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曹参(そうしん/そうさん)とは、戦国時代末期~前漢の人物。漢王朝を興した高祖・劉邦と同じく沛の出身。後に漢王朝建国の功臣となった。
劉邦の子飼いの武将の中でも、功績が第一とされた勇将である。また、蕭何の後を継いで前漢の相国となり、戦乱の傷が癒えない前漢において、民を安らぎ、安定した政治を行ったことで、後世に名宰相と称えられる。
「出将入相(出ては将入れては相、朝廷に入ったら宰相として活躍し、朝廷の外に出ては将軍として活躍する)」の模範となる人物である。
こちらの項目では曹参とともに、劉邦に仕え、曹参と韓信に従った武将である傅寛(ふかん)と孔藂(こうそう)、陳賀(ちんが)も紹介する。
泗水(しすい)郡沛県の出身(ただし、劉邦や蕭何と違い、沛県の豊邑の出身ではない)。秦の時代には、沛県の獄掾(ごくえん、監獄を扱う事務官)につき、沛の豪吏(ごうり)となっていた。
豪吏とは、地元の有力な家柄出身で、その地元の役所で主要な地位についた役人のことである。中央から来た官吏は地元の有力な家をバックにしている人物の方が頼れる存在であるため、重用される存在であった。
曹参は沛ではそれなりに大きな家の出身であり、同じく沛の豪吏として主吏となっていた蕭何と親しく交わっていた。
劉邦の長子である劉肥の母である曹氏、後に劉邦を裏切ったとされる曹無傷(そうむしょう)も沛における曹参の同族出身という説があり、以下はそれを前提として、記述する。(あくまで同じ沛出身の同姓ということだけが根拠であり、史書では二人が曹参の同族であるとは明記されていない)
曹氏は劉邦の子を産んでいるにもかかわらず、外婦(がいふ)とされ、劉邦とは正式な婚姻関係ではなく、劉邦の家にも入っていなかった。
そのためか、劉邦の決起前における曹参については史書にその詳細な記述がない。
始皇帝が逝去し、始皇帝の子である胡亥が即位する。秦の暴政は激しくなり、陳勝と呉広という人物が反乱を起こし、王を名乗った(陳勝・呉広の乱)。沛の県令も反乱を恐れ、蕭何と曹参を呼び、陳勝に呼応して反乱を起こすことを相談する。
曹参は、蕭何とともに、逃亡している劉邦を呼び戻すように進言する。劉邦は沛にもどってくると、県令は心変わりを起こし、城を閉じて蕭何と曹参を殺そうとした。曹参は蕭何とともに脱出して劉邦のもとに逃げこむ。
劉邦の呼びかけによって、沛の民は県令を殺し、劉邦は迎え入れられた。反乱の首謀者となることをいやがった曹参は、蕭何とともに、劉邦を沛の反乱軍の代表者に推薦する。劉邦は反乱軍を率いることになり、沛公を名乗った。
曹参は蕭何・樊噲(はんかい)らと協力して二、三千の兵を集める。曹参は、劉邦によって上位の側近である中涓(ちゅうけん)の一人に任じられた。文官であった曹参であったが、劉邦軍を率いる武将の一人となった。
当初は、劉邦の一武将に過ぎなかった曹参であったが、戦場で傷を負うことを恐れずに戦うことで、武将として頭角をあらわすようになる。
まずは、劉邦に従って沛県より上位の役所である泗水郡(しすいぐん)の秦地方軍と戦うことになった。まず、近隣の県を攻め取り、さらに、泗水郡の郡監(郡の長官である郡守の副官)の軍を破る。続いて、救援に来た泗水郡の郡守の軍も破った。郡守・壮(姓は不明)が逃げるところを、劉邦の左司馬となっていた曹無傷(という説が有力)が捕らえて、討ち取る。
