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日本史


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日本史とは、日本)及び日本列島歴史である。


日本の歴史



原始・古代


日本列島の形成から、日本文化の始まりにかけての時期。古代国家が誕生し、統一王が生まれる。

旧石器時代

日本列島は、元々東アジア大陸と地続きであったのが、陸地の起と陥没が繰り返されて、日本列島の元が形成された。

また土器を伴わない、先土器文化があった事が岩宿遺跡により解明されている。

縄文時代

日本列島大陸と分離し、ほぼ現在と同じような形になると、自然環境も大きく変わった。このような中で、日本列島に定着した原始人たちは、打製石器に代わり磨製石器、さらには土器を製作し始めた。

縄文時代は、土器と磨製石器を用いていることから新石器時代にあたる。狩猟・漁労の採取経済が生活の中心であったが、原始的な農耕は行われていた可性がある(栽培植物)。

住居と呼ばれるものに住んだ。

弥生時代

本格的な農耕生活への移行が始まる。また、西日本の方から、人々は新しい土器(弥生土器)を作り始めた。東南アジア中国大陸の中南部朝鮮南部などから伝えられた耕作は、東北地方にまで普及した。農具の多くは木製農具で、若干製鍬も用いられた。人々は、水田田植えをし、湿田が多かったので、田に入る為に、田下駄を用いた。稲は石包丁で穂首刈りをし、運搬に田舟を用いることも多かった。

この時期は、金属器の使用と製作も始まっており、その中でも矛・鐸がに付く。これらは、これまでの石器による武器よりかに優れた武器であり、各地の集団はこれらの入手を望んだ。しかしこれらの器は、次第に大化し、実用に耐えられなくなった。その為、実用的な武器であるよりも、集団とその首長の武政治的権威を徴する武器または宝器になっていった。

弥生時代中期の倭人について、『書』地理志には、100余りが分立し、楽浪を通じて毎年貢していたと書いてある。それらのうち、北九州の王の使者は、57年に後漢陽に至り、光武帝から印綬を授けられたという(『後漢書』東夷伝)。107年には倭国王らが奴隷160人を献じて、安に謁見をめた(『後漢書』東夷伝)。

志』倭人伝に記される々を統率した邪馬台国があったとされるが、その地域については北九州近畿かその他の地域にあったかという論争は明治時代以来こんにちまで論争が重ねられてきたが、未だ定説はない。

古墳時代

ヤマト王権から大和朝廷と呼ばれるまで拡大すると時を同じくして、古墳文化が広まっていった。

4世紀中頃の倭にとっては、朝鮮民族の伸長に伴い、それらとの関係が一層重要なものとなった(『済記』・七支・高句麗好太王碑文)。『古事記』・『日本書紀』の伝承によると、4世紀の末に大和葛城を新羅に派遣したところ、彼は逆に当地に留まって帰しなかったという。また5世紀初め頃に、皇后が三を征討した話もある(後者は史実としては不確かである)。

また朝鮮との関係が緊迫してくると、5世紀初め倭王(讃)は中国(南)へ入貢した。以後、・済・・武の5代に渡り入貢し、倭国王や安東大将軍称号を受けた。

5世紀末6世紀前半は、動乱の時代を迎え、地域王のうち、ヤマトをはじめ、他の地域王のもとでも、支配下の民衆のうちから有農民が成長し、古い秩序が動揺した(磐井の乱)。こうした地域王間の対立・抗争の化には、朝鮮半島との外交関係が深く関わっていた。朝鮮半島では、高句麗の南下のため済が危機に直面し、新羅やヤマトに救援をめてきたからであった。512年、大連大伴金村が、一部の反対を押し切って、加羅の4県との関係を放棄し、朝鮮の動きもあり、ヤマトとの関係は絶たれていく。

ヤマトの内部では、新物部氏の導の下に、各地の地域王地方族の属と統合を進めて、新しい支配組織を整えていき、仏教儒教を中心とする新たな支配理念や文化を持つようになった。このような統治体制の国家大和国家と言われる。これとともに、元のヤマトの王は地方の王や族に君臨するものとして大王と呼ばれるようになっていった。

飛鳥時代

帝国の出現(581年)によって、6世紀末から7世紀初めにかけて、東アジアでは大きな際関係の変化が見られるようになった。大伴金村の失脚後、朝廷内部の導権を巡って、蘇我氏と物部氏の対立が深まった。それは化し、6世紀末には仏教受容についての意見の対立(崇論争)と、用明天皇死後の皇位継承問題とが絡んで、武抗争にまで発展した。

