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王政復古


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王政復古とは、一度された、もしくは弱体化した王政を再する事。歴史上行われた王政復古として著名なものは以下の通り。

  1. の王政復古。建武の新政幕末期の王政復古がある。
  2. フランスの王政復古
  3. イギリスの王政復古
  4. スペインの王政復古
  5. カンボジアの王政復古

本記事では幕末期の王政復古について扱う。


概要


王政復古とは、慶応3年12月9日(グレゴリオ1868年1月3日)に起きた政変である。『王政復古の大号令』『王政復古の政変』『王政復古クーデター』とも呼ばれる。

慶応3年10月14日江戸幕府第十五代将軍・徳川慶喜は、大政奉還の上表文を朝廷に提出し、翌15日、朝廷はこれを許した。これにより260年続いた江戸幕府は名上は政権を朝廷に返上した形となった。

ほぼ同時期、岩倉具視らによって薩摩長州に『討幕の密勅』が降された。17日、薩摩士・小松帯刀西郷吉之助大久保一蔵らはこの密勅の他、大政奉還勅許や諸侯召集の沙汰書を携えて鹿児島に戻った。26日、鹿児島に到着した一行は島津久光島津茂久にこれらの書類を提出して政変決行の為の卒兵上め、これが承認された。

この動きと連携する形で長州、安芸(広島)においても出兵の段取りが開始され、長州世子・毛利定広と安芸世子・浅野長勲は27日に会談し、出兵に合意。次いで定広は11月18日三田を訪れた島津茂久とも会談し、出兵する事で合意した。この長芸三軍事同盟の的は、大坂を根拠地とし、薩摩軍を中心に御所を占拠。政変を起こして明治天皇を擁し、京都から脱出後広島に動座。その後西を糾合して幕府に対抗し、従わないに対しては武行使も辞さないというものであった。11月18日から末にかけて長芸三の軍は各地を出立し、京阪に向かった。


慶喜の韜晦


10月15日、大政奉還を受理した朝廷は、大政奉還後の政治体制を決定するための大名会議を催すべく、11月中までに全諸侯に上するよう促していたが、上したのは薩摩、安芸、尾越前(福井)、大聖尼崎、福知山、園部水口柏原、西大路狭山の計十六に留まった。

この間徳川慶喜朝廷に対し、諸大名が上するまでの間、幕府の政務はどうするのかと問い質しており、朝廷からは10月22日に「これまで通り」とする言質を得ていた。また、外交政策については朝廷は「外の情に通じ両三と申し合わせ、取り扱うべく事」と回答したが、両三という文言が薩摩、土佐、安芸などを連想させた事が在士から問題視され、23日には二十四士らが京都丸山でこれに抗議した。24日、慶喜は将軍職の返上も訴えたが、26日に朝廷から却下され、内政・外交共にこれまで通りとするよう回答された。このように、慶喜は大政奉還後、宙に浮いた政権に最も手の届く位置に居り、薩摩をはじめとする反幕府勢に対する在士からの反発も根強かった。このまま何事も起きずに大名が上して議会が設立されれば、幕府を率いる最大の大名として盟の地位に就き、実質的に政権を維持し得る事もあり得た。


慶応三年師走・京都


11月に上した大久保一蔵西郷吉之助岩倉具視と政変の計画を進めつつ、討幕の密勅の共謀者である中山忠能中御門経之正親町三条実愛らの動揺を抑え、12月初旬には政変への決意を固めさせた。政変計画の内容は、軍による御所の占拠、王政復古の宣言布達、幕府・摂関制度の絶、岩倉三条実美・長州子らの処分解除、徳川慶喜に対する辞官納地等である。

決行ははじめ12月5日に定められたが、2日に西郷大久保が土佐参政・後藤象二郎に政変を起こす事を伝えると、後藤は賛成はしたものの、君である山内容堂が上していない為、8日まで延期して欲しいと告げた。西郷大久保は承諾したが、後藤は5日、中山忠能の元を訪れ更なる延期をめた。更に松平春嶽に政変の動きのある事を通知し、それが嶽から徳川慶喜通報された。しかし慶喜はこの時特に動こうとはせずに状況を静観していた。

7日、後藤から延期をめられ動揺した中山が決行を9日に延期するよう岩倉めた。岩倉は拒否したが中山の意志が固いためこれも止むく容れられた。

8日、議があり、ここで岩倉三条実美、長州子などへのこれまでの処罰を全面解除とする事に決まった。この日大久保らは味方に引き入れる卿・皇族を人選した上で明日政変を起こすと伝えた。岩倉は政変に参加する予定の薩摩、土佐越前、尾の計四の関係者を集め、天皇から王政復古の内勅が降ったとして兵員の出動と当日の配備について通達した。議が深夜まで及んだため、決行は議散会直後と決まった。


王政復古の大号令


9日朝廷の使者が岩倉を訪れて居・落飾を免じ、参内を命じた。午前10時頃、議終了の連絡を受けた岩倉は、王政復古の宣言文と職制案を携えて参内し、続いて大久保一蔵も参内。同じ頃、西郷吉之助が率いる薩摩軍は以前から御所を守衛していた会津、桑名の兵を立ち退かせて御所の門を封鎖し、安芸、土佐、越前、尾の各の兵も所定の位置に配備された。岩倉中山忠能中御門経之正親町三条実愛の4人は明治天皇に謁見し、王政復古の宣言文を上奏した。

川内府(徳川慶喜)、従前御委任の大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然聞こしめさ。抑(そもそも)1853年)以来未曾有の国難、先孝明天皇)頻年(ひんねん)宸襟(しんきん)を悩ませられ御次第、衆庶の知る所に。之に依り慮を決せられ、王政復古、威挽回の御基立てさせられ間、自今、摂関幕府等絶、即今まず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、万機行なわせらるべく、諸事神武創業の始に原(もと)づき、縉紳(しんしん)武弁堂上地下の別く、至当の議を竭(つく)し、下と休戚(きゅうせき)を同じく遊ばさるべき慮に付き、おのおの勉励、旧来驕懦の汚習を洗い、尽忠報を以て奉致すべく

続いて参内した卿、大名を小御所に集め、王政復古を宣言した。摂政関白、幕府の絶に加え、内覧、事御用掛、議奏、武家伝奏京都守護職、京都代なども絶した。また朝彦親王二条斉敬ら親幕卿、皇族二十数名の参内禁止が命じられた。そして新政府の役職として総裁、議定、参与の三職を規定しそれぞれ任命した。人員は以下のとおり。

三職の人員が決まり、同日夕方から深夜にかけ、新政府発足後の最初の三職会議である小御所会議が開かれた。政変の余波はこの小御所会議に持ち越される事になる。


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最終更新日: 12/03/10 11:47
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