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松井秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日-)とは、石川県出身の元プロ野球選手(外野手)である。
OB | |
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松井秀喜 | |
基本情報 | |
国籍 | [画像を見る]日本 |
出身地 | 石川県 |
生年月日 | 1974年6月12日 |
身長 体重 |
188cm 100kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1992年ドラフト1位 |
引退 | 2012年 |
殿堂入り | 2018年 |
経歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
星稜~読売ジャイアンツ~ニューヨーク・ヤンキース~ロサンゼルス・エンゼルス~オークランド・アスレチックス~タンパベイ・レイズ。
ポジションは外野手(巨人時代は右翼手や中堅手。ヤンキース時代は左翼手)。背番号は巨人時代からアスレチックス時代まで55。レイズでは35。ゴジラ(Godzilla)のニックネームでおなじみのスラッガー。
子供の頃から野球に親しんだ。この頃から既に、相当に大柄な体格をしていたという。
好きなチームは阪神タイガースで、クリーンナップを務めていたバースや掛布雅之に憧れていた。後に左打ちに転向した理由の一つに、彼らが左打ちであったことを挙げている。
星稜高校に入学し、もちろん野球部に入部。人並みはずれた背筋力やバーベル上げを披露し周りを驚かせた。主将に任命された三年生のセンバツ(1992年)で本塁打を量産し、世間の注目を集めた。そして同年の夏の甲子園大会における、あの「五打席連続敬遠」を経て、多くのプロ野球関係者が、未来の大物としての姿を予感したという。
同年のドラフトでは巨人・阪神タイガース・中日ドラゴンズ・福岡ダイエーホークスの4球団から1位指名され、抽選の結果巨人が交渉権を獲得。
憧れの阪神というわけにはいかなかったため、松井は若干複雑だったが、当時の監督・長嶋茂雄が電話で直接会話する等の誠意に感銘を受け、巨人への入団を決めた。
入団直後はプロの洗礼を受け二軍スタートとなるも、好成績を残しすぐに一軍へ昇格。
まずは中畑清打撃コーチ(当時)から付きっ切りの指導を受けることとなり、次いで、長嶋監督自らがマンツーマンでの指導を開始。
1000日をかけて松井を巨人の4番打者に育てるという「4番1000日計画」の下、とにかく来る日も来る日も長嶋から指導を受け続け、打撃技術を伝授された。
その後の活躍は言わずもがな。渡米する2003年までの10年間、巨人の主砲として、またチームの顔として多くの貢献をした。
MVP(3回)、首位打者(1回)、本塁打王(3回)などのタイトルも獲得。2002年には50本塁打を記録した。
ちなみに、実際に巨人の4番打者に定着するまでには2000日以上がかかっていた。
2003年、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍。
選手層の厚いチームながらも活躍し、2004年にはシーズン31本塁打を記録した。これは現在、アジア人メジャーリーガーの最高記録である。2005年には、打率・打点・本塁打のすべてでイチローを抑え日本人トップの成績を残した。
しかし、この頃から膝を中心に体の不調に悩まされ始め、特に2006年には守備中に左手首を骨折。これによって、連続出場記録が「1768」で途切れ、以降引退までその影響が続くこととなった。
2009年には、これらの故障や、アレックス・ロドリゲスの復帰もあって活躍の機会がより少なくなり、退団の噂も囁かれたが、最終的に28本塁打、90打点を記録。そしてワールドシリーズでは13打数8安打、3本塁打8打点、1試合6打点(ワールドシリーズ記録タイ)という怒涛の暴れっぷりを見せワールドシリーズ制覇に貢献。アジア人初のワールドシリーズMVPに選出されるなど、勝負強さを見せた。
シーズンオフに入ると11月10日(日本時間)にFAを申請、12月15日にエンゼルスへ移籍した。
2010年は4月26日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー通算1000本安打を達成し、その後の打席で500三振を喫した。6月26日のコロラド・ロッキーズ戦では満塁ホームランを放ち、通算150号を達成。最終的に21本塁打、84打点を記録。しかし月によって調子の波が激しく、左投手時に起用を見送られることが多くなった。
シーズンオフ、11月2日に1年契約が終了しFAに。12月14日にオークランド・アスレチックスと契約した。
2011年は途中トレードが噂されるも、シーズン最後までアスレチックスに所属。9月10日のテキサス・レンジャーズ戦で日米通算505号を達成。しかし最終的に12本塁打、72打点とMLB移籍後ではワーストの成績に終わり、10月31日にFAとなる。
長期間無所属の状態だったが、2012年4月30日にレイズとマイナー契約を結び、5月29日にメジャー昇格。松井といえば背番号55だが、レイズでは35を背負う。しかしレイズでは全く結果を残せず、7月25日に戦力外通告を受けた。
その後は自由契約となって他球団からのオファーを待ったが獲得に動く球団はなく、12月28日、現役引退を表明。
2013年、恩師である長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を受賞。5月5日の読売ジャイアンツ対広島東洋カープ戦(東京ドーム)にて長嶋茂雄と共に第96代内閣総理大臣安倍晋三から授与された。その後、始球式で投手を務める(投手:松井秀喜、打者:長嶋茂雄、捕手:原辰徳、審判:安倍晋三)。7月28日にはMLBの1日契約制度を使用してヤンキースと契約。ヤンキー・スタジアムにて、ヤンキースの功労者として引退セレモニーが行われた。現役引退後はヤンキースのGM付特別顧問に就任して、現場指導を通してGMの補佐を行なっている。
現役中にワールドベースボールクラシック(WBC)が2回あり、松井にも招集が来たが、いずれも出場していない(2006年はWBCの趣旨に疑問を感じ辞退。2009年は出場意欲があったが、手術開けの左膝の状態が良くなかったため辞退)。
2018年1月15日に殿堂入りが発表された。43歳7ヵ月での殿堂入りは史上最年少となる。
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松井を語る上で、避けて通る事のできない衝撃的な試合とも言われているのが、明徳義塾戦での出来事。詳細は松井秀喜5打席連続敬遠 - Wikipedia[外部]を参照。
『選手宣誓でのスポーツマンシップに反する』『ルール上OKなのに批難されるいわれは無い』など今でも紛糾は止まない。スタンドから物が投げ込まれたり、試合後には明徳へのブーイングや爆●予告など外部にも波紋するほどの社会現象に発展してしまう。
松井自身は悔しい気持ちこそ滲ませていたが憎むわけではないコメントを出しており、その後2002年に明徳が優勝した際は、「あの敬遠は打者として誇り」とコメントした。
KYOKUGEN2013にて相手投手と21年ぶりに再会し、一打席のみ勝負をする。ストライクが2球来たものの、その後ボールはストライクゾーンに入らず、フルカウントからフォアボール。敬遠の時とは違い、勝負をしたフォアボールに終わった。その後互いに再戦を誓った。
メークドラマと呼ばれた、巨人が大逆転優勝したシーズン。リーグ最終戦まで山崎武司と本塁打王を争っていたが、山崎に1本リードされて迎えたシーズン最終戦の中日戦では、すべての打席で敬遠されてタイトルを逃した。五打席連続敬遠の残像もあり、巨人ファンからのブーイングは相当なものであった。マスコミの質問に対し当時の中日監督・星野仙一は「打たれた投手は一生記録に残る」と一喝。松井本人は高校時代のそれよりは(チームが優勝したのもあって)それほど悔しくないとコメントした。
▲球団 | レス | No | プレイヤー |
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