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戦国時代


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「時は戦国・・・」

戦国時代とは、

  1. 春秋戦国時代の後のほう、下克上によって滅び、に分裂した後のことと一般にはされる。
    春秋戦国時代
  2. 1から命名された日本の時代区分の一つ。時代区分としては室町時代安土桃山時代と被ったりかぶらなかったりする。
  3. 2から更に、業界の覇権を持つ者がはっきりと確定せず、大小の勢が入り乱れた状態を喩する言葉。有が3つだと三国志と呼ばれる。

概要


統一政権が存在しない、または衰弱・消滅した状態で、複数勢戦闘を断続的に繰り返し覇権を争っている時代を言う。
単に戦国時代と言えば日本歴史上の戦国時代をすことが多いが、中国歴史上の戦国時代をすこともある。


日本の戦国時代


日本におけるこの時代を戦国時代と称するのは、中国の戦国時代を踏まえた後法成寺関白記の「抑世上の儀、偁うに戦国の時の如し」に由来するとされる。

明確に時代区分を出来るわけではないが、15世紀後半からから16世紀にかけてのこととされる。始まりも終わりも諸説色々。以下に各説を挙げていく。

始まりの説

  1. 1455年:関東に限れば較的有意義な考え。室町時代関東を統治した鎌倉方の機構が崩壊し、以後関東は戦乱の時代に突入する。
  2. 1467年:応仁の乱が始まった年。かなり一般的な説。乱の終わりには、京都の荒と幕府権威の失墜、守護領制の崩壊と戦火の全的拡大という一般に想像される戦国時代の要素が大体そろうため。但し、最近の研究で、畿内や近畿周辺では、大名達も幕府の動員に従っていることや地方でもしばらく幕府の裁定が認められていることから、畿内や近畿周辺では、応仁の乱後も幕府や将軍は一定の実権や権威を保っていることが分かっており、そのため下の1493年の説が較的有な説となっている。
  3. 1493年:明応の政変が起こった年。足利将軍細川氏を中心とする配下によって立させられた事件。近年の日本史学会ではこちらが基本。足利将軍が二流に分かれたことで、幕府奉公衆も二分し、足利将軍軍事的基盤は崩壊、以後、足利将軍は何者かの武背景にしなければ、将軍位に付けない状況になる。
  4. 1494年:北条早雲伊勢討ち入りの年。明応の政変の説が出る前は割と言われた。本来、武を持たない人間が、幕府(堀越方)を滅ぼすという下克上徴の事件と言えるため。ただし、近年は、早雲伊勢討ち入りは明応の政変と連動しており、早雲自身の意思だけではなかったと言う説が有

終わりの説

  1. 1568年:信長の年。以後、下が信長の元に帰していくその徴の年。但し、まだ信長肩する戦国大名は全にいる。織豊時代あるいは安土桃山時代の始まりとも。
  2. 1573年:義昭追放、室町幕府崩壊の年。以後、中央政治から足利氏は消え、織田信長天下統一筋は決定的となる。織豊時代あるいは安土桃山時代始まりとも。
  3. 1587年:豊臣秀吉による関東羽への惣が出された年。定へ諸々の政策はあったが、全の政策の施行をした初のもの。これは地方の大名への大義名分となり、これによって、諸大名の帰順や北条氏やいくつかの大名は取りつぶしが起こった。とはいえ、例外も多い。
  4. 1590年:北条征伐、小田原の日。これ以前に、州の伊達政宗秀吉に帰順しており、武を以って豊臣氏に逆らいうる大大名はいなくなったから。
  5. 1590年:州仕置の年。北条氏滅亡以後も、関東州には豊臣氏に反抗しているものがおり、これらの定をもって、定とする考え。
  6. 1591年:九戸政の乱鎮圧の年。州仕置以後も、豊臣氏の政策に反発するものがおり、州では、葛西大崎仙北など一が多発していた。これらの鎮圧のために兵を出し、最終的に九戸政の乱鎮圧を以って、一は収束した。これをもって天下統一とみなす考え。
  7. 1600年:関が原の戦いの年。天下統一後も、豊臣政権の基盤は磐石ではなく、秀吉死後、結局下は家康に帰することとなった。この年の戦いによってそれは決定的となった、即ち戦国の世が終了したとする考え。
  8. 1603年:徳川家康征夷大将軍就任、及び江戸幕府開府の年。これによって二年の太が始まったため。
  9. 1615年:大坂夏の陣豊臣氏滅亡の年。元和偃武の始まり。
  10. 1638年:天草の乱鎮圧の年。この乱は、当該地域の浪人が多数参加しており、単なる農民反乱ではなく、戦国空気が残っていた中での勃発のため。以後、大平八郎の乱まで幕府軍が公式に出動をすることはなかった。

