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東京大空襲


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東京大空襲とは、大東亜戦争末期に発生した、東京都に対する大規模な襲である。


概要


最も犠牲者が多かった1945年3月9日深夜から3月10日にかけて行われたものをこう呼ぶことが多い。

後述するように米軍爆撃機B-29東京都に現れたのは3月9日からだったが、最初の爆弾投下が日付が変わって3月10日に入ってから行われたので、東京大空襲の日付はどの場合「3月10日」と表現される。東京都3月10日を「東京都平和の日」と制定している。

ただし同年4月5月にもかなり大規模な爆撃が行われており、これらも「東京大空襲」と呼ばれることがある。


背景


1945年2月19日第20航空部は弱な前任者を解任し、新たにカーチス・ルメイ少将を据えた。日本航空工業をちまちま爆撃するより、焼夷弾を使った差別攻撃に方針を転換したのだ。2月25日174機のB-29東京を初襲。高高度から450トンの焼夷弾を投下し、2万7970戸が焼失した。日本軍機の迎撃で6機が撃墜されている。3月4日、二度東京襲が行われた。159機のB-29が襲来し、東京中島飛行機工場を狙って500トン爆弾を投下したが、破壊に失敗。アメリカ軍は高高度からの爆撃は効果が薄いと判断した。

そこでルメイ少将は幕僚や部下の飛行長を集め、より強な打撃を日本に与えるにはどうすれば良いかと議論を重ねた。その結果、次の出撃では爆撃機から機弾薬と射手を外し、焼夷弾の搭載量を増やす悪魔的発想が生まれた。さらに攻撃は間とし、高度1500~2000mの低で侵入して爆撃の効率化を図った。この案は第314飛行団のパワー准将や参謀副長のモントゴメリー大佐などから賛同を得たが、今までにい低爆撃は搭乗員に相当な不安を強いた。低爆撃は「死の宣告」と受け止められたとか。ルメイ少将ワシントンへの報告をわざと遅らせ、全責任を負う覚悟で部下を送り出した。アメリカ軍関東大震災を研究し、2年前の1943年には実際に木造住宅の模型を作って焼夷弾のテストを行っていた。

マリアナに展開していた385機のB-29作戦に投入され、3月8日未明に出撃していった。これはマリアナに在機するほぼ全ての機であった。ただ実際に東京まで辿り着いたのは279機とされる。


東京大空襲


3月9日、この日はとてもが強かった。

21時30分、警警報が発伊豆半島を通過するB-29の大編隊が捕捉され、軍が警を始める。1時間後には臣民にも警警報が出され、やがて2機のB-29が出現したが、爆弾を落とす事く去っていった。まもなく警報は解除、臣民は安心して眠りについたが…。先ほどの2機に先導された大編隊が日本本土上に侵入。太平洋沿には日本軍レーダーが設置されていたが、通常の侵入高度である高高度に向けられていたため反応せず、対応が遅れた(強レーダーが妨げられていた説もある)。この強は迎撃機の出撃をも妨し、被害を拡大させる要因となった。

翌10日午前0時8分、初弾が江東区に投下された。工業地帯に近い下町を狙い、臣民に厭戦気分を与えるのが的だった。同時にアルミ片をばら撒き、電探を化した。編隊を捉えたサーチライトには機掃射が加えられ、迎撃をめる要素は速やかに排除されてしまった。初弾投下から7分後に警報が発されたが、この短い間に大量の焼夷弾が投下されてしまった。火のは強に煽られ、みるみるうちに火勢を強めていく。7分の間に脱出できたかどうかで臣民の生死を分けたと言っても過言ではなかった。猛火の前ではバケツリレー消防車も役に立たず、逆に消防車消防署が焼かれて機を喪失した。放ポンプを稼動させても、酸素不足でエンジンが止まってしまった。炎の突は容赦なく町中を駆け回り、逃げ遅れた人を焦げにした。速は12.5mを記録し、火の粉を撒き散らして延焼を加速させる。大火災は上昇気流を発生させ、火災旋風を巻き起こした。防演習の通り防火に当たった者、具を持ち出そうとした者は例外なく焼かれた。人々は炎から逃れるべく隅田荒川に飛び込んだが、は氷がるほど冷たく、凍死を招いた。北は墨田区の北端、南は東京湾、東西では日本橋上野荒川間にまで燃え広がった。墨田区奇跡的に火の手から免れたが、それ以外はほぼ全てが炎に包まれた。

東京を焼く猛火は60km離れた場所からでもい知れた。まるで日の出のように明るかったと伝わる。後続のB-29はこの火を印にして殺到。更なる焼夷弾をバラまいた。東京上空には凄まじい上昇気流が起こり、B-29の巨体ですら揺さぶられて搭乗員が大怪を負う事態が発生した。初動が遅れたものの、日本軍側も迎撃機を発進。陸軍からは飛行第23、5370戦隊の42機が、海軍からは第302航空隊の月光4機が出撃。地上の高射砲と協同してB-29に攻撃を仕掛けた。しかし燃え盛る炎から発生する煙は迎撃機の離陸を妨し、十分な戦を送れなかった。煙は7000mに達し、飛び立てた機体も視界不良の中で敵機を探さねばならなかった。それでもアメリカ側の資料によれば40回の攻撃を受けたという。

