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戦艦


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戦艦(英:Battleshipとは、軍艦の種類のひとつ。大の艦に大口径のを搭載し、重装甲を施したもの。

もしかして戦闘

まさか:軍艦

ちょっと古いよ:戦列艦


概要


日本国内の新聞やテレビでは戦闘(combatant ship)の略称をもって水上戦闘艦をして「戦艦」と呼称する場合があるので要注意。いかなるサイズの艦艇でも「戦艦」と記述されてしまう原因である。でも彼らも空母だけはちゃんと空母と呼んでいるのが不思議だったりするが。

男子諸君には戦車(陸)・戦闘機)と並んで非常に人気が高く、所謂でっかくて強い「男のロマン」というやつである。

現代日本においては第二次世界大戦大日本帝國海軍の聯合艦隊旗艦戦艦「大和」の知名度が非常に高いが、ゲルマン大好きっ子には「ビスマルク」も人気がある。後述の「級=ド級」のとなった英国海軍の「ドレッドノート」も「級」「級」といった用とともに名前の認知度が高いが、戦艦の歴史上何がドレッドノートをエポックメイキングたらしめたのかといった建艦上の特徴などはあまり良く知られていない(これについては後述)。

日本人なら大和二番艦「武蔵」、聯合艦隊旗艦の「三笠」、「長門」もたまには思い出してあげて下さい・・・(まぁ、つい最近、知名度は上がっているとは思うけど) っていうか、太平洋戦争中は「大和」「武蔵」は存在そのものが極秘とされていて、一般国民にはその名前も存在もまったくアナウンスされてなかったので、終戦まで日本国民は「長門」と「陸奥」こそが世界最強日本の誇る名戦艦だと信じ込んでいた。天皇陛下御用達の御召艦にもなった「比叡」はアイドル的存在。

実際に太平洋で一番活躍したのは、空母を中心とした機動部隊の同等の速を持つ高速戦艦だった。
日本では当時最も旧式・遅れの巡洋戦艦に改造改造を重ねた、魔改造戦艦とも言える「金剛」以下、「比叡」「霧島」「榛名」が活躍した。
本来、日本海軍においては旧国名(地域名)が戦艦の命名則の基本であるが、「金剛は、巡洋戦艦の出自を持つので、巡洋艦の命名則、山岳名を持つ。空母直衛の任にあった中では金剛が最も著名だが、それ以外にも、第二次ソロモン戦においては陸奥が、マリア戦においては大和武蔵長門が、エンガノ岬戦では伊勢日向がそれぞれ空母直衛を担当している。その名は海自イージス艦こんごう型護衛艦やはるなヘリコプター護衛艦に引き継がれている。

1986年に再就役した米海軍戦艦「ミズーリ」が1991年クウェートイラク軍が侵攻した湾岸戦争の時に中東派遣され、姉妹艦「ウィスコンシン」と共に、陸上イラク軍に対する巡航ミサイルトマホーク」や撃等の上からの対地攻撃を行ったのが、地球上最後の戦艦の軍事行動と言える。


歴史


アイオワ級戦艦

兵器軸がであった19世紀末第二次世界大戦初期における戦の役。

一般的には「当時選択可な最高威と、それに対応する装甲を搭載した軍艦」と理解される。
大砲を積んだフネがすべて戦艦と呼ばれるわけではない

戦闘用艦艇としては、ガレオン船を発展させた18世紀の「戦列艦」まで遡る事ができる。戦列艦は、今まで商船にも使っていた在来の戦闘用船舶とは違い、純戦闘用に特化しさせた近代的な帆船のこと。専用のを幾重にも重ね100門近い大砲を一斉射撃可にせしめた戦艦の始祖である。今までは、このような戦闘特化の全通式を装備した船舶は存在しなかった。また、1880年代ごろの明期の戦艦を戦列艦として扱うこともある。

いわゆる戦艦の始祖といわれるのは、アメリカの装甲艦「モニター」である。これは、世界で始めてを載せた艦であり、大口を船の全周に向けられるその設計は画期的なものだった。しかし、この時代はまだを載せて外洋で活動できる艦は造れなかった。に関しても、近代の戦列艦時代と同じくど前装式で、これは装填に多く時間を要した。多くの装甲艦は、前述の戦列艦にべ内燃機関や艦体の鋼化など重装甲の装備を実現したものの、まだ戦列艦の域を出ていなかった。

