし、復帰後はにまつわる自虐ギャグセルパロディにしてみせる器の大きさを見せつけた。なお、現在志村は自身のを何頭か所有している。有名どころはアイーンベル」である。

1985年の「8時だョ!全員集合」(TBS)終了後からソロ活動を本格化させる。「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)、「志村けんのだいじょうぶだぁ」(フジテレビ)で個人としての人気を不動のものとさせ、「だいじょうぶだぁ太鼓」変なおじさんなど独自のキャラギャグ確立させた。

満帆のように見えたが、1996年に突如死亡が流布される(後述)

この当時、出演番組が一時的に減り(当時出演していたレギュラー番組は深夜の冠番組1本だけであった)、なおかつ他の芸人のメインの番組にはあまり出演しなかった活動が裏に出て、「宇都宮のがんセンター栃木県立がんセンター)で死んだ」「亡くなったことは四十九日を過ぎてから発表される」などという具体的な内容の噂が流行した。

最終的には志村本人が登場して全くのであると発表する奇妙な事態にまで発展した。これは 芸名と同じ「しむらけん」さんと言う方が実際に亡くなり、それが「志村けんが死んだ」と言う事につながったものと思われる。

この反からか、以降は自分のメイン番組以外へのゲスト出演もこなすようになり現在に至る。


死亡説について


前述のとおり、1996年突然出てきた死亡説は当人の出演によって、否定されたわけだがここまで大きくなった要因はいくつか存在する。

出演番組の減少

最盛期(1990年代前半)における志村けんの番組は…

という具合に1週間の間でテレビで見かけるケースが多く、また季節の折々に「志村けんのバカ殿様」が放映されていた。この他、これらの番組とは別に単発でコント番組が放映されており、放映もゴールデンタイムであったので子供から大人まで広く周知されていた。

しかし、1992年から1993年にかけて大人気を誇った「志村けんのだいじょうぶだぁ」と「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が終了、「だいじょうぶだぁ」の後継である「志村けんはいかがでしょう」→「志村けんのオレがナニしたのヨ?」→「けんちゃんのオーマイゴット!」まではゴールデン時間帯での放映であったが、1996年9月からの「志村X」は24時20分からの放映になった。

またこの当時の志村バラエティ番組への出演は極めて少なかった。実際、憑依芸人と例えられるほどに印深く、そして卓越した演技があったが、演技を離れると非常に照れ屋で、口数も少なかったと言われ、この手のトーク中心の番組を敬遠していた。実際、「笑っていいとも」で桑野信義が出演した際、テレフォンショッキングの出演依頼を拒否するという具合に底していた。

その為、放映が中となり、ゴールデン時間帯で志村を見るとなると不定期のドリフ大爆笑バカ殿様となり、急な露出の減少が死亡説の要因の一つとなった。

噂の混同

この手の噂は尾びれ背びれがつくのが常である。

まず志村けんと殊更言われたのは実在する「しむらけん」さんという人物が亡くなったからと言われる。「志村けん」とは芸名であり、本名は「志村康徳」である。新聞で芸名を持つ人物が死去した場合は、本名が乗るのが常である。しかしながら、今のように芸名か本名を一発で調べられるような時代ではなく、また本名についてそこまで周知されているとは言い難かった。

次に「亡くなったことは四十九日が過ぎてから発表される」の出どころであるが、同じ年に渥美清が死去しており、この際に荼毘に付してからの発表がなされたため、これがなぜか志村けんと結びついたとされる。

このほか「今放映されている分は生前取り貯めたもの」というのは詳細は不明である。ちなみにこの手の急逝の場合、放映中に「※このドラマは○×日に収録したものです」というテロップが流れるのが常となっている。

直接関係あるかどうかは分からないが、「志村けんのだいじょうぶだぁ」では視聴者を泣かす意味でコントとしては全く例を見ない笑いを排除した、死別などをテーマとしたいわゆる「シリアス無言劇」が放映されたこともあり、この手の話題付けしたとも考えられるかもしれない。


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最終更新日: 19/06/15 23:46
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