曹参は劉邦と別れて、占領した土地を守っていたが、同じく秦に反乱を起こしていた魏の勢力が攻めてくると、劉邦の故郷である豊邑が寝返ってしまう。曹参は寝返った土地を攻撃し、功績をあげ七大夫に任じられる。
一方で、陳勝が秦の将軍である章邯に敗れて、敗死し、秦軍が劉邦軍を攻撃したため、劉邦側は苦境におちいった。しかし、張良(後の「漢の三傑」の一人)が劉邦の参謀となり、碭(とう)郡を攻めることとなった。
碭郡において、劉邦軍は秦の武将である司馬𡰥(しばい)を打ち破る。秦軍との戦いは碭郡全体にわたった。秦は戦車部隊・騎馬部隊まで出して応戦していたが、曹参は先陣をきって戦った。戦闘は、劉邦軍の勝利に終わり、碭郡を占領することができた。曹参は五大夫に任じられる。劉邦軍はさらに、後に劉邦軍の騎兵を率いる灌嬰(かんえい)ら、六千人の兵を得た。
曹参の活躍は華々しく、曹参はこの頃には、劉邦軍の本隊を率いる存在となっていたものと考えられる。
劉邦は楚の懐王・心を擁立して楚国の復興を目指していた項梁の傘下に入る。劉邦は項梁の甥にあたる項羽とともに、秦軍主力を率いる章邯と戦うことになる。
東阿(とうあ)において、項梁の軍は章邯の軍と激突し、勝利する。この戦いにおいて、劉邦の軍も活躍し、曹参は秦の陣地を陥落させた。曹参は劉邦に従って秦軍を追撃し、各地で秦の土地を奪う。雍丘(ようきゅう)では、劉邦は項羽との合同による戦闘を行い、秦の三川郡守である李由(秦の丞相である李斯の長子)の軍に勝利し、曹参は軍を率いる李由を討ち取る大手柄を立てる。
しかし、項羽と劉邦が秦軍と戦っている間に、章邯は秦軍の総力を集めて、夜襲で項梁を討ち取る。章邯は楚への追撃は行わず、秦の将軍である王離とともに、趙を攻める。
劉邦は項梁の戦死を聞き、東にもどり、碭郡に駐屯する。曹参は執帛(しつはく)という爵を与えられ、建成君・戚公(せきこう)に任じられ、碭郡の兵を率いることとなった。
楚の懐王である心は、宋義・項羽らに本軍を率いさせ、趙救援に向かわせる。劉邦はその支援軍を率いて、別に軍を動かすこととなった。
曹参は劉邦に従って軍を率いて、秦の東郡の郡尉(郡の兵を率いる郡守の副官)を破り、王離が送ってきた別動軍も破る。劉邦は支援軍の役割を果たした。
項羽は進撃しようとしない宋義を斬り、自ら楚軍を率いて、王離を破って捕らえた。項羽は章邯相手に優位に戦闘を進めながらも、長い戦闘に入っていた。
劉邦は楚の懐王に命じられ、秦の都である咸陽に向かうことになった。曹参は、劉邦の軍を率いて秦軍を戦うことになる。
開封では秦の武将である趙賁(ちょうほん)を囲んで追い詰めたものの、劉邦軍は敗北した。しかし、劉邦軍は転進して、別ルートから西へと向かう。曹参は、途中で阻んだ秦の将軍である楊熊(ようゆう)との戦いにおいて、秦の司馬と御史をそれぞれ一名、捕らえる。曹参は執珪(しつけい)に昇格した。
劉邦軍は苦戦続きで、ルートを変えつつも、西へと向かう。途中で張良が劉邦軍にまた加わった。曹参は、南陽の郡守である呂齮(りょぎ)の陣営を破る。呂齮は降伏した。曹参は、劉邦に従い、秦の咸陽を守る武関・嶢関(ぎょうかん)を突破する。藍田(あいでん)においては、秦の最後の抵抗にあったが、曹参は夜襲で大勝利をあげる。
その頃、項羽は章邯を降伏させ、咸陽に向かってきていた。劉邦は、章邯が項羽によって、雍王に封じられていると知り、このままでは関中王になれないと考えた。そこで、劉邦は関中への関所である函谷関を塞ぎ、項羽の進軍を止めることにする。しかし、項羽は劉邦軍の防衛を突破してしまう。
