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曹休とは、三国志に登場する人物である。
字は文烈。曹操の甥にあたるが血縁関係はない。
父を早くに失い、一時期戦乱を避けて、祖父が太守を務めていた呉郡(江蘇省蘇州市)に避難していたが、曹操の挙兵を聞いて母を連れて曹操の元に馳せ参じた。曹操は「この子は我が家の千里の駒である」と曹休を褒め、子の曹丕らと一緒に育てた。
伯父の曹純死後、曹操直属の部隊である「虎豹騎」を曹真と共に指揮し、漢中で曹洪に従い張飛らが率いる劉備軍の侵攻を撃退するなど数々の戦功を立てる。魏の建国後は鎮南将軍・仮節・都督諸軍事となった。
▲魏の政権下では曹休は対呉の前線にいた。征東大将軍、揚州牧、大司馬などを歴任、たびたび呉と戦って呉軍を破りここでも数々の戦功を立てている。
しかし228年(太和2年)、呉の鄱陽太守の周魴が弄した計略にかかり、周魴の偽りの降服を信じてしまう。曹休は周魴の案内で荊州にいた司馬懿や豫州にいた賈逵の軍勢をも動員して10万の大軍で呉を攻めたが、呉軍の罠にはまり、石亭(安徽省安慶市)まで深入りしてしまう。賈逵の必死の救援で曹休は難を逃れたが曹休の本隊は壊滅状態に陥り、司馬懿の軍も撤退し、この戦いは魏の大敗に終わった。
都に帰還した曹休への処分は無かったが、腫瘍が背中に出来たことが原因でこの年のうちに没した。
賈逵も同じくして亡くなったため、魏の揚州方面の指揮官には満寵が就任した。
218年の金禕らの謀反を鎮圧するシーンで登場。どっちかというと呉と戦って負ける場面のほうが印象が強い。
石亭での印象が強すぎて、「首都よりの援軍」とか回復能力を持っていることに違和感が…
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