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朝潮太郎


ヨミ: アサシオタロウ
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朝潮太郎(太郎とは、元大相撲力士である。過去4人この四股名を名乗った力士が存在する。

本項では現在年寄・高砂である4代について記述する。


概要


1955年高知県室戸市生まれ。本名は長岡(ながおか すえひろ)称は「大ちゃん」で名前にかすりもしないが、これは体の大きさが由来。

近畿大学学生横綱を獲得。1978年3月場所、高砂部屋に入門記者会見で「今度はプロ横綱します。」と発言した。

入幕2場所大関を破り、初土俵から6場所で大関を破る当時の新記録を立てた。翌3月場所に「」に名するが上位総当たりの地位で8連敗、9日にようやく勝ち名乗りを受けるものの大関の休場による不戦勝であり周囲をがっかりさせた。そこからしばらく幕内下位でくすぶり「相撲を辞めてたこやき屋でもやろうか」と考えていたという。

兄弟子の高見山富士かわいがりを受けて鍛えられ、1980年3月場所に北の湖を引き落としで破り初金星を獲得。以後横綱キラーとして上位に恐れられる。だが好不調の波がしく「連相撲」の傾向があり、千代の富士、琴の里、若島津大関昇進争いで先を越されてしまった。1982年11月場所「朝潮」に名すると以後二桁勝利を続け、1983年3月場所に終盤支度部屋で足を痛めるというドジをやらかしながらも12勝で大関昇進を決めた。昇進伝達式では「今までの倍稽古をして」と言おうとも考えたようだが、 その巨体ではすぐ息が上がってしまう事は明らかなため取りやめたとか。

大関では傷休場するなどしばらくパッとしなかったが、突き押しに加え左四つでの寄りを磨いたことで成績が上向き始め、1985年3月場所に若を破り念願の初優勝を果たす。この頃は立合いでぶちかます度に額から出血し、時には顔を二分するほど凄まじいものだった。だが翌場所11勝4敗に終わりプロ横綱への昇進は果たせず、以後稽古不足の影から前に落ちる相撲立つようになって9勝6敗が多いクンロク大関と化していった。

落ちるまでの距離がどれだけ短くなったか?千代の富士に敗れた相撲が如実に示している

1982年5月場所優勝決定戦で一直線で土俵の際までいって落ち敗戦。

1985年5月場所千秋楽ではそれより2・3歩く落ちた。

1986年9月場所14日は仕切り線と徳俵のちょうど中間でくも倒れていた。

番ではなかった1989年3月場所に初日から4連敗して引退。年寄若松を襲名し若松部屋を継ぎ、若、朝青龍らを育てた。2002年に高砂部屋と合併して高砂に名跡変更し現在に至る。

千秋楽に勝てば勝ち越しという場面を7回迎えて全勝しており、「7勝7敗の朝潮横綱より強い」とまで言われた。大関番の場所で北に勝ち陥落の危機を免れたこともある。朝潮型はガチかというと疑問符がつくが。11勝以上が3回しかなく東正大関になったのはわずか2場所だけだが、最高位大関以下で歴代1位の26場所連続勝ち越しを記録し番も3回しかない。優勝争いから々に脱落するが、後半に横綱大関を破り時には助け合いながら最終的には8〜9勝で終えるのがいつものパターンだった。大関以下での横綱40勝は歴代最多で、とりわけ北の湖には13勝7敗と大きく勝ち越している。対戦の内訳と要因についてはWikipediaを参照されたい。

親方としては何かと人騒がせな朝青龍師匠としてその監督責任が問われ、朝青龍の不本意な形での引退によってますます批判されることになった。しかし立浪(元関脇安念山)と対立し優勝なしのまま業した双羽黒(北尾)を思えば、高砂親方の放任義的な朝青龍を大横綱へと成長させるのに適していたと言うこともできまいか。ちなみに北尾は立浪部屋の稽古をサボって高砂部屋に出稽古し、朝潮らとよく肌を合わせていたという。

的で器の大きいキャラクターから、いしいひさいち4コマ漫画ワイアサシオや』や木村えいじ漫画『達磨』で主人公モデルにもなっている。実際の朝潮本人と各作品の描写は大きくかけ離れているが突っ込んだら負け


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最終更新日: 15/01/25 23:42
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