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これが航空巡洋艦の実力さ。
ヘリ搭載護衛艦の先駆けのようなボクだからね!
最上(もがみ)とは、帝国海軍が保有していた巡洋艦「最上」をモデルとした、艦隊これくしょん~艦これ~に登場するキャラクター(艦娘)である。
担当声優は洲崎綾。図鑑番号はNo.51で、最上改はNo.101。
黒髪のショートカットに小豆色のセーラー服を着用しており、絵師の画風と相まって、連合艦隊があった時代の女学生という印象。
貴重な僕っ娘でもある。
改造前の状態で秘書艦にしてクリックしていると、提督を寂しがり屋だと評したり、しつこい提督にちょっと怒ったりしてくれる。寂しがり屋なのでぎゅってしてほしいお。
航空巡洋艦になるとこれらの台詞が無くなってしまうのが残念。
衝突にかかわる台詞が持ちネタのようになっているが、これは史実でも他艦との衝突事故を起こしているため。余り良い思い出では無いだろうが、それを持ちネタに出来ている。えらい。
大百科でも重巡では無く航空巡洋艦に項目がある通り、重巡洋艦から航空巡洋艦に改造でき、改造レベルも10と低い。
搭載した瑞雲を駆使して航空戦にも介入でき、ボーキサイトが許せば「攻撃回数が1回以上増えた重巡洋艦」として活躍できる。はず。
ちなみに、改造後の絵には21号電探と13号電探のアンテナが書かれているが、残念ながらどちらも持ってこないイラスト詐欺。
そのほか、軽巡として建造された史実を反映して、改造前の初期装備で15.5cm三連装砲を持っている事も特徴。
地味にこれは開発で出てくる以外では最上(と、史実で彼女らの主砲を受け継いだ大淀)の初期装備でしか手に入らないシロモノだが、艦これ世界では軽巡にも20.3cm砲を積めてしまい、また同じ15.5cm砲でも改良後の存在である「副砲」が同時に存在する事もあり、この砲には基本見向きもされない。
一時期、運営の「軽巡に20.3cm砲を積んでも100%の性能を発揮し切れない」と言う発言から、軽巡に20.3cm砲はマスクデータでペナルティがあるのではないかと言われ、軽巡にとっての最適装備では?とこの砲に光が当たりかけたが、検証の結果、「重巡に装備させると得られる夜戦の命中補正」が得られないだけで、額面どおりの火力ならば軽巡でも発揮可能であると判明し、やっぱり20.3cm砲の陰に隠れる運命を脱出する事はできなかった。
そんな訳でこの砲は倉庫の肥やしになる、そもそも手に入る端から廃棄され資材にリサイクルされる、「おまえは今まで手籠めにした最上の人数をおぼえているのか」という質問に返答する際の手がかりに使用されるなど、装備品以外の使われ方をするケースが多いと思われる。
航空巡洋艦と言う艦種は最上に限らず、以前は空母でない艦には艦載機を積むメリットが殆ど無く、いらない装備のために火力を下げてしまった本末転倒な重巡亜種・・・と言う立ち位置で活躍の場が殆ど無かった。
しかしアップデートを重ね、弾着観測射撃の実装や、水上爆撃機による対潜攻撃能力の復活など、 空母の艦載機以外の航空戦力の重要度が増したり「航巡にしか出来ないこと」が作られ、以前よりは活躍の場は遥かに増えている。戦闘以外でもルート制御要員に航空巡洋艦が名指しされる事も増え、また重巡カテゴリで「ドラム缶」を装備できる艦種でもあり、今では「航巡は1~2隻は育てておかないと確実に損をする」とまで言われるほどになった。
なお「最上改」を近代化改修の素材に使うと対空値が+3される。レベル10で改造可能になると言う用意の容易さから、五十鈴と並んで「改修のエサにするために育てる」提督が多い。
「対空値+1あたりの必要経験値」で言えば最上の方がコストパフォーマンスは良いのだが、最上は五十鈴のように改造に際してレア装備を持ってくるという副次的な旨みが特に無い(瑞雲くらい)ため、「牧場」と言う意味では五十鈴の方が名前を良く聞く傾向にある。
1935年7月28日、最上型二等巡洋艦1番艦として就役。命名は山形県を流れる最上川より。
ニコ動的に最上といえば「鮭様」で有名な戦国大名の最上義光を連想する方も多いと思われるが、
そもそも最上氏の苗字の由来も最上川流域にある”最上郷”の地名から取られているので、
由来はほぼ一緒である。
最上以降の帝国海軍の重巡洋艦は、書類上「二等巡洋艦」つまり軽巡である。
ロンドン海軍軍縮条約では、それまでのワシントン海軍軍縮条約では巡洋艦の上限、つまり基準排水量1万トン、主砲8インチを超えなければ保有隻数の上限が無かった巡洋艦を
の2種に分け、このカテゴリごとに保有トン数の上限を定めることとなった。
これによって、帝国海軍の重巡は古鷹型から高雄型までの計12隻で打ち止めとなったが、条約の
「1919年12月31日までに起工した艦は艦齢16年で寿命、代艦を造って良い」
という条項を利用し、ロンドン軍縮条約終了の1936年までに艦齢16年で退役する11隻の軽巡(艦これメンバーでは天龍から木曾までが含まれる)の代艦として、基準排水量8500トン、15.5センチ(6.1インチ)砲搭載の「軽巡洋艦」の建造が計画された。これが最上型となる。
軽巡ではあるが重巡と同じ事をやらせたい。そのためには敵の重巡に劣ってはならない。
その要求は過酷であり、舷側装甲は高雄より厚い最大140mm、主砲は3連装5基、速力は37ノット、これを8500トンでやれという無理難題が海軍からぶちかまされた。