なぜ、このように始まりや終わりに諸説あるかといえば、他の時代区分にべ、戦国時代があいまいであるからということにつきる。日本の時代区分は飛鳥時代から江戸時代までは、政治の中心地によって名づけられており、それ以後は、天皇の在位によって区分されている。ところが、戦国時代は「政治の中心地がない時代」が定義であり、従って人によって基準にばらつきがでるのである(にたようなのに「幕末」がある)。

戦国時代はその性質上、様々な英雄が出現しまた各人の人気も高いが、果たして歴史上価値のある人物を
挙げるとするならば織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康の三名にまで絞られるだろう。
逆を言えば、その他の武将や大名はどんなに人気があったとしてもテストに出る事はい。
先生戦国オタだったりした場合はその限りではないが、やはり入試には出ない。
入試の問題を作った人が戦国オタだったりした場合もまた、その限りではないが、やはり配点は低い。
しかしまあ、出る時は出るので、勉強はしておくに越した事はいだろう。


戦国時代の流れ


応仁の乱直前

戦国時代の始まりの一端は、室町幕府代将足利義教嘉吉の乱によって赤松満祐に討たれたこと。彼は将軍への権集中を進めており、その過程でままならぬなら、大名やもう一つの足利鎌倉方ですら滅ぼしている。しかしそうしてできた将軍への権集中は彼の死によって崩壊し、それによって幕府内部も混乱に陥る。強大な権がなくなり権隙が生じたためであり、如何に幕府が混乱していたかは彼の死後一箇ぐらいは赤松征伐軍が編成されなかったのを見れば分かる。また混乱と同時に、彼の亡き後の隙を埋めるように大名間の政争が始まっていった。大を持ったおじいさんが死んだ後の遺族を想像すればよろし。

しかも、彼の死後七代将軍には彼の息子足利義勝が就いたが、十歳の幼君である上、一年立たずに死亡した。

その後の将軍足利義政である。彼は初期においては大名の争いに介入するなど意欲がみられたが、次第に近臣たちや有大名の政治介入に嫌気が差してきたようであり、建築宴に入り浸りになる。何しろが飢餓者で埋まり、そのことで天皇からもどうにか対策せいと言われたのに視したほどである。んで、近臣の専横がひどくなります。

それに合わせて、大名たちの争いがひどくなってくる。まず、赤松討伐の第一功労者ら顔の山名持豊(宗全)がかつての山名氏の繁栄を気付こうと勢し始める。また管領細川勝元がこれに対抗し、赤松討伐の武功をもつ宗全に対し、赤松などとやらかす。ついでにこれを止めるべき他の管領畠山や斯波もお争いを始めるわ、各地の大名も似たような状況になるわで大変。そしてこれに先の両者が絡んでくる。

こうして、争いの土壌は形成されていったが、それでもまだ彼らは妥協し合うなどの余地があった。というか彼らは宗全の婿が勝元であったし、本来協しあっていたのである。それを更にややこしくしたのは義政自身だった。彼は妻日野富子との間に子供ができないといって、義尋を還俗させ義視と名乗らせ、将軍補としてしまうのである。この時彼は28であり、か若いような気もするが最彼にとって政治なんてどうでもよく、飲みながら建築に明け暮れたかったのだろう。文化人である。

が、この翌年に富子が男子を産む。これが問題とならないがない。しかも、富子はだいぶ気の強い女であり、義視が細川政元の後見を受けていたのでだったらと、山名持豊に義尚支援を頼みに行く。でも、義政は知らぬ顔して文化事業に明け暮れた。優柔不断とも言う。しかも彼の側近は大名によって追放されており、どうにも政治が動かない状況になる。

応仁の乱とその影響

そうこうしてるうちに、終に京都は上御霊神社畠山の武衝突が始まった。これをきっかけに守護達が京都へ集結。およそ三十万弱の兵が十年以上戦い続ける応仁の乱が始まったのである。これに参加した大名は西は九州北部から西は駿河までに至り、影を受けた地域は州からの果てまで日本に及んだ。そして京都となる。「先の大戦(おおいくさ)で全て焼けてしまいました。」そんな中でも義政は宴と建築にふけっていたらしい。最執念すら感じる。

最初に述べた通り、六代将軍は足利義教臣に殺されており、その点で赤松満祐下克上の先をうったといえるのだが、この時には、これまでの戦いとは較にならないほど足軽傭兵が活躍した。と同時に両者が、味方を増やすために格を視して役職につけた上、下克上潮と相混じり各地で守護大名が守護代やその下の地位のものに脅かされ始めた。例として、越前では斯波氏が、朝倉に、加賀では冨樫一向宗にといったように。但し、この当時族や農民商人たちの生産室町時代を通じて増大しており、それまでの既得権益者との利益の歪みを正しただけとも言える。

