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柴田政人


ヨミ: シバタマサト

柴田政人とは、かつてJRAで活躍した元騎手である。現在調教師。
所謂騎手世代の一つである馬場の15期生の一人。

柴田善臣は彼の甥である。また元西武ライオンズ柴田博之も彼の甥にあたる。


義理の柴田


通算勝利1767勝と同期岡部幸雄2954勝には大きく離されているが、岡部が10年ほど現役が長かったことを差し引いても、彼の方針が影している。

柴田は、世話になった高松三太の管理に彼が死ぬまで乗り続けた。そして彼が死んだあとはその息子である高松邦男の厩舎に移り、引退するまで所属であり続けた。
このように義理と人情を重視して騎乗を選択し、更に他人が乗ったを強奪するような乗り変わりはしなかった。ビジネスライクに考えて騎乗妥協しなかった岡部とは逆の選択である。

高松親子との繋がりは競馬界でも有名であり、三太の死去時は「自分の親が死んだとしても、これほどの虚脱感にとらわれるかどうか」と嘆くほどで実親よりもその信頼感は深かったことが見て取れる。

井崎脩五郎は、「岡部と同じようにしてたら2500勝はしていた」と称している。


柴田と岡部


このように岡部柴田逆の考え方であったが、それは乗り方にも表れた。

岡部最低限の働きかけで勝つという優先義の論者であり、柴田を制御し追う剛腕として知られている。
岡部柴田にもフリーになったらどうだと勧めたこともあったが、柴田は「岡部の気持ちもやり方もわかる」と言いながらも断っている。

とは言え同期であり、私的な場では仲の良い友人であるようだ。岡部引退した時は引退セレモニーにも出席し、同じく同期伊藤正徳と共にを手渡した。


柴田と福永


また「不世出の天才」と謳われた同期福永洋一とは二の親友と言った関係で、79年彼の引退の原因となる落事故が起きたとき、翌日すぐに病院に行き集中治療室へ駆けつけた。

彼の息子福永祐一デビューした時は裏で働きかけたとも言われる。と言うのも一が初クラシックを獲った桜花賞プリモディーネアローエクスプレスと同じく柴田と仲のいい伊達秀和だったからだ。
柴田の人となりを見ると可性は高いと思うがどうだろう。


ダービーを獲りたい


さて柴田る上で外せない事柄はやはり日本ダービーへのこだわりだろう。
シンザンダービーを見た柴田ダービーを勝ちたいと思ったというが、そのは険しいものであった。

ダービー挑戦は3年1969年ダンデイボーイで、結果は23着(28頭立て、1頭競走中止)に終わった。
次のチャンス70年のアローエクスプレス、だったのだが皐月賞念の乗り替わりで戦を降ろされた。
75年のロングホークは稀代の逃げカブラヤオーには勝てず。
78年のファンタスト皐月賞を勝ちクラシック初制覇したものの、ダービーは10着に敗れた。
85年のミホシンザンは本当に大チャンス…だったのだがケガにより出走できず。
88年はコクサイトリプルで挑んだが、相手がサクラチヨノオーでは分が悪く3着。

この88ダービー前日に柴田記者に「コクサイトリプルでダービーを勝てたら、もう騎手をやめてもいいくらいの気持ちで臨みます」と言ったのだが、なぜか新聞では「柴田政人、ダービー勝ったら騎手引退」とされて、世間にも「柴田ダービー勝ったら引退する」と広まってしまった。まあマスゴミにはよくあることだ。

91年はイイデセゾンで3着。トウカイテイオー相手じゃなぁ。
92年はアサカリジェントで出走の予定だったがまたケガで挑戦すらできなかった。

93年。もう柴田44歳、否応なしに引退という二文字が背後に迫ってくる年齢に差し掛かっていた。
もう残された時間は少ない。そんな彼が跨るは…


掴んだダービー勝利への特急券


そのウイニングチケット93クラシック戦線の3強を形成しBNWと称されたWである。
ライバルのB:ビワハヤヒデ同期岡部が、皐月賞を制していたN:ナリタタイシンは若きエース武豊がそれぞれ騎乗していた。岡部皇帝シンボリルドルフでもうダービーを勝っていた。

これで勝てなきゃもうチャンスはない、そう柴田も思ったのだろう。マスコミにも優しい彼がこの時のダービー寸前に限ってはインタビュー拒否する程入れ込んでおり、ファンも「柴田ダービーを獲ってほしい」という応援券が後押しし、ウイニングチケットは1番人気になった。

本番ダービー柴田めに仕掛け、残り200mで先頭に立ったが、すぐ左にはビワハヤヒデ、右後方にはナリタタイシンが迫ってきており、の形相で柴田は追った。「慢してくれ、頑張れ!」と叫んだとも。ビワハヤヒデに一度は並ばれるも再び伸びたウイニングチケット、そのままゴールへと駆け抜け、ビワハヤヒデに1/2身つけて勝利

柴田ダービージョッキーになった。大観衆から巻き起こる「政人!政人!」の彼を称える援が巻き起こり、勝利騎手インタビューで彼は「世界ホースマン60ダービーを勝った柴田ですと伝えたい」とったという。


その他名馬との出会い


アローエクスプレスは3年で出会った高松厩舎の逸材…だったのだがそれ故に若手だった柴田に任せられず伊達は当時の関東トップジョッキーだった加賀武見に戦を変更を示している。この時の末はの方の記事を参照。

柴田が初のクラシックを獲ったファンタストアローエクスプレスの甥であり、はやはり伊達であった。

1980年天皇賞(秋)ではプリテイキャストで大逃げを決め、見事3200mをが逃げ切りというこの先もないであろう快挙を達成した。
が実は、たまたまプリテイキャストが好スタートを切って、4コーナー暴走したのをも柴田が予見していて、行かせることにしたというのが本当らしい(プリテイキャストは抑えるとやる気をなくすので逃げるしかなかったである)。

1983年キョウエイプロミスを制し、ミスターシービー不在のジャパンカップ海外の取材が「シービー出ないとかやる気あんのか」と詰め寄るところに高松が「うちのキョウエイプロミスが相手を務めるわけです」と吹き、柴田も「勝ちに行きます」と続いた。そして日本初のジャパンカップ2着を獲得するわけだが、プロミスはその代償に引退となった。
その後柴田も騎手人生を棒に振りかねない騎乗中の事故を起こすが、見事復帰した。

85年はミホシンザン皐月賞菊花賞の2冠達成、まあ有馬記念岡部ルドルフにちぎられるが、87年の天皇賞(春)は獲得した。

89年はイナリワン平成初の有馬記念を制した。

ウイニングチケットダービーを獲った翌94年、落事故により重傷を負い、リハビリを続けていたが以前の騎乗ができなくなったことを理由に引退を表明した。結果的にだが柴田ダービー獲った翌年に引退表明したことになり、ダービー勝ったら引退は強ちではなくなった。


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やっぱり柴田政人と言えばこの。      海外勢を黙らせる乾坤一擲の騎乗

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シンザンの最高傑作             伝説の大逃げ


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最終更新日: 19/02/08 17:13
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