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畠山政長


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畠山政長(?~1493)とは、室町時代に活躍した武将である。


新当主政長


畠山持富の息子畠山三郎畠山義富?)の。山河内越中紀伊守護。次郎。弥次郎。尾守。左衛門督。

彼の父親である畠山持富は、当初管領である畠山の後継者とされていた人物であった。しかし、持はその約束を反故にし、石清水八幡宮の社僧にしようとしていた庶子とする畠山義就を突如後継につけたのである。

その結果畠山持富の亡き後、畠山氏の被官の一部は持息子畠山三郎を擁立。長い戦いの末に、1459年に畠山の対立閥の首だった細川勝元の支持によって、弥三郎勝利することとなった。しかし、弥三郎は直後に亡くなり、1460年9月にそのであった畠山政長が弥三郎の旗頭として督を継ぐことになったのである。こうして見事畠山氏の当となった畠山政長は、従兄弟畠山義就河内に追撃。義就の嶽山を落させると、1461年に管領となる。


応仁の乱の開幕


しかし状況は一変する。1466年に山名宗全支援畠山義就が赦免。畠山に復帰したのである。1467年には管領位も山名斯波義廉に変えられ、畠山政長は上御霊社にを敷く。しかし彼を追撃した義就に敗北した。応仁の乱の始まりである。

こうして彼は細川勝元の率いる東軍に属することとなる。東軍は足利義政を擁立していたため、政長も河内紀伊越中の守護職を保持し、河内の若江、誉田を確保して支配する。ここからの戦いの詳細は応仁の乱の記事を参照してほしい。


政長の最期


1477年の終戦後畠山政長は、三度の管領となり、以後10年にわたって務めあげた。一方畠山義就追討のために河内に発向し、摂津和泉河内で歴戦していく。1488年にも足利義尚から引き続き義就の追討を命じられ、政長が幕府が認めた畠山氏の当として活躍していった。

ところが、破滅は突如訪れる。1493年の明応の政変である。畠山義就亡き後彼を継いだ息子畠山義豊の討伐中に将軍位を据え変える一大クーデターが起き、前将軍足利義稙とともにを構えていた政長は、義豊と立場が入れ替わってしまう。こうして襲撃された政長は、息子畠山尚順を逃がし、自害して果てたのであった。


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最終更新日: 18/03/06 16:58
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