1869年、イギリスは帆走に頼らない、つまりマストを全した装甲艦「デヴァステーション」を起工。まだ初期の装甲艦にあった補助用のマストなどの帆装類を一切持たない全な汽走艦であった。ほぼ全周に射撃可30.5cm連装(ただし前装式)を装備し、強な装甲を有する、初の「戦艦」として同艦を挙げる研究者も多い。以降、イギリスは戦艦の建造を推し進める。1889年には「ロイヤル・ソブリン」という前述の「デヴァステーション」をさらに拡大発展させより強(しかも後装式)と強な装甲を備えなお外洋で戦える艦を設計。同艦は前級戦艦としてその名を残す。この級に関しては後述する。

日露戦争に至るまで大砲火力の増加が続いていたが、次第に射程が長距離になると命中率が低くなり有効な射撃が行えないというデメリットが生じた。これは個々のが各々の位置で照準をつけていたため、着弾位置の観測が距離が遠のくにつれ不正確となったことが原因だった。これに対する回答が英国海軍が発案し、日露戦争において日本海軍が実践した艦での観測・揮による統制照準射撃だった。視点位置の高い艦部で着弾位置を観測、結果に基づき度、俯を個々の示。各々のが同じ照準・タイミングで射撃(斉射)することで撃をより集中させることが可になり、日本海軍勝利に結びつくことになる。

この日露戦争の戦訓を元にさらにドラスティックな"革命"が、英海軍戦艦「ドレッドノート(二代)」においてもたらされた。艦での観測・統制射撃をより有効的なものとするべく、それまで戦艦に舷側に列をなすよう配備された中間(補助)を止。出来るうる限り口径を統一化したを、両側に攻撃できる艦中心線上に配置することで統制射撃を容易なものとし、かつ大火力向できるようにした「ドレッドノート」は、それまでの戦艦を一気に過去のものとしてしまった(蒸気タービン機関の採用による速の向上もそれに拍をかけた)。近現代における戦艦の発達は、英海軍戦艦「ドレッドノート」の登場によって一つの区切りを見ることになった。現在もよく使われる「級(ド級)」というは、ドレッドノートの「ド」を取って『ド級』と言ったことに由来する。

ちなみに、1906年にはアメリカの口径を全に統一し、なおかつ背負い式(を高さを変えて前後に配置したもの)で艦首と艦尾に配置した「サウスカライナ級」を起工する。ドレッドノートを一基ずつ配置していたのに対し、この背負い式配置は以降世界で採用されることとなった。

しかしながら戦艦のより一層の火力の増大は、次第に戦艦そのものを縛ることになった。より口径の大きいを搭載できる巨艦を建造し、遠距離戦が可になったとしても、その射撃管制は地球の丸さという制約から逃れられない(線の向こう側を狙うことはできない)。視点位置をより高くする、すなわち艦を高くするなどの工夫にも限度があり、交戦距離限界に達しようとしていた。

また巨艦であることをめたため建造に巨額の軍事費を必要とし、国家経済が傾く羽になり諸外軍縮会議を行って保有量をごとに制限し建造中のものも艦にすることとなった(このとき艦にかわり空母への装をすることは空母保有量の範囲内で認められたため、赤城加賀レキシントン級といった大空母が生まれた)。

を持つ戦艦の数をえていること=その軍事徴とされ、それは各において戦艦の損失を恐れさせ虎の子扱いで大事に大事に後方で温存させ、おいそれと敵との戦に出撃させないこととなった。戦艦は恐竜よろしく肥大化した上で身動きがとれない怪物となっていたのだった。日本を例にすると、最も旧式の金剛4隻は西に東に多数の戦に参加したものの、他の扶桑伊勢長門大和の8隻は1943年まで一切の戦に参加せず(出撃はしたが会敵機会く帰投したことはある)、戦に参加したのはもはや敗色濃厚となりなりふりかまってられなくなった1944年からである。

第二次世界大戦前の1934年に、日本軍縮条約を離脱して「大和戦艦の建造に踏み切り、対戦後にようやく2隻だけを戦化することができた。この「大和は1.46トン弾を42km先へ投射することができたが、同時期にアメリカが戦列化した「B-17」は、2トン爆弾2発を抱え、800kmを余裕で往復できた。日本兵器世界を救う」 兵頭二十八 徳間書店 2017第二次世界大戦に入った時点で、航空機の破壊は戦艦のそれを駕していた。