項羽の軍は圧倒的大軍であり、項羽自身も中国史屈指の軍事的天才である。劉邦に勝ち目はなかった。この時、曹無傷が項羽に寝返って、項羽に使者を送り、「劉邦が関中王になりたくて、秦王であった子嬰を宰相にし、秦の宝を全て私物化しています」と伝えさせた。
項羽は、劉邦を攻撃することに決めるが、項羽のおじである項伯が劉邦との間をとりなしたため、劉邦に謝罪の機会を与える。張良と樊噲の活躍によって、「鴻門の会」における劉邦の謝罪は項羽に認められた。その席で劉邦は、項羽に注進したのが曹無傷であることを知り、劉邦が帰還した後に、曹無傷は処刑されることとなった。
なお、曹無傷は劉邦の使者として、項羽や諸侯に劉邦が自立したことを伝えただけであるという説もある。この場合は、曹無傷は劉邦を裏切ったわけではなく、あくまで自立に失敗した劉邦の責任をとらされ、処刑されたということになる。
曹参は、一族の曹無傷を失ったが、項羽によって漢王に封じられた劉邦によって、改めて建成侯に封じられる。曹参は劉邦とともに漢中におもむくことになった。
ある時、劉邦の宰相となっていた蕭何が何も告げずに劉邦の陣営から出て行き、また戻ってくると、突然、全軍の大将が任用されるという話があった。諸将(劉賈、周勃、呂沢、酈商、紀成ら?)は自分が大将になると思い、大いに喜んだ。特に、沛の決起から劉邦の本軍を率い、身に傷を負って功績をあげ続けた曹参はその思いが強かったと思われる。
しかし、劉邦が拝した新たな大将を見て、曹参ら全軍はびっくりした。新たに大将となった人物は、最近、劉邦軍に加わった治栗都尉(ちぞくとい)という兵糧部隊の将校に過ぎなかった韓信という人物であった。蕭何のあの脱走は逃亡した韓信を追って呼び戻すための行動であったのだ。韓信は蕭何からの強い推薦により、劉邦によって全軍の大将である大将軍に任命されていた。
曹参はこのことについてどう思ったのか、史書に記述はない。しかし、蕭何と仲が良かった曹参が、この頃(曹参が将軍に任じられた頃)に蕭何と不仲になったと史書には記述されている。
劉邦は韓信の進言に従い、三秦と呼ばれるようになった関中の地を攻めることにする。三秦の地を守るのは雍王に封じられ、かつては秦の名将であった章邯である。曹参も将軍として、三秦攻めに加わった。
曹参は漢中を攻め下る。三秦では劉邦とともに、章邯の弟・章平と戦闘を行い、打ち破った。さらに、劉邦に従い、樊噲とともに章邯の軍を破る。好畤(こうじ)という土地で章平を包囲すると、章平は逃走した。曹参は、章邯の武将である趙賁を打ち破り、咸陽を占拠する。章邯・趙賁はかつて劉邦軍が敗れた秦の名将であったが、曹参は勝利した。
この時の韓信については史書には記述されず、劉邦自身の動きは明確ではない部分もあるが、曹参は変わらず、劉邦の直属軍の指揮にあたったと考えられる。作戦面はともかく、実戦では曹参はやはり劉邦軍の要となる将軍であり続けた。
この後、曹参は劉邦と別れて咸陽付近を守る。章平が攻めてきたが、曹参は打ち破った。その功績の見返りに、寧泰(ねいたい)という土地が与えられた。劉邦はその軍を四つに分け、曹参・劉賈・呂沢・酈商に率いさせて、三秦平定に向かわせる。曹参が向かったのは最も重要な局面であった章邯軍への対応であった。曹参は樊噲・灌嬰(この時はこの二人は必ずしも最高位の武将ではないことには注意)らを率いて、章邯を廃丘に包囲する。三秦はほぼ平定された。
