ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


戦後


ヨミ: センゴ
掲示板をミル!
1カキコ!

戦後とは、戦争の終結後の期間をす言葉。大きな戦争を一つの時代の区切りとして、戦前・戦中・戦後という区分をする。「戦後」は、戦争による混乱を抜けきっていない時代という意味合いをもつ1956年7月に発表された経済書の結には、太平洋戦争後の日本の復が終了したことをして《もはや「戦後」ではない》と記述され流行にもなった。しかし終わりを設けず現在までを含めることもある現在もなお戦争の直接・間接の被害者・加者が生存している、記憶に残っているため。第一次世界大戦追悼式典は現在も続けられている。日本では、第二次世界大戦戦争体験者に関することやいわゆる“戦後レジーム”といった占領政策の影テーマになる。。特にことわりがなければ、第二次世界大戦後の日本を扱う。


占領下の日本



戦後世界秩序の形成


第二次世界大戦当事のうち連合の中核であるアメリカ合衆国イギリスソ連の3カは大戦中から協議を重ね、連合50により採択された国際連合章に基づいて、1945年10月際連盟にかわる国際連合を発足させた。連盟と異なって国際連合は、平和を守るためには最低限度の軍備が必要であるとの立場に立ち、アメリカイギリスフランスソ連中華民国からなる五大常任理事国とする安全保障理事会を設けた。

連合は、第一次世界大戦に見られたような、大な賠償を敗戦国に課す方法は、かえって敗戦国に屈辱を与え、更に次の戦争を引き起こすと考え、むしろ敗戦国が二度と戦争に訴える事のないように、敗戦国憲法国家構造を平和的なものに変えるための革を、連合による較的長期の占領によって実現するを実現した。

こうして国際連合を中心とした戦勝の協調体制と敗戦国への占領を通じて、安定した戦後秩序が生み出されるはずだった。しかし圧倒的な軍事経済背景にした影1947年時点の実質GDPソ連3699億ドル、アメリカ12872億ドル。を持つようになったソ二の間では、異質な国家理念社会体制を背景として、戦後秩序をいずれかがリードするかをめぐる利対立が表面化し、戦後世界ソ対立を軸に展開することになった(冷戦)。

ソ連は、ヨーロッパにおいてドイツの猛攻を多大な犠牲を払い食い止めた実績により、ドイツ敗退後の東ヨーロッパ地域に影を伸ばしていった。1947年9月ソ連東ヨーロッパ共産党の連絡組織である欧州共産党・労働者情報局(コミンフォルム)を結成し、1948年にベルリン封鎖をした。さらに東欧との間の相互援助条約の締結や原爆実験の成功(1949年)によって、西側への対決姿勢を明確にした。ソ連に対抗し、1946年3月に前イギリス首相ウィンストン・チャーチルによる「カーテン」演説があったのは、東西対立の顕在化を徴していた。アメリカにおいても、1947年3月ハリー・トルーマン大統領により、反共演説(トルーマン・ドクトリン)がんされた。アメリカは、ギリシアトルコへの緊急援助に端を発し、西ヨーロッパの復援助計画であるマーシャルプラン(1948年)を進めることによって、ヨーロッパにおける共産主義との対決姿勢を明確にした。ベルリン封鎖へは、輸を行ない対抗した。さらに1949年4月には、アメリカ西ヨーロッパの共同防衛機構=北大西洋条約機構NATO)が結成された。同年5月には、が管理するドイツ連邦共和国10月にはソ連が管理するドイツ民主共和国がそれぞれ成立した。

アジアでも、中国では共内戦が、中国共産党の優位が、1948年後半に明らかになりつつあり、1949年10月毛沢東席として、中華人民共和国が成立した。蒋介石国民党台湾に逃れ、中華民国政府を存続させた。朝鮮半島でも独立の動きが高まったが、戦後初期にあった統一独立案は放棄され、北緯38度線をにして、北はソ連軍、南はアメリカ軍によって分割占領されて、それぞれ朝鮮民主主義人民共和国大韓民国として、今日に至っている。

一方、戦争中様々なが、被支配民族戦争に協させるために、独立を認めたり、戦後民族独立約束したりしたこと、また、戦争の過程で生活基盤が破壊されたことなどに刺され、アジアアフリカに広がる植民地では、大戦中から民族解放運動が起こっていた。こうして、大戦の終結から1960年-70年代頃までに、新独立国家が次々と誕生していった。

日本植民地や占領地域でも、日本の敗戦とともに、民族独立の動きが活発になり、フィリピンは1946年に、インドネシアは1949年に独立を達成したが、独立を宣言したベトナムにはフランス軍事介入して、長く戦乱が続いた(インドシナ戦争)。また日本1945年8月ポツダム宣言受諾するより前に、アメリカ軍によって占領された沖縄小笠原諸島は、長い間アメリカによる直接統治が続いた。千島列島を含んだいわゆる北方領土樺太現在ロシアによる支配が続いている。