587年、仏教崇拝を認める蘇我氏が勝利した。その後大王の外戚として権勢をふるい、子は崇峻天皇を暗殺するに至り、推古天皇が擁立された。これに伴い、有な皇位継承者であった厩戸皇子皇太子となり、摂政として政治を行うことになった。この時代は、外には朝鮮半島の失地回復の努が、内には蘇我氏の勢大王ぐほどになっていた。こうした中、蘇我馬子と協して中央集権的国家体制をして政治革を進めていった(遣隋使、憲法七条の制定、冠位十二階の制、史編纂)。

の変を経て蘇我氏の影を排除し、権を握った皇族の中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣足らによる大化の改新が進められた。天智天皇天皇申の乱で勝利して実権を握り、より中央集権的な国家運営が進められた。今日々が知る「日本」という号も定められた。近江から始まった制が形成され、発展していった時代である(大宝)。

奈良時代

奈良に都が置かれていた8世紀初頭~末にかけての時代である。中央には二官八政治機構が整えられ、地方の各へも国司に任じられた中央貴族が赴き、中央と密接した政治が行われるようになった。

民衆に対しては、租庸調制・軍団制・班田制などによる支配が確立した。

制進展に伴い、辺地の開拓も進められた。特に東北地方は多賀が造られるなど、夷経営はかなり北上した。

文化的には遣唐使の影を受けた文化が、仏教的には鎮護国家思想が強まり東大寺護国寺が建立された。

一方、政情不安が非常に多く発生しており、長屋王、藤原藤原麻呂など政権導者が相次ぐ政争を繰り広げていたのもこの時期である。この頃から藤原氏藤原)が権を握り始める。

平安時代

8世紀末から12世紀末までの、桓武天皇が築いた平安京が置かれた時代。前期では国家体制の限界が、農民の浮浪・逃亡や地方政治の乱れなどに現れていた。そこで桓武天皇外官を置き、勘解由使を派遣国司の不正を取り締まらせた。また征夷大将軍を特別に東北地方に送った。また班田を12年に延長、今までの軍団制から健児の制など農民の負担軽減が図られた。また地方の税が中央に入りづらくなっていたので、直営田と呼ばれる中央が直接収入を得る経営地が設けられた。

かしこういった革は11世紀には制度を大きく変容させる事により、当初意図されていた制度の強化から次第に封建制の性格を現していく。そこでは、人頭税的なものから土地単位の課税と負名体制へ、地方統治を支える事になる衙軍制を通じた官人層である武士階層が生じた。この時期は中央政治では藤原による摂関政治が成立した。藤原道長藤原頼通子の間が藤原氏絶頂期であるとされている。

12世紀になると、権門が荘園領である荘園と、衙が支配する領が並存し、武士がその管理人として在地領になる中世的な荘園領制が確立する。この時期は中央政治で、上皇による院政が行われていた。

末期になると、保元・平治の乱を経て中央政治軍事を持って影を強めた武士が現れ、その中でも伊勢平氏が初の武政権を成立させている。しかし平清盛が亡くなる前後から反平氏の動きが全に伝播しており、皇族の以仁王の呼びかけに応じた源頼朝源義経らによって、は滅亡、衰退した。(治承・寿永の乱


中世


政権の成立から、統一的な中央政権成立までの間。

鎌倉時代

12世紀末から14世紀までの、鎌倉幕府が置かれていた時代。初期は源頼朝の私的政権であった鎌倉幕府は、守護・地頭を得て東支配を得る。その後、承久の乱により朝廷公家政権に対して優位に立つようになった。幕府内部では源実朝が亡くなると、御人筆頭の北条氏による執権政治に移り、のちに得宗と呼ばれる北条義時の子孫を中心とする体制が出来上がる。

また日貿易により銭が輸入された事による貨幣経済の浸透、惣村の形成、武士の荘園領への侵出など社会変動が起きた。

文化的には武士・庶民の新しい文化が生まれ、素で写実的な作である。仏教的には、旧仏教革新する鎌倉仏教が勃した。

8代執権である北条時宗の際に元が発生。鎌倉武士の奮闘もあり元を退けたが、政情不安を頻発させ、北条時宗が若年で逝するといよいよ混乱が大きくなる。北条氏もまた、内管領などの傀儡になりつつあった。

南北朝時代

14世紀頃の南・北朝廷が2つ並存した時代である。後醍醐天皇鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇親政を行ったが、武士の慣習と合わない、新すぎて公家からも批判が集まるなど不満が募り、足利尊氏を筆頭にした離反を招いた。