第二次世界大戦以降、終戦以前に起工されていた数隻の戦艦が工したのを最後に戦艦はまったく建造されなくなり、アメリカ海軍が保有していた戦艦アイオワ2006年に除籍されたことで100年以上続いた戦艦の歴史に終止符を打った。

現用艦による戦の軸は、空母及びミサイルを搭載した航空機、及び巡洋艦駆逐艦フリゲートといった艦艇が担っている。


巡洋戦艦


装甲巡洋艦から発展した艦種。戦艦の亜種としてみなされる場合もある。

1908年にイギリスで建造された「インヴィンシブル級」は、巡洋艦なみの薄い装甲と高速に戦艦と同じ30.5cm連装4基8門のを組み合わせて装備した艦で、戦艦よりもずっと安価高速を発揮するために搭載した多くの機関や大化した船体などにより、戦艦よりも高価になる場合もあった。に、戦艦並みの攻撃を有する艦として、以降積極的に建造されていくこととなる。1913年に工した、日本イギリスに建造を発注した金剛もこのインヴィンシブル級から発展した巡洋戦艦であった。

当時イギリスと対立していたドイツも類似の艦を1910年からフォン・デア・タン、モルトケ級、デアフリンガー級と多数建造したが、ドイツコンセプトイギリスといくばくか異なっており、戦艦に準ずる較的強固な装甲を有し、は戦艦よりは小のものを有し、速巡洋艦並みといった性格であった。またドイツ公式の艦種類別は「戦艦」「大巡洋艦」「巡洋艦」であって、上記3級は大巡洋艦に分類されていたが、世界的にはこれらは巡洋戦艦に該当するとみなされている。逆に第二次世界大戦前の1938年に工したシャルンホルスト級はドイツ公式では戦艦に分類されていたが、そのの口径の小ささや船体の小ささ、速などから、世界的にはやはり巡洋戦艦に該当するとみなされている。

このイギリスドイツの巡洋戦艦同士が直接突したのが、第一次世界大戦中に起こったユトランド戦(ジュットランド戦と呼ばれることもある)である。イギリスドイツとも高速な巡洋戦艦を前衛部隊で先行させ、あとを低速な戦艦部隊がついていくこととなったが、巡洋戦艦同士がしい撃戦を行った後、戦艦が戦場に到着する以前に戦闘は終結してしまった。このことで低速な戦艦では戦に参加すらできないことが判明し、これ以降に起工される戦艦では高速を有するものが標準となってゆく。また同時に、前述のように異なるコンセプトで建造されたイギリス巡洋戦艦とドイツ巡洋戦艦とでは、イギリス巡洋戦艦が2隻爆沈・1隻撃沈・1隻大破と大きな被害を受けたのに対し、ドイツ巡洋戦艦は1隻が大破ののち帰港を諦め自沈したのみであり、イギリスのような薄い装甲では大事に至るという戦訓が得られた。このユトランドの戦訓に基づき各は巡洋戦艦や戦艦に大規模な装を施すこととなる。

日本の巡洋戦艦金剛も(軍縮条約で練習戦艦化された比叡を除き)第一次装で装甲をおおいに強化し、その結果として速が低下してしてしまったため、類別を戦艦に変更されている。軍縮条約失効後の第二次装で機関を非常に強化し(この頃比叡も第一次・第二次装をまとめて実施し戦艦に復帰している)、巡洋戦艦時代以上の高速を得て高速戦艦に生まれ変わり第二次世界大戦では大活躍した。

この後、ワシントン軍縮条約で戦艦と巡洋戦艦の保有が各別に厳しく制限されたために、巡洋戦艦の新造は行なわれなくなった。また条約失効後も、前述の戦訓により新造されるのは高速戦艦ばかりとなり巡洋戦艦は建造されなかった(前述のシャルンホルスト級を除く)。

なお第二次世界大戦終盤にアメリカが建造したアラスカ級大巡洋艦は、公式類別は大巡洋艦であったものの、その口径と装甲・速バランスなどから、世界的には巡洋戦艦に該当すると扱われている。

また大きく時代は下り、東西冷戦も終わろうとしていた1980年ソビエトが建造したキーロフ級原子力ロケット巡洋艦ソビエト公式類別ロシア語日本語直訳)は、大口こそ持っておらず兵装はミサイルであったが、26,500トンという巨体、適度な装甲を施された船体、30ノットという速から、やはり世界的には巡洋戦艦扱いされることがある。


海防戦艦



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最終更新日: 18/09/04 01:00
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