占領と改革


日本は、ポツダム宣言日本戦後処理方針と日本軍隊の条件降伏を勧告したもの。対日戦争を戦っていた英が、1945年7月17日から8月2日ドイツ・ポツダムに、アメリカ合衆国イギリスソビエト連邦の3カの首が集まって行われたポツダム会談期間中に合意に達し、会談に招請されていなかった蒋介石に、電信で意見をめた結果、英中の3カの宣言として、7月26日表されたものである。まだ対日参戦をしていなかったソ連には、表後に詳細が知らされ、対日参戦後ソ連も加えられた。当初、鈴木貫太郎内閣は宣言を「黙殺」していたが、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合側は、天皇の権限は、連合最高官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した。最終的に日本側は、8月14日の御前会議で受諾を決定。宣言は、軍義勢の排除、連合による日本占領、カイロ宣言(194312月1日英中三が、対日戦争的・戦後処理の原則などについて発した宣言)の履行、日本権を本州北海道九州四国および連合が決める諸小島に制限すること、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義・基本的人権確立など、全13項からなっていた。を受諾して連合に降伏した。その結果、1945年昭和20年9月2日の降伏文書調印から、1952年昭和27年4月28日の講和条約発効までの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部GHQ-SCAP)の間接統治に置かれることとなった。10月2日、総部(GHQ)が正式に発足をした。GHQは元々アメリカ太平洋陸軍総司令官ダグラス・マッカーサーの下で、日本侵攻を支えていた組織で、占領政策にも関わることになる。

日本を占領・管理するために来日したマッカーサーには、アメリカ政府の方針として1945年9月22日付で「降伏後における米国の初期対日方針」、11月1日に、「日本占領及び管理のための連合最高官に対する降伏後における初期の基本的」が与えられた。後者には、日本軍事占領の的、政治的・行政組、非軍事化、経済的非武装化、賠償方針、財政融方針などについてアメリカ側の方針が記されており、この文書を基本として、日本革が行われた。

対日占領政策決定の最高機関としては、ワシントンに極東委員会が置かれていたアメリカイギリス中華民国ソ連オーストラリアオランダフランスインドカナダニュージーランドフィリピンの11カ。のちにビルマパキスタンが加わり、13カから構成された。このうち英ソ中には拒否権があった。緊急を要する問題については、アメリカ政府に、委員会の決定を待たずにを発する権限が与えられていた(中間権)。。機構上は、極東委員会が対日管理機関であり、その下にアメリカ政府があり、アメリカ政府日本へのを作成・伝達することになっていた。しかし、極東委員会が実際に機し始めたのは、占領が開始された半年後の1946年2月26日だった。したがってGHQは重要な革について、極東委員会の牽制を受けずに断行することができた。また対日参戦について、B29爆撃原爆投下により、日本を直接的に敗戦に導いたアメリカ政治的地位は、占領政策でも別格の扱いをもたらした。極東委員会の政策は、アメリカ政府を通じた命の形(統合参謀本部の)で最高マッカーサーに伝えられた。アメリカは、拒否権の他に中間権を持っていたために、極東委員会の役割はいっそう限定された。東京には、最高官の諮問・協議・助言機関として、英ソ中からなる対日理事会が置かれたが、この機関は農地革問題以外には、大きな役割を果たさなかった。

このように連合軍とはいっても、実態はアメリカ軍による単独占領であった。ドイツ占領とは違い、日本占領の場合、総部は直接軍政を敷かず、既存の政府行政機構を利用した間接統治を行なった。総部が企画・立案した政策は、覚書・メモ・口述などの形式で命として、日本政府に伝達された。その命を、法律・政・規則などの形式に書き直して日本政府が実施するという形を取った。しかし、アメリカ側が法規的権を持っていたことにかわりはなく、アメリカ政府は、日本側が満足に遂行しない場合、日本の人事機構の変を要し、直接行動を取る権限をマッカーサーに与えていた。1945年9月11日に行われた東條英機らのA級戦犯容疑者の逮捕、同年10月4日人権自由。正式には「政治的、公民的及び宗教自由に対する制限の除去の件(覚書)」。共産主義者を含む政治犯の即時釈放、思想警察の全、内相及び警察の罷免、一切の弾圧法規の撤めたを言う。アメリカ側が政治犯の即時釈放をめたのは、日本政府戦争終了後も政治犯を釈放しなかったため。治安維持法違反で投されていた哲学者の三木清は、9月末に死している。、1946年1月4日職追放などは、この方針に基づいて日本側への事前通告なしに行われた。

朝鮮半島北部・南樺太千島列島などはソ連軍が、朝鮮半島南部及び奄美琉球を含む南西諸小笠原諸島アメリカ軍が占領し、直接統治が行われた。台湾中華民国に返還されたので、日本の領土は北海道本州四国九州とその周辺の々に限定された。

戦後混乱の少ない終戦処理を期待して組閣された、皇族である東久邇宮稔王を首班とする内閣は、1945年8月17日に発足し、大きな混乱もなく、内地・外地の軍隊の武装解除や、連合軍の進駐受け入れ、降伏文書調印を事に終えた。さらに日本政府は、9月20日、いわゆるポツダム緊急勅正式には、勅542号ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命ニ関スル件」布し、総部のに基づいて、法律の制定を待たずに命ができるようにした。しかし東久邇宮内閣は、「一億総懺悔」「軍・官・民・民全体が底的に反し懺悔し」なければならず「全民総懺悔をすることがわが再建の第一歩」であると国会等で述べた発言。戦争責任を軍部や政治導者から全民へと希釈するものとして批判された。護持」この場合、大日本帝国憲法に基づいた天皇制を守ること。を唱え、また戦犯逮捕逮捕・処罰方針をめぐり、総部と対立した。日本政府は容疑者の処罰・裁判を日本側が行うことを総部に申し入れるが、総部はこれを認めなかった。さらに10月4日人権つぎの幣原内閣では、このに基づき共産党員など政治犯約3,000人を釈放、治安維持法など15の法律法令止した。を積極的に実行する意思もなかったため、内閣は総辞職することになった。



次へ»
最終更新日: 17/10/17 23:29
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:大百科ニュース社