これをなんとかするために、溶接の採用から始まって、艦橋の小型化も行われ、果ては「艦橋、艦内の一部アルミ製」「構造部材に徹底的に穴を開ける」という飛行機さながらのアクロバットまで駆使して対応する。
しかし無理なものは無理で、航行前の試験、公試航行時、就役直後に遭遇した第四艦隊事件と、立て続けに砲塔が回らない、船体に亀裂が入る、など設計の無理と未熟な溶接技術による初期不良が噴出。
結局溶接からリベット止めにし、無視したらしい設計基準を満たすよう構造部材を補強、当然重心が上がるのでバルジを付けて重心を下げる、などの改良が行われ、排水量は11000トン超え、速度も35ノットと、スペックだけ見るなら「妙高や高雄を主砲だけ軽巡規格にした感じ」というところに落ち着いてしまった。
ただしそれまでの重巡と異なり、兵員室には三段ベッドが初めて採用されるなど(それまではハンモック)、居住性に配慮がされていたのが明らかな進歩である。
なお、この条約の穴を突いた「重巡並みの戦闘力を持つ軽巡」最上型に対抗すべく、英米はそれまで半ば持て余していた軽巡保有枠を使って同じコンセプトの大型重武装の軽巡であるブルックリン級(米)やタウン級(英)を建造。
そしてあくまで条約逃れ程度に考えていた日本と違い、英米ではこれらの重武装軽巡がその後の軽巡のスタンダードとなったのであった。
1939年、主砲を15.5センチ3連装砲から20.3センチ連装砲に換装し、事実上の重巡洋艦となる。
この20.3センチ砲は砲身が15.5センチ砲よりもやや長く、そのため換装後は2番砲塔にやや仰角を付けなければ一番砲塔にぶつかってしまい、前を向かせられない状態となってしまった。
なお、取り外された砲はあるものは大和型戦艦の副砲に、またあるものは軽巡大淀の主砲に、あるいは陸の上で対空砲にと使われ、かつての所有者である最上型姉妹が全員撃沈された後も戦い続けている。
最上はその後、最上型の妹3隻とともに第7戦隊を編成、羅針盤の妖精栗田健男少将指揮の下、太平洋戦争に突入する。
この編成のまま運命のミッドウェー海戦に参加。
作戦が失敗に終わった後の撤退時の夜間、旗艦の熊野が潜水艦を1隻発見。
回避するべく「左45度回頭」の信号を発したのだが、運悪くその直後にさらにもう1隻潜水艦を発見、さらに45度、合計90度左に回頭するためにもう一度「左45度回頭」の信号を発した(一回目は信号灯で、二回目は電話で発した)。
ところが後続は二回目を一回目の念押しであると誤解、陣形が混乱した結果最上は三隈の左舷に艦首から衝突、艦首がへしゃげてしまう。
翌日にミッドウェー島からの空襲を受け、最上の護衛に当たっていた三隈が沈没、最上も大破した。
ミッドウェー海戦での損傷修理時に、最上は航空巡洋艦に改造される。
後方の砲塔2つを取り払い、甲板も艦橋付近の最上甲板から一続きになるようにかさ上げしてまっさらな航空甲板となった。
艦首側に背負い配置の主砲、煙突より後ろはすべて航空甲板含む航空機運用設備という艦容は、何となく海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「はるな」型や「しらね」型に見えてくる。見えると言って。「ヘリ搭載護衛艦の先駆けのような僕だからね」と言って胸を張っている最上がかわいそうでしょう。
艦載機は水上機を11機搭載出来、新型機瑞雲の搭載が計画されたが、まず使うと決まった瞬間に欲張った仕様が突如追加されて瑞雲の開発と生産がお察しくださいとなり、数が出そろった頃には今度は戦況がお察しくださいとなってしまい、結局瑞雲を積んだことは無く、それどころか従来の水上偵察機でも11機をフルに搭載することはついに無かった。だから無念を晴らすためにスロットに瑞雲ガン積みするんだぜ!
1943年4月に改造が完了するが、その後ラバウルに進出してすぐに空襲をくらい小破。
1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加。
1944年10月18日、捷一号作戦発令。最上は西村艦隊所属として扶桑、山城、満潮、時雨らとともにレイテ湾を目指して出撃する。
10月24日早朝、最上の水上偵察機がレイテ湾の偵察に成功、敵兵力について報告した。(最上の戦闘詳報によるとレイテ湾内の敵兵力は戦艦4隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、飛行艇?15隻、魚雷艇14隻、輸送船80隻とされている)
一説にはこれは日本側が唯一知り得たレイテ湾内の情報とされる。
10月25日深夜、スリガオ海峡にて夜戦となったが、まずは本来ならこちらの十八番だったはずの魚雷戦をくらい、それを突破した先にはレーダー装備の戦艦、巡洋艦が待ち構えていた。
陣形はT字不利、敵はレーダー射撃。最上のレーダーは島影と艦影の区別が付かずに役に立たない。
艦隊は滅多打ちにされレイテ湾への突入はならず、大破した最上はかろうじて戦場を脱出する。
退避時に最上から2時間遅れでスリガオ海峡にさしかかった志摩艦隊の那智と衝突するが、最上側は大事には至らなかった。
その後曙の護衛で退避を続けるものの、翌朝空襲を受ける。火災を起こしたがもはや消火の見込みが無く、曙を横付けして総員退艦の後、魚雷によって処分された。
1944年12月20日、艦籍より除籍。
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