午前2時37分に警報は解除された。しかし火勢は止まらず、最終的に鎮火したのは燃える物がくなった午前8時だった。東京の下町は文字通り廃墟と化した。35区(当時)中29区が被災し、本所区と深区が壊滅。城東区、向区、浅草区、日本橋区がほぼ全滅、下区、荒川区、麹町区、本郷区、神田区が半焼する大損となった。消火にあたった消防隊員125名が死亡ないし行方不明となり、消防団員500名以上が死傷。消防車96両、手挽きポン150台、1000本が焼失した。

アメリカ軍被害は14機のB-29を喪失した程度だった。このうちの1機は高射砲によって撃墜された。53名の搭乗員が戦死し、6名が落下で脱出したが日本軍拘束された。のちに第314爆撃団所属の3機が宮城山形の県にある不忘山に墜落していた事が判明。何故東京から遠く離れた不忘山に墜落していたのかは戦後ミステリーとなっている。搭乗員34名は全員戦死。


その後


襲後の東京はまさに地獄だった。至る所に焼死体が転がっており、身元すら判別できなかった。火葬場も焼けてしまったので、都内67ヶ所の公園寺院き地が死体の仮置き場となった。あまりにも死体が多かったために埋葬がとても追いつかず、学徒や巣鴨刑務所囚人まで動員。5日間で処理された遺体は7万2439体に及んだ。警視庁の調によれば焼失屋は26万717戸(都の25%)、災者100万8005名、負傷者4万918名、死者8万8793名とされた。死者はのちの原爆投下時よりも多かった(広島原爆投下による死者は9万人から十数万人と推計されているが、この数値は放射線によって数かかけて亡くなった人も含んでいるため、「当日の死者」は東京大空襲の方が上と推定されるのである)。この想像を絶する殺戮劇に、臣民は「鬼畜メイ」「皆殺しのルメイ」と呼んで憎悪したという。

救護活動のため、陸海軍の部隊が出動。海軍秋葉原周辺で遺体回収作業を行い、陸軍医学校から来た救護班は碧素(ペニシリン)や燥血漿といった最新製剤を使用して救護にあたった。本所学校に開設された救護所には石井式濾機が投入され、隅田を浄化して飲用にしていた。軍のトラックが、荷台に遺体を満載して走っていく様子も撃されている。襲の数時間後、NHKアナウンサーは大衆の虐殺を非難し、惨状を生々しく伝える放送を行った。3月10日正午、大本営から発表があり「B-29爆撃機130機が都市地を盲爆し、各地に火災が発生したが、午前8時頃までに鎮火。15機を撃墜し、50機に損傷を与えた」と伝えた。屋を失った人々は疎開するか、親戚等の身内のに身を寄せるしかなかった。4月19日陸軍の東部軍が焼け跡からや非金属、耐火レンガを回収し軍需物資に充てた。

東京大空襲の報復として第6艦隊は伊400によるサンフランシスコ爆撃を提案し、軍部が検討に入った。しかし小沢三郎中将の反対によって実現しなかった。

戦後1948年から1951年にかけて、東京都は仮土葬した遺体を発掘し、めて火葬したのち慰霊堂に納した。しかし全ての遺が回収された訳ではないようで、1983年12月23日墨田区公園の工事現場から人が出土。戦災遺であると判断された。1986年には台東区によって隅田公園に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」が建立された。また、2001年には東京都により都立横網町公園に「東京襲犠牲者を追悼平和を祈念する碑」が建立された。他にも本所警察署や神社閣に当時の犠牲者をぶ碑文や慰霊碑が建てられている。

東京都平和祈念館

上記の通り、東京大空襲での当日の死者は原爆投下当日の死者よりも多数であり、第二次世界大戦全体で見ても有数の大惨禍であった。しかし2019年現在に至るまで、広島市の「広島平和記念資料館」や長崎市の「長崎原爆資料館」のような立の記念館・資料館・祈念館は設立されていない。が、かつてこのような施設を建設する計画はあった。

1970年に設立された「東京襲を記録する会」は東京大空襲の体験記や日公式記録などを収集、1973~1974年に『東京大空襲・戦災誌』全5巻(「関連商品」参照)として出版した。この会の延長上に1975年に「東京襲・戦災記念館をつくる会」が設立され、記念施設の建設運動が開始された。そして1996年には「東京都平和祈念館(仮称)建設委員会」が東京都に設置され、平和祈念館建設に向けた具体的な動きが始まった。

しかし1997年、建設委員会による展示内容の検討案について、日本戦争についても展示する計画であることを「自虐史観だ」と問題視するがあがり議論が紛糾。1999年には「平和祈念館の建設に当たっては、都の厳しい財政状況と従来の経緯を十分踏まえ、展示内容のうちいまだ議論の不十分な事実については今後さらに検討を加え、都議会の合意を得た上で実施すること。」という付帯決議が採択。それから20年経過した2019年現在も展示内容をどういったものにするかについて「都議会の合意」は得られておらず、凍結状態にある。建設に向けて都民から多数の資料の提供を受けていたが、それら資料も倉庫に保管されたままになっている。

この状況を受けて、財団法人(当時)「政治経済研究所」と上記の「東京襲を記録する会」は立施設の設立を待たず民間で施設を開設することをした活動を共同で開始。2000年から集めた1億円以上の募を資として、2002年政治経済研究所の付属博物館「東京大空襲・戦災資料センター」を開館している。


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最終更新日: 21/02/20 11:19
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