さらに、曹参は中尉に任じられ、劉邦に従い、項羽と項羽に従う諸王(殷王・司馬卬(しばごう、司馬懿の先祖)、河南王・申陽、韓王・鄭昌)との戦いに従軍する。諸王は降伏し、劉邦の軍に加わった。さらに、項羽が斉攻撃のため留守としていた楚を攻撃する。曹参は劉邦軍五十六万人の将軍の一人として、項羽の一族である項它(こうた)と武将の龍且(りゅうしょ)を破り、項羽の本拠地である彭城を攻め取った。
だが、三万人で急襲してきた項羽によって劉邦軍は大敗する。司馬卬・申陽は戦死し、数十万人の戦死者を出した。彭城にいたため、敗走した曹参であったが、かつて李由を討ち取った雍丘(ようきゅう)で軍をまとめ、劉邦に反乱した武将たちを次々と打ち破る。曹参は滎陽(けいよう)という土地にもどり、劉邦と合流した。
項羽の軍が滎陽に迫ってきたが、韓信が京・索(さく)の間で、項羽の軍を破る。戦局は膠着状態におちいった。劉邦は韓信を全軍の大将に任じ続けた。
曹参は、仮(仮とは副のこと)の左丞相に任じられ、関中に入って1か月ほど駐屯する。この時、魏王であった魏豹が、劉邦に背き、項羽についた。
この時、韓信が左丞相に任じられ、魏討伐を命じられた。仮左丞相であった曹参は、名実とともに、韓信が率いる軍の副将に任じられ、魏討伐に従軍することになった。また、韓信の部下として、漢軍の騎兵を率いる灌嬰もつけられた。
史書に明記はないが、この時、劉邦が樊噲たちを率いて、項羽をひきつけてその猛攻を防いでいる間に、別働軍を率いた韓信が他の勢力を攻略し、兵力を集めるという劉邦軍の戦略があったと考えられる。曹参は、経験が浅い韓信の補佐の役割を劉邦から期待され、その役割は重要であった。
劉邦は、魏の軍を率いる大将が柏直(はくちょく)、騎兵を率いる武将が馮敬(ふうけい)、歩兵を率いる武将が項它(こうた、項羽の一族)であると魏への使者となっていた酈食其(れきいき)から聞いて、韓信・灌嬰・曹参に立ち向かうことができないと言って安堵したと伝えられる。
曹参は韓信に従って、魏を侵攻する。魏との決戦は韓信の知略によって、漢軍の圧勝に終わり、魏豹は捕らえられた。曹参は平陽の土地を与えられる。また、韓信に従って、趙の属国であった代の国も討伐し、趙の宰相であった夏説も捕らえた。
さらに、劉邦は、元の常山王である張耳も援軍として派遣する。曹参は韓信に従って引き返し、張耳と合流して、趙の大軍を率いる陳余(元は張耳と親友)と戦う。韓信・張耳・曹参・張蒼(ちょうそう)らの率いる漢軍は数万に過ぎなかったが、陳余の軍は20万を号していた。
韓信は趙の大軍を相手にして、背水の陣をひき決戦にいどむ(もっとも、本命は趙の城を襲う別働軍の騎兵にあった)。曹参たち韓信配下の諸将は、韓信の「今日中に、趙を破って、ともに会食しよう」と言った言葉を信じなかったが、戦いは、韓信の知略により、漢軍の圧勝に終わる。
張蒼は陳余を捕らえ、趙王もまた捕らえられた。陳余は処刑された。曹参たち諸将は、韓信を称える。韓信に勝利を得た戦術の内容をたずねると、韓信は丁寧に説明した。曹参たち諸将は韓信に心服して、「素晴らしい。私たちの及ぶところではありません」と答えた。
上記のこの「井陘の戦い」における韓信とのやり取りを行ったのは、史書ではあくまで「諸将」であり、曹参も含めて具体的なその姓名が明記されているわけではない。しかし、韓信配下の諸将の代表は、曹参であるため、このやり取りを行った諸将の代表は曹参であったと考えるのが自然である。
この時には、曹参は韓信の軍略に心服し、その下知に完全に従うようになったものと考えられる。