その後、後醍醐親政は失脚し、尊氏による幕府組織を後見に新天皇が立つが(北)、京都を脱出した後醍醐天皇一方的に皇位復活を宣言する(南)。これにより朝廷は分裂し、皇族、公家武士、寺社、人勢などあらゆる階層の人間を巻き込む騒乱の時代となる。

朝廷の正統対立を軸としつつも、実体は様々な価値観や権益が入り交じる権闘争の場であり、寝返りが日常茶飯事の渾沌とした戦いである。さらに両営でも内部分裂が相次ぎ、殊に足利尊氏足利義詮を中心とする勢足利直義足利直冬を中心とする勢の内乱は観応の擾乱と呼ばれ、非常に長期化した。九州は一時半独立国家状態になるなど情勢は複雑怪奇を極めた。(なお、現在天皇系譜では南天皇を正統とするが、現行皇室は北系の子孫というややこしいことになっている)

上の通り室町幕府政体は既に存在し、よって室町時代とも重なっているので注意。

政治的には混迷を極めた時代だが、同時に新しい価値観の勃も促し、既成の権威を否定する「ばさら」の潮が流行する。いわゆる日本文化と呼ばれる茶道などの諸芸術確立し始めるのはこの時代である。を大成した観弥、世阿弥が出たのもこの頃。

室町時代

14世紀から16世紀頃までの室町幕府が存在した時代をいう。14世紀から続いていた南北朝の対立は、室町幕府3代将足利義満の時代に南北朝合一を迎える。各に置かれた守護は半済などの経済的特権の常態化、守護請の拡大を通じて、守護領制と呼ばれる守護大名へと成長していった。

幕府の職制は概ね鎌倉幕府のそれを引き継いでいるが、鎌倉幕府が北条氏宗による得宗専制であった一方、足利氏の臣下筋を三管領四職に当たらせた。

守護大名の伸長は将軍のところにまで及び、応仁の乱など全的な守護大名の対立が背景となり、以降戦国時代と呼ばれる。

文化的には大きく分けて3代将足利義満を頂点とする北山文化、8代将軍義政を頂点とする東山文化がある。前者は伝統的公家文化と新の武文化の融合中国の文化を取り入れ、宗文化を基礎としたもの。後者は新の庶民文化を色濃く吸収したものである(わび・さび)。これらは直接的には幕府があった京都に育ったが、地方にも伝えられて、それぞれの時代の文化の基調となった。

社会的な動きとしては、自救済が肯定され、社会の各階層において連帯する一が頻発した。また村落がより自治を強め、惣村・郷村が各地に確立した。

外交においては、日明貿易により中国大陸との交が再開され、同時に倭寇の取り締まりが行われた。しかし政治混乱などにより、再び交は断絶し再び私貿易が行われていく。

戦国時代

15世紀後期から16世紀後期までの間をいう。この時代は守護大名が没落する一方、領内で守護代や人・地が勢を伸ばし、臣が上位の者を倒す下克上と呼ばれる潮が広がった。しかし、下克上ばかり起こっていたかというとそうでもなく、武田信玄今川義元といった強守護大名も存在しており、新旧入り乱れた様相であった。

守護や守護代、人を出自とする戦国大名と呼ばれる大名らは、それまでの支配体系を崩し独自の分法を定め、一円支配をし、地域国家が多数った。これを大名領制と呼ぶ。

多数の大名が並立する中で、将軍はやがて山1を支配下に置くのみになり、伸長する戦国大名の中で今川義元桶狭間の戦いで破った織田信長が特に兵農分離・商農分離を始めとした身分制度の整備を進め、武の組織化に成功し、支配地域を広げた。

社会的には各大名が領地経営を進めた結果、農業生産性が向上、地域国家内での流通が促進されて、都市と呼ばれるものが形成されていった。また南蛮貿易と呼ばれるヨーロッパとの交易が始まり、火縄銃キリスト教が流入し、戦術・宗教面で影を与えた。

中央では足利義材足利義澄ら10・11代将軍同士の抗争などもあり、管領細川細川高国細川晴元らが実権を握り、やがてその臣にあたる三好長慶が実権を握った。これらは政権と呼ばれることもある。しかし長慶が亡くなると、織田信長らに押されつつあった。


近世


政権による統一支配を特徴とする。中世べ強な中央政権がある。

安土桃山時代


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最終更新日: 19/11/11 22:24
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