ついでに言うなら、とかした京都を捨て地方に落ちていく文化人が地方の文化を活気づけたことは見落とせない。それによって土佐一条氏地方に小京都と呼ばれる都市ができていった。全く流石は文化人義政。でも応仁の乱で各地のお争いが触発されたため、文化ついでに争いの種も地方かれている。

その後

応仁の乱は、乱のたる原因である細川勝元山名宗全が死んだことと西軍ので合った大内氏の帰により自然に立ち消えとなる。義尚が将軍となるも、後には義視系統と義政系統の将軍が交互に就任する。暫くは、近畿地方ぐらいは支配下に収めていた幕府であったが、明応の政変によって全にその権威を失う。その後の近畿では細川政元細川澄元→細川高国大内義興細川晴元三好長慶といった感じで勢争いが繰り広げられ、三好なきあとは松永久秀三好三人衆の政争が続きさしたる勢も現れないまま信長を待つことになる。

また、関東応仁の乱より十年く似たような闘いが既に始まっており、これに北条が食い込む形で関東は戦国時代となる。
州は中央から遠く、為にその影を他の地方ほど受けなかったが、天文の乱(洞の乱)の後、争いは化していく。 その頂点は伊達政宗
中国地方大内一極から大内対尼子、毛利対尼子、毛利一極支配、毛利織田と変遷していく。中国地方の東側は山名赤松宇喜多別所などの中規模の勢が覇を競った。
四国細川氏没落以後、三好氏が支配し、三好氏没落以後は大友毛利といった大勢に影されながら土佐の長宗我部氏の統一へと向かう。
九州では、初めは大内対他勢であったが、少弐氏没落以後安定するも、大内氏滅亡以後、毛利大友となり毛利氏撤退後は、大友氏が北九州を支配したが、の戦いでその勢威を失い、島津氏、龍造寺氏との三つとなる。さらに、龍造寺隆信沖田畷の戦いで討ち取られると、龍造寺氏はその勢いを失い、島津氏が九州統一をすが、その前で豊臣秀吉九州征伐となった。

もはや日の本の情勢複雑怪奇なこれらによって、階級間の流動は活発化していき、ついに行き着いた先が農民が関白となる世界であった。

ちなみに、鎌倉以来、多くの御人がその領地を守らんと頑っていたが、結局頼の時代から明治維新までを通して同じ地を支配し続けたのは島津氏、相良氏、相馬氏の三のみである。守護、持大名格に限ると島津氏のみとなってしまう。それ程までにこの戦国時代は日本の支配者層を変化させたのだ。


三英傑


織田信長

どこかのTV番組で「日本人の好きな偉人第一位」に選ばれた名人。その数々の偉業はしばしば三時代の英雄曹操べられる事もある。(が、本場中国では後周の名君である栄にされることが多い)
の大名、織田信秀のもとに生まれ、別名を「尾のうつけ」とも。最初からを持っていたが柄は守護代のそのまた下であり、守護代織田信友、守護斯波氏を倒し、この時代の特色の一つでもある下克上を果たす。後々将軍である足利義昭を追放し、さらにスケールの大きな「下克上」を果たすことになる。

さて、信長狭間で今川義元を破ったというのは今更書くほどでもない有名な話である。彼はこれ以降、下人へのを駆け上がっていく。周辺諸を次々と下し、足利義昭を確保、上。権威を手に入れ、その後も下布武として武による平和め続けた。

彼が評価される理由の一つに、その先見性、合理性がある。例えば「第六天魔王」の名前の由来になった比叡山焼き討ち。科学などい当時、民衆に留まらず大名公家にまで大きく帰依を受けていた宗教の総本山を、それがたとえどんな理由であれ攻撃し下してしまうと言うのが一体どれほどの事か、想像が出来るだろうか。なお、これを知った武田信玄信長抗議手紙を出しているが、その返信の際の信長の自称が第六天魔王である。

日本の半分を、従属勢を含めれば日本のほぼ全てを領有しており、並ぶものが居ない程の英雄になったが、西攻略へ向かう途上、本寺へ立ち寄り宿泊していた所、臣の明智光秀に謀反を起こされ自した。信長のいなくなった織田は没落衰退したが、織田秀信織田信雄らによって大名としての命脈は保たれた。

豊臣秀吉

信長が本寺で明智光秀に討たれた後、光秀を倒し信長の後継となったのが豊臣秀吉である。信長の小者として仕え、最下級から関白の地位まで上りつめるのだが、これは世界で見ても非常にしい。なお、権者になりはしたものの信長の後を継ぐ形であるため、上の者を倒してを手に入れる、という「下克上」には当てはまらない。そのため秀吉にあたる織田も滅ぼされたりせず、普通に存続している。

信長定事業を継いだ秀吉は、多少の障もあったものの、順調に各地を定していき、ついには関白下人となる。ここに日本は再びの統一を見せ、平和が訪れたかに見えたが・・・・


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最終更新日: 19/03